剣仙傳

○文庫

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二:依頼


「……救世大慈大ひ……なんですって?」
 何とも仰々しい名前だと思って、河内二太郎は失笑した。薄く笑いながら、目の前のソファに座る旧知の紳士に聞き返す。あまりに長ったらしくて一度聞いただけでは、とてもはでないが憶えられそうもない。
救世(きゅうせい)大慈大悲(だいじだいひ)庇民滅魔(ひみんめつま)茫洋討邪(ぼうようとうじゃ)貫日一清(かんじついっせい)太乙真人(たいいつしんじん)だ」
 一切の淀みなく、この早口言葉のような名前を言ってのけるのは、三十の半ばを幾つか過ぎた日本人。上海共同租界工部局勤務の野辺之部(のべのべ)貴文(たかふみ)はそう言い終えると、三十分ほど前まで二太郎が寝床にしていた、安っぽいソファに悠然と背を投げ出しながら、先刻出されて今や少しぬるくなった、出涸らしの日本茶にて喉を潤おす。
「それで、のべんべ先生。何者ですか、その救世なんらた太乙真人というのは。なにやら、弟子か何かに出鱈目に強いクソガキがいそうな名前ですが」
 早々と覚えるのは諦めたようである。二太郎としては、丁寧な口調で仔細をたずねる。
 工部局とは租界の一切を取仕切る、政府に相当する行政組織である。そこに勤める役人、加えて十以上年上の相手であるし、そうでなくても、色々と恩のある相手である、自然と口調が改まる。
「うん。最近、上海の租界各所で話題の救世主、神仙どのだ。弟子や信徒からは大仙さまと呼ばれ敬われているようだな。さて、敢えてつけたものかな、太乙真人というのは。講釈と同じ名を名乗る事で、そのイメージを頂戴しようと考えたか」
「神仙ですって? それは新興宗教の教祖かなにかですか、いやそれ以前に、神仙というからには道教でしょうに、大慈大悲というのは確か仏語だったような気がしたんですが、違いましたかね」
 言うまでもないが、ここで言う仏語とは、仏蘭西の言語ではなく、御仏の用語だ。
「さて、主に民衆の崇める崇拝対象だ、そういうものだろう。それに、実際この国では道教の道士が経を唱えていたりすることも、ままあるからな」
「いい加減なもんですね」
「なに、大方はそんなもんさ。我が国にだって、円頂衲衣(えんちょうのうえ)の八幡神がいたりするじゃないか」
 胡乱なことだと呆れる二太郎に、笑いながら垂迹神、僧形八幡の像を引き合いに出す。円頂とは剃髪して丸い頭頂部、衲衣とは袈裟の事である。
 つまりは頭を剃って袈裟を着た僧侶姿ということ。経を唱える神がいるなら、慈悲を垂れる仙人がいてもよいだろう。そんな道理には合わぬが、感性としては解かったような解からぬようなそんな言葉。
「まあ、いいですけどね、何だって。それで、俺にどうしろって言うんです。一丁その集会に乗り込んで、バッサリ手頃に殺してこいやってな感じのご依頼ですか?」
 自分の座る、椅子の横に立てかけた段平の鞘をこつこつ叩きながら、軽く言う。
「おいおい、あまり物騒なことを言ってくれるなよ、ちょっと調査して来てくれって話さ」
「調査、調査ねぇ。何を調査するにもよりますが、それじゃ先ずは、その仙人さまの尊名に、ご在所をうかがっときましょうか」
 尊名云々と言いながら、その実一切の敬意の含まれない軽口を叩く二太郎に、野辺之部はにこやかに笑いながら、こちらもまた軽い調子で言い切った。
「ああ、それは判らん」
「はあっ……何ですって?」
 どういうこったと、聞き返す。聞こえてはいたし、理解も出来たのだが、それでも聞き返せば別の言葉が聞こえてくるのではないかと、ありえそうもない未来を夢に見る。そんな二太郎に、あっけらかんとしてこの紳士は告げていく。
「だから、知らん、判らん、そこから調べてくれ」
「判らんって、先生……」
 それで一体どうしろと、とでも言いたげな顔に、せめて何かを告げねばとでも思ったものか。
「まあ、人の多い処に出没するらしいってのは判っているのだが」
「そいつは、判っているうちに入りませんて」
「……あの、私、判ります。多分、ですけど」
 渋面をつくって黙り込んだ二太郎に、涼やかな声が、遠慮がちにかけられる。嗚咽の名残から来るひび割れをかすかに残しているが、鈴を転がすような若い娘の美声である。
 声の主は、昨晩二太郎が連れ帰った娘である。泣き疲れて眠っていたものが、男二人の話し声に起きてきたものらしい。上着は脱いで、代わりに首から肩を覆う薄い布を羽織り、棒状の包みを変わらず後生大事に抱えている。それが客間代わりの食堂を壁越しに覗き込んでいる。
「ふむ、こちらは?」
 その姿に、興味深そうな眼をした野辺之部が二太郎に問い掛ける。
「ああ、この姐ちゃんは……」
 そこまで言ってはたと気付く。
「そう言や、アンタの名前を聞いてなかったな」
 昨晩はごたごたとしていたし、娘の方でもこの部屋に着くなり、安堵もあってか、ぶり返してきた哀しみに、大いに泣き崩れてしまった。その為に自己紹介をしあっているような余裕は無かったのだ。二太郎に促されて入り込んで来た娘の方も、粗相をしたと決まり悪げに微笑むと、改めて日本人二人へと名乗った。
「私は金鰲島(きんごうとう)剣呼宮(けんこきゅう)の主、()瑞芳(ずいほう)と申します。昨晩は危ういところをお助けいただきありがとう御座いました、河内さま。改めて御礼を申し上げます。そして始めまして、先生」
 恩人と年長者に対する礼に則った挨拶をする。
「これはご丁寧に、私は工部局に勤務する役人で、野辺之部貴文と言う者だ、お見知りおきを。さて、それで金鰲島という事は、貴女も仙女どのなのかな?」
「はい、一応はそういうことになるでしょうか」
 頷きあう二人。
「おいおい、二人して分かり合ってるようだがこっちはさっぱりだ。その、金鰲島ってのは何なんだ?」
「西域は瑶池金母(ようちきんぼ)さまの崑崙と並ぶ仙界屈指の霊山にして、通天教主さまが主宰される截教(せっきょう)の大本山、それが金鰲島です。そしてありとあらゆる生あるものに、鳥獣妖精人間の区別なく、仙道の道を説かれた通天教主さまの教えの下、数多くの仙道が暮らす金鰲島には、私の住んでいる剣呼宮を含む大小無数の仙洞に仙宮があります」
 よほど尊敬しているのであろう、金鰲島に通天教主の事を語る様子は大層誇らしげである。
「そしてその、救世大慈大悲庇民滅魔茫洋討邪貫日一清太乙真人と言うのも、同じく金鰲島に洞府を構える……いえ、構えていた仙人の一人であり……」
 一瞬、言葉を濁し、苦いものを飲み干したような顔になる。
「私の追っている相手です」
「追っている? 追われているじゃなくてか?」
「ええ、そのお恥ずかしい話ですが、本来はこちらが追う側なのです」
 訝しむ二太郎の声に軽く俯きながら、蚊の啼くような声で囁く。本当は、自分の方こそがあの聖母にその師匠を追い詰めていなければならなかったのだと。
「ふむ、まあ、それはそれとしてだ、なるほど。あの神仙どのは本名を宇文玄獅と言うのか。ちょっとした進展と言うべきだな、しかし……姓が宇文ということは、恐らくこの男、鮮卑……宇文鮮卑の末だろうな」
「鮮卑?」
 首を傾げる。
「大昔の狩猟・牧畜民で、いわゆる五胡の一だな。まあ、今更、鮮卑も漢人もないが」
 千年以上も昔、隋唐の以後には、征服王朝の例に漏れず、速やかに漢族に同化して、歴史上から姿を消した民族である。
「まあ、そんなことはどうだっていいんだ」
「なら、なんで言うんです」
「ん、そりゃあ、君が私に質問をしたからだろう」
 論点がずれている。
 本当にどうでもよさそうな顔をする野辺之部に、呆れたように尋ねると、これまた不思議そうに、なんでそんな当たり前のことを聞くんだろうとでも言いたげな顔をする。
 その顔を見て、「ああ、そう言えばこういう人だよなあ」と、内心嘆息する。きっと本人はただ単に、その宇文とかいう姓に、その鮮卑とやらを思い出しただけなのだろう。
「話を戻せば、彼は金鰲島の神仙で、『壺公』か何かのように、何らかの罪を犯すか何かして、同じく金鰲島の仙女である貴女に追われているということかな?」
「はい……あ、いえ、あの男は謫仙ではなく……邪仙です」
 憂いを顔に浮かべながら、悲しげな声で吐き捨てる。
「邪仙ねぇ」
 これまた大層な呼称だとして、口の中、舌上でその響きを転がすように、皮肉気に小さく呟く。
「ふむ、支障の無い範囲で構わないが、彼は何を仕出かしたのかね、教えてもらえれば良いのだが」
 僅かに逡巡したものの、ここは話すべきだと考えたようである。意を決して語り始める。それには白爺の遺言も影響していただろう。
「彼は盗人です。通天教主さまの碧游宮を初めとする、金鰲島の諸宮諸洞に忍び込んでは、各道派の秘術・秘伝を幾つも盗み出しました。その過程で幾人かの人的被害が出ています。そしてその中には、先代の剣呼宮の主であった私の父もまた」
 一瞬、顔に憎悪とも恐怖ともつかない、なんともやるせない、未だに信じられないと言いたげな感情が浮かぶ。
「つまりは、あれだ、その大層な真人さまの正体は強盗だってか?」
 卑俗な言い方をすればそうなるのだろう。「こくん」と瑞芳は小さく頷く。
「秘術というのが一体何を求めてのものかは今一つ判らないが、どうして、邪仙と呼ばれる者が……おまけに仙界からこの俗界にわざわざ出てきて、行う事だ、よしんばそれが何であれ、先ず以って碌なことではないだろうな」
 嘆息する野辺之部に、「恐らくはそうでしょう」と瑞芳も暗い顔で肯定する。
「不気味な話だこと、それで姐ちゃん……いやさ、瑞芳。アンタ何か見当はつかないのか、その盗まれた秘術やらからの推測程度にも?」
「……それが、盗まれたことは間違いないのですが、どなたも盗まれた秘術が一体どういったものであったのかをお教えくださらないのです」
「何だそりゃ」
 眼を丸くする。
「それこそ各道派の秘術ですから、軽々しく口に出さないのが当然ではあるのですが」
 彼女自身もこれはこれで理不尽だと感じてはいるのだろう。しかし同時に仕方が無いことだとも納得している、そういった態度である。
 何だかなあと言う顔の二太郎と、困った顔をした瑞芳が顔を見合わせ沈黙する。そこへふいに野辺之部が考えを述べる。
「ふむ、詳細は判らないが、大方のところ私たち日本人や欧米の人間を害そうというのではないだろうかね」
 出し抜けな年長者の言葉に、若者二人は顔を見合わせる。
「先生。何故そう思われるのですか?」
 身を乗り出すようにして、一瞬、転びかけるほどに勢い込んで尋ねる瑞芳に、なんて事はないと言いたげに軽く応える。
「その宇文氏……いや、師か? まあ、彼の号名、『救世大慈大悲庇民滅魔茫洋討邪貫日一清太乙真人』だがね、その滅魔茫洋討邪貫日を縮めれば、滅洋討日となるね」
「……西洋を滅ぼして日本を討つ……ですかい、こじつけのような気もしますが、案外それで当たりかもしれませんね」
 一瞬、呆気に取られた二太郎であったが、「そうかもしれない」と同意する。
「……考え付きませんでした」
「まあ、真相は解からないが、二つの目標が一つになったわけだ、それで当面その方向で進めてくれないか?」
 話を最初に戻す。こうなると、野辺之部一人にとってこそ、都合の良い解釈であるような気もしないではないが、結局のところ、瑞芳が宇文玄獅を知っていたところで、その足取りの何か確実な手がかりが増えたと言うわけでもない。
 となれば、やっぱそうするしかないわなあ、と二太郎は頷く。
「了解です。しかし、そいつはあまりここ上海で流行るとも思えないのですが、ある意味解かり易い教理ですね。でもそれは、俺みたいな何でも屋の大陸浪人じゃなくて、工部局警察、いや、むしろ領事館警察の方が適当な気もしますが」
「うーん、まあ、それはそうなんだがな。今のところ、できるかぎり、刺激したくはないんだよ、神仙ご本人と言うよりも、その信奉者たちを。それと英米独の人間たちもだ」
 鼻の頭を掻きながら、苦い顔をする。
「邦人、支那人、西洋人と……まあ、なんだって良いが、ただでさえ騒動・事件の多いこの上海で、我が国の公職にある人間が率先して騒動を起すわけにはいかないんだよ」
「いつものことってな気もしますけど」
 冷笑する。列強の横暴は今に始まったことではない。特に後発から来る焦りか、彼ら日本人の振舞いこそ一際野蛮であったのだから。同じ日本人であればこそ、却ってそういった成金や食詰め者の大物ぶりたがる振舞いが時に馬鹿馬鹿しく思われるのだ。
「それはそうだな、だがまあ、今はまずい。この参事会の、納税者会議の選挙が近い状況での騒動は困るんだよ」
 元々、上海共同租界はイギリス租界が基となっている。それでその行政機構もまた、イギリス式の議会制民主主義をモデルとしている。その内閣に相当するのが参事会であり、議会に相当するものが納税者会議であった。
「なるほどね、俺には、政治のことは解かりませんが、つまりまあ、大事が近い時に、メンツを潰す可能性のあることは、なるたけ、避けたいってことですね」
 列強が国威をかけて、公的私的に相克するのが上海だ。結局のところ、どう取り繕ったところで些細なことに難癖つけ合うのが国際政治という物の持つ、否定しがたい側面だ。
「うむ」
「ま、やるだけやってみますよ。それで、先生、こいつはさっきも言ったことなんですが、瑞芳が起きてきたんでもう一遍言うんですがね。昨日の夜中に、警察が中国人の老人の死体を持ち帰っていないか、調べちゃ貰えませんか?」
 はっと、期待に目を輝かす瑞芳。
「死体か、ふむ、まあ、それこそ毎日死体なんて運び込まれている筈だが、中国人……まあ、東洋人の死体から国籍を判断するのは難儀しそうだから、東洋人全般の老人の死体だね?」
「はい、先生。名前は白爺……白慶倫、左鼻の下と、右手首の付け根にそれぞれ黒子(ほくろ)がある筈です。私を庇って追っての攻撃を受けたのです、左肩に斬りつけられた傷が……致命傷になっている筈ですので、恐らくはもう亡くなっているでしょうが……せめて弔いをしてあげたいのです。どうか、お引渡し下さいませんか?」
 そう言って、頭を下げる。
「なるほど。勿論です、李さん。この男に依頼している立場ですからね、私は。当然、相応の謝礼は払うところですし、貴女は情報提供者でもあります、それくらいお安いご用ですよ。とは言え、必ずしもそのご老人が運び込まれているとは限らない、という点だけはご了承いただきたい」
「はい、それで充分です」
 頷く瑞芳に微笑みかけると、一転して乾いた眼を二太郎にやる。
「そういうことだ、二太郎。激励しておいてやる。李さんの使命が果たされるかどうか、お付の弔いが出来るかどうかはお前にかかっていると言えるな。せいぜい、怠けずに励むようにな」
 そう、言い置くと、野辺之部は二太郎の家から出て行った。
「って、そりゃ激励じゃねぇよ、先生。それだとまるきり脅迫だろ」

<執筆中>


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諸権利者.淡海いさな|落成.2006.01.04|定礎.2005.12.29