剣仙傳

○文庫

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一:邂逅


 西洋風の煉瓦に石造りの建造物が立ち並び、煌々たる街灯が輝く近代的な繁華街には正しく不夜城といった趣があった。
 だがそこから一歩を踏み出せば、もうそこにはぬばたまの闇が広がっている。道は細く、大人が二、三人ようやっと通れるほどの、ちょっと大きな隙間とでも言うべき代物で、全体として煤や埃に薄汚れて、所々には明らかに血や吐瀉物が乾燥したと思しい汚れがこびり付いていた。
 そんな人気の無い夜の街路に、逃げる者と追う者とが、それぞれに立てる靴音が響く。
「はあっ、はあっ」
 呼気は乱れて脚は張り、今しも倒れそうになりながら、それでも懸命に前へと脚を放り投げるのは、十七、ハの秀麗な面立ちをした娘である。いささか旅塵にまみれてはいるが、年頃の娘らしい華やいだ感じのする木綿の衣に、その上から着込んだ薄紅色のジャケットがよく似合っていた。背には麻糸を編んだ細い縄で、棒状の細長い包みが結わえ付けられている。
 同じくその斜め後ろには、使用人らしい服を着た、七十近いと見える老爺が、前を走る娘を庇うようにして、追っ手から逃れようと必死になって走っていた。
 と、その老爺が、「あっ」と叫びを挙げて前のめりに倒れこむ。
 血飛沫が舞ったのと、「どうっ」という音が響いたのはほぼ同時。老爺は気を失って倒れこみながらも、娘を巻き込むまいとして、なおどうにか身をそらし、娘は娘で倒れようとする老爺を助けようと、「白爺!」と老爺の名を呼びながら、服の裾を引っ張る。それで右と左、お互いがお互いを庇いあって、結局は二人して倒れこんでしまった。
 その互助の精神も美しく、だが滑稽な姿に、さも愉快そうな、しゃがれた笑い声が覆い被さる。
「ほっほっ、何とも麗しい主従愛におじゃる」
 そう言って娘と老爺、彼女が言うところの主従の姿を嘲うのは、奇怪な老婆であった。
 白粉を塗りたくった顔は、一面に深い皺が刻まれていて、腰は大きく九の字に曲り、背は縮んだのか、それとも生来短いものか、曲った腰も相まって、見た目に四尺程度しかないその風貌は、見る者に不快の念を抱かせる。百どころか二百に近いのではないかと思わせるものがあった。にもかかわらず、腕だけは奇妙に長く、手指の先が地に触れている。その曲った腰が、たとえ竹のように真っ直ぐになったとしても、それでも膝のあたりまであるだろう。
 まるで猿猴(テナガザル)のような老婆である。
「白面聖母」
 このような怪婆を指して、『白面』――年若く経験の少ないとはおかしなことである。それとも単に顔が真っ白なことを指しているだけだろうか。そう呼ばわって、気丈にもその白面を、「きっ」と娘はにらみつける。
 そして立ち上がろうとして……適わなかった。ここまでの逃走で疲れ切った彼女の脚は、もはや棒切れ以下の代物と化していた。己の身体を支えることも出来ず、それでもなお恐怖を内におしやって、老婆――白面聖母をにらみつける。
 奇怪な聖母は、倒れ伏した老僕を庇いながら、どうにかして立ち上がれないかと必死になってもがく娘の姿に、「ほっほっ、ほっほっ」とますます気色の悪い声を高くして、なお一層愉快そうに嘲う。
「ほっほっ、気丈なこと。残念でおじゃるよ、剣呼の嬢様。わしのお師匠さまは其処許のことを気に入っておったゆえ、それこのように、無闇と逆らわねば、あたら若い命を散らすこともなかったであろうに」
 無念、無念と念仏のように呟きながら、聖母は右手をすっと挙げる。その拍子に右袖も揺れて、袂に染み込んでいた血が、飛沫となって飛び散って、娘の顔を汚した。老僕の身体から出た血であろう、そうだとしても思わず気色悪さに顔をしかめる。しかめながら、背に負った包みを胸へとやってかきいだく。
「さらばでおじゃる!」
 そう叫ぶと、聖母は勢い込めて、その筋張った腕を包む袖ごとに振り下ろした。老僕を切り伏せた技に襲われながらも、娘は決して眼を閉ざさなかった。じっと聖母を睨み続ける。
「その辺にしとけ、婆さん」
 ふいに、若い男の声が夜闇を裂く。けして大きくはなかったのに、よく通る闊達とした陽性の声である。次いで一旦は裂かれて、その後に速やかに戻った夜闇を照らす火花に、金属のぶつかり合うような乾いた音。
「へえ、そりゃあれか、袖の中に刃でも呑んでるのか?」
 そう、面白そうに尋ねるのは二十を幾つか過ぎた、大柄の東洋人の青年であった。洗いざらしの麻のシャツとズボンの上に、丈の短い和服――半着(はんぎ)を羽織っている。帯の代わりにベルトで締めている左腰には、肉厚の倭刀――段平の一本差しで、傍目に明らかな左懐の膨らみは拳銃だろうか。
 彼の投じた何物かが、聖母の袖を弾き飛ばしたのである。命を助けられた形の娘がそれを見れば、棒状の金属塊、釘であった。娘は瞠目する。青年と聖母の間は五間は離れており、この距離で釘の様な後ろに重心のある物を、これほど精妙に投げ打つなど尋常の腕ではない。
「ほっほっ、これは異な事。此処は上海、魔都の呼び声も高き、東洋最大の都。耀く光が強ければ、差す陰もまた濃いのが道理でおじゃる。一度街路を裏に回れば、阿片窟が軒を連ね、群れをなす野鶏に、追剥と博徒のゴロツキこそが街の主役。ほっほっ、血を伴う騒動など、今更気に留めるほど珍しいものでもありはしまいに」
 野鶏とは本来は雉のことであるが、上海に於けるそれは街娼、街角に立って客を誘う売春婦のことであった。
「ほっほっ、はて、なのに、なにを好んで、この雄鶏は騒動に嘴を挟ましやるか。其処許は、世事にも長けた御仁であると、この白面、お見受けするに」
 言いながら、じりじりと後ずさる。笑いつつも心胆を寒からしめる。攻撃されるまでその気配に気付かなかった。
「まあ、あれだ。壁の一枚も隔ててりゃ、そこで女が手篭めにされてようが、ガキがテメェの親を殺してようが、気にはしないさ。だからといって、流石に目の前で爺さんと姐ちゃんが殺されようってところに出くわせば、気にするなって方が無理な話でな。見捨てていったら、寝覚めが悪い、ここはお義理にでもおしとどめんことには、今後暫らくは酒と飯が不味くなる」
 はなはだ身勝手な言葉を、いささかも悪びれることなく口にする。
「ほっほっ、あながち照れ隠しでもなさそうじゃ。さても、正直と言おうか、自分勝手と言おうか」
「そいつは余計なお世話ってもんだ。それよりもだ、さっきから、ほっほっ、ほっほっ、と喧しい婆さんだな。あんた、あれか、四六時中笑ってなきゃ、おっ死んじまう奇病かなんかにでもかかってやがるのか?」
「ほっほっ、これは愉快なことを仰る御仁じゃ。わしを病と仰るか」
「ほっほっ、さもあろう、さもあろう。そんな奇天烈な姿に奇っ怪な笑い声と来て、はて、それ以外に何があると言うのでおじゃる?」
 馬鹿にしたような態度で、聖母の口真似をする。言いながら青年は、主従と聖母、三人の方へと近づいていく。一見してほとんど動いているようには見えないのに、瞬く間にその距離が詰められていく。
 言い合う聖母と青年に挟まれて、当事者から傍観者へとその立場が急変した娘は、状況についていけず、呆けたような顔をして、青年と聖母を見比べている。そんな様子の娘を横目にしながら、聖母はこの後の算段をつける。
「ほっほっ、見事な歩法じゃ、それに先の飛刀の技といい、ここは退くが上策か……」
 言いながら聖母は後ずさりする。と、そう見せかけて、大きく竹竿のようにしならせた右腕を青年に向けて振るった。長い腕と相まって袖もまた長かったが、それでもまだ説明のつかないほどに、長く長く伸び切った袖が青年を襲う。
「ちぃっ」
 舌打ちを一つくれて、青年は段平を抜放つと、二閃する。抜く手も見せぬ抜放ちざまの一撃で、凄まじい速度で飛来する袖を迎え撃ち、その軌道をそらしたところに、息つく間もなくもう一撃をくれて地に叩きつけると、更に袖を踏みつけ無力化する。
 疾風迅雷の妙技である。
 だが、それこそ聖母の狙いであった。青年が聖母の得物を捕らえた頃には、己の袖を袖ぐりから切り離して、聖母自身は既に追いつき難い距離まで飛び退っていた。
 そして、「ほっほっ」ともはや馴染みとなった感すらある、あの奇怪な哄笑を立てると、彼らが今居るこの街路を形造っている建物の壁と壁とに、剥き出しの筋張った右手を含む両の手足をかけて、それこそ猿かなにかのように、「ひょい、ひょいっ」と、軽々駆け上り、瞬く間に傍に建つ家屋の屋根の上へと逃れてしまった。
「はあー、やっぱり猿か、あの婆さんは?」
 もはや姿の見えなくなった聖母の去った方角に眼をやって、当初は少し驚いたふうであったが、青年はじきに笑い出した。
「……あの、貴方は? それと、助けてくださってありがとう御座います」
 愉快そうに笑う青年に向って、礼を述べる娘。それに、ひらひらと後ろ手に手を振りながら。
「ああ、気にすんな、気にすんな、偶々帰り道を塞いでる奴がいたから、追っ払っただけだからな」
 そう笑いながら言って、段平を鞘に仕舞うと、もはや娘に対する興味を失ったのか、いや最初から無かったのだろう、そのまま歩みだそうとする。その背に新たな声がかけられる。
「おっ、お待ち下され!」
 娘の物ではない。年老いてしわがれた、加えて半ば以上に精気の失われた老僕の声である。聖母の技を受けて失神していた老僕が目を覚ましたものらしい。
「白爺!」
 娘が老僕に声をかける。悲痛な色を纏うのは、もはや老僕が助からないということを、半ば理解しているからだろう。それでも一縷の望みをかけて、半狂乱になりながら青年に尋ねる。
「もし、医師、お医者様はどこですか!」
 その悲痛な声を振り切って行くには、青年はいささかお人よしに過ぎた。見捨てるのはそれこそ飯が不味くなりそうだと老僕に眼をやる。だが、(こりゃ駄目だな)老僕の受けた傷は、青年の眼から見ても明らかに致命傷だった、即死する傷ではなかったが、却ってその方が幸いだったかもしれない、どれほど優れた医者でも治療は無理だろう。
「嬢様、嬢様。落ち着いて聞いてくだされ、爺はどうやらここまででございまする。心残りは、俗界に不慣れな嬢様を一人残して逝くことでありますが……」
 老僕の手をとって、涙目になりながら、「いやっ、いやっ」と首を振る。
「父様に続いて……白爺……お前まで……」
 後はもう言葉にならず、泣きじゃくる。それに祖父が孫を見るような、慈愛に満ちた眼を向けて、優しい手つきで娘の背中を撫でながら、しかし老僕は押して主人を叱咤する。
「おお、嬢様、嬢様、この爺などの為にお泣きめさるな、嬢様にはご使命がおありです。こんなところで泣いていては、使命を果たすなどとても、とても適いませんぞ」
 そこで一度、苦しそうに大きな溜息をついて、老僕は青年に向けて頭を垂れる。
「日本のお方、これもなにかの縁にございまする。もしもこの死に行く爺を、いささかでも哀れと思し召すならば、どうか嬢様のことをお頼み申し上げられますまいか、後生でございます、なにとぞ、なにとぞ!」
「おい、爺さん。いくら死に掛けだからって……いや、だからこそ、んな大事な嬢様をだ、俺みたいな行きずりの他人に任せていいのか。あれだ、もしかすっとその嬢様を暗がりに連れ込んで犯したり、女郎屋に売り飛ばしたりするかもしれないんだぞ」
「そうです、白爺! いえ、この方がそんな悪人だと言うことではなく、そのようなご迷惑をおかけするわけには」
 面倒は御免だと言う青年に、娘もそれをもっともだと言う。
「はは、日本のお方、そんな不埒なことを企む輩は自分からそんなことは言いますまいて。……ご迷惑は百も承知、なれど嬢様を路傍に放って置くわけにはいかぬのです。お聞き下され、日本のお方、この嬢様は、お生まれもお育ちも共に俗界を遠く離れた仙界は『剣呼宮』にして、俗界の流儀、風習には一切の免疫がないのでござります。それこそ、騙されて女郎屋に売り飛ばされはしまいかと……いいえ、それ以前に女郎がなにかも解からぬお方……」
 老僕が訴える。娘は反論しようとして適わない。
「……くぁー、卑怯な爺さんだな、お涙頂戴に訴えてくるとは……ああ、ったくあのまま助けず放って置いたほうがまだ飯が美味く食えたんじゃねぇか、これは、おい」
 苦々しげに青年が慨嘆する。性格的に、ことここに至っては、どうしても見捨ててはいけそうもなかった。その青年の姿を見て、内心を推し量った老僕が、済まなそうに、しかしあり難いことと礼を言う。
「かたじけないことに御座います、日本のお方……いえ、いつまでも日本のお方では格好がつきますまい。冥土の土産にお名前をお聞かせ下さいますまいか?」
「あー、二太郎……河内二太郎だ」
 そう、青年――二太郎が己の名前を告げた時。路地の入り口の方から、彼らを詰問する声が響いた。
「お前達、そこで何をしている!」
 巡回の警官であった。西洋人が二人、恐らくはイギリス人だろう。まだ距離はあるし、警官の方も警戒しているようで遠巻きにしている。
(まずいな)
「ずらかるぞ、姐ちゃん。……爺さん、行きがかり上ではあるが、引き受けた。あんたの嬢様に末期を看取らせてやれないのは、俺としても残念だが、その余裕がなさそうなんでな、もう生きて会うことはないだろうが……達者で往生してくれ」
 老僕は静かに頷いて、「お願いいたします」と言いたげに二太郎に目礼する。その二人に娘は愕然として叫んだ。
「そんな、白爺はまだ生きているのですよ。もし……」
 言葉を濁す。「亡くなる」と言うのを憚ったのだろう。
「……ここに放って行ったら、埋葬もしてあげられない!」
「このまんまじゃ、俺と姐ちゃんが殺したと思われるんだよ」
「そんな、ちゃんと説明すれば……」
「はっ、無駄だ無駄。西洋人、特にあのイギリス人どもは、支那に朝鮮に日本人、俺たち東洋人を腹の底から馬鹿にしてやがるからな、言っても聞きやしないさ」
 冷笑を浮かべ吐き捨てる。嘲りの意思が向う先はいずれであろうか。無知な娘へと言うよりも自分を含めた東洋人全てに向っているような印象を、周囲に与える陰惨な笑みであった。娘は思わず身を竦める。
「お去り下さい、嬢様、河内様! 嬢様、そのお心だけで爺は満足で御座います」
「……けれどっ、このままじゃ白爺が幽鬼になってしまう!」
 苛立たしげに舌打ちし、(当身でもくれて、眠らすか)そう考えながらも、なんとか穏便に説き伏せようと考える。
「聞き分けろ! あのな、姐ちゃん。冗談とかそんなんじゃねえんだ、俺は、自分で言うのもなんだが、見るからに不審人物でな、それが武器持ってんだよ、下手すっと射殺されてもおかしくないわけだな」
 娘の良心に訴えかける。それには少し心を動かされたようであるが、それでもなお、思いきれない様子であった。
「姐ちゃんの居た処がどれだけ平和だったかは知らないがな、この上海って場所は年中無休でどんぱちやってるような処なんだよ、殺しなんざ珍しくもねぇ。」
 そこで、二太郎はくいっと顎を警官たちの方へとしゃくると聞こえよがしに言葉を重ねる。
「殺しに、売人に、共産主義者。追っかける対象が多すぎて、一々追ってる暇なんてねえのさ、奴さんたちには。だから、こんな手頃な犯人を見逃す筈はねえだろ、適当に、抵抗されたから射殺した、とでも言っておきゃ、それで万事解決だ。面倒くさい調査やら追跡なんてやる必要がねぇんだからな!」
 両手を広げ、げらげらと馬鹿にしたように爆笑する。その声と動きに刺激されたものか警官たちが腰の拳銃に手をやる。
「甘えてはなりません、嬢様。それはただの甘えに御座います、それでは……どうぞ、お聞き届け下さい、……河内様」
 それに、「承知した」とばかり、二太郎は頷いた。頷いて、そして俯いて、「わかった」とようやく聞き分けた娘を抱え挙げると、そのまま全力で駆け出した。
「きゃっ……じ、自分で走れます」
 びっくりして、「降ろしてください」と恥ずかしそうに叫ぶ。
「こっちの方が速い。それに姐ちゃんには租界の道なんぞ解からねえだろうが、って、こら、暴れるな」
 背後に追う警官の銃撃に備える為に、凄まじい速度で右へ左へそれながら走り抜ける。
 駆ける、駆ける、それこそ飛ぶように、いくら軽い娘とは言え人一人を抱えているとは思えない速度で駆け抜ける。そしてある一点まで到達すると、ふいに立ち止まった。そして娘を降ろすと、「ついて来い」と言いながら、悠々と歩き始める。
 一切、息切れをしていないその姿に、感嘆しながら、不思議に思う。
「……あの、疲れたというわけではないのでしょうに、どうして降ろしてくださったのですか?」
「あん、姐ちゃんが降ろせって言ったんだろ、自分で。それとももうちょい抱えてて欲しかったのか、それならそうと言ってくれれば、今からでも、腰と言わず胸と言わず、幾らでも抱えてやるぞ」
 何ともいやらしそうな手つきでわしわし両掌を動かすと、「ひひひ」と下品な笑い声を立てる。
「い、いえ、そういう意味ではなく、どうして歩かれているのかな、と」
 赤面しつつ、慌てて言い直す。
「ああ、そうか、姐ちゃんは本当に世間知らずなんだな」
 暫らく不思議そうに娘を眺めていた二太郎が、しみじみと呟く。
「え、あ、その、私、何かおかしなことを言ったのでしょうか?」
 ますます、赤面するその様に吹き出しながら二太郎は説明する。
「さっきまで、俺たちが居たのは、上海共同租界で、ここは上海フランス租界だ。どっちも治外法権には違いないが、別々の治外法権だ。共同租界の警察権はフランス租界にゃ及ばないし、フランス租界の警察権は共同租界に及ばない。一区画でも離れちまえば、もう、とっつかまったりしないわけだな」
「なるほど」
 理解したのだかどうだか、しきりに尤もらしい顔をして頷いていたが、それからふと思う、(それならば、この距離で逃げ切れるのならば、白爺をこの方に担いで貰って、私が走っていれば……)。
「悪いが、姐ちゃんの脚で俺についてこれるとは思えないぜ」
 顔を見れば、何を考えているかは大体判った、(こりゃ、世間知らずってよりも、甘ちゃんの身の程知らずか?)。
「す、済みません。助けていただいておきながら、それ以上を望むだなんて」
「まあ、いいさ、割り切れって方が難しいだろ、それと、ぬか喜びに終るかもしれないが、安心しろ。末端の警官は却って面倒くさいが、偉いさん、工部局の役人にツテがある、そっから遺体の返還を頼んでみてやっから」
『遺体』の言葉に、わずかに顔をしかめながらも、娘は礼を述べた。
 取敢えず、二人は二太郎の家へと向かうこととして、先ほどの警官ややそれ以外の巡回を避ける為に、そのまま三十分ほど遠回りに歩いた。

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諸権利者.淡海いさな|落成.2006.01.04|定礎.2005.12.29