剣仙傳

○文庫

|序||

序:死闘


 さきほどまで、あれほど盛んに降りしきっていた雨はいつの間にか止んでいた。
 雷鳴と雨音に代わって響くのは、「びょう、びょう」と吹きすさぶ風精の咆哮。
 秋声を聞きながら、雨の名残に濡れる野っ原に仰向けに倒れた男は、己の身体から精気が喪われていくのを自覚していた。痩せこけた、いっそ貧相とも見える中年である。
 雲間から覗く、まあるい盆のような中秋の明月に照らされたその男は、顔と言わず服と言わず、泥に汚れ、草に汚れ、ところどころに、何か赤黒い、汚い染みがこびり付いている。
 血だ。
 男の身体。致命傷となったのは、右脇腹より肋骨を縫って刺貫かれた刺突の一撃であったが、そこに至るまでの剣戟にてつけられた無数の刃創をも含めて流された血は、今はもう大方が先の驟雨に洗い流されていたが、男と大地を諸共に汚していた。
 傷口からこぼれる血と共に、エーテルもまた縷々としてこぼれ落ちる。
 流された血が、鮮明さを失い、醜い色を晒すのは、エーテルが揮発し失われるからだ。
 人体を構成する物質のうち、魂と魄とを繋げ、また肉へと定着させる働きをするエーテルは、元より天上の物質である。一度身体より流れ出て地上の空気に触れなば、あとはもう速やかに蒸発して、天へと帰るのみである。
 もはや、助かるまい。明らかに手の施しようはなかった、あとはもう死を待つばかりと、男に残された時間は数分もない。
 それでもなお、男はその痩身に残った有らん限りの力を振り絞って、抜け出ようとする精気をかき懐いて押し戻し、震え、崩れ落ちようとする身体を叱咤すると、傍ら、先刻取り落とした剣を引き寄せ、右手に握る。
 美しい剣であった。
 歪み一つない剣身は、日輪が宿るように光り輝き、七つの円が彫り込まれている。天枢に発し揺光に到る北辰の守り、すなわち軍神たる北斗七星である。その美しい星の浮かんだ剣身は、武器とも思えぬほどに細く優美でありながらも、なお力強さを失わず、煌く先端は鋭利である。
 七星剣。
 たとえ泥と血糊に汚れても、いささかも威力の損なわれぬ宝剣であった。
 だが、それもかつての話、今や見るかげもない。
 研ぎ澄まされ輝いていた両刃は無数の刃こぼれと脂に曇り、鋭利であった切先は、三寸ばかり、無残にもぽっきりと折れている。
 これではもはや、鉄鞭である。振るうにしろ、突くにしろ、剣としての用を為すまい。
 男はその剣ではなくなった剣を杖として立ち上がると、死闘を繰り広げた相手へと眼を向ける。
 洋装の若い男である。元来、涼しげな風貌をした青年であったが、日頃は優しい光を湛えるその眼は、今は悲痛な面持ちで伏せられている。
 眼前の中年に致命的な一撃を与えた、これまた同じく北斗七星の刻まれた剣を持つ手も、どこか投げやりに、だらりと横に投げ出されている。
 それを見る中年男の顔に浮かぶのは、怒りでもなければ、嘆きでもなかった。
 笑みだ。
 それも嘲笑の類ではなく微笑である。自らを手にかけた下手人に向けるものとしては、相応しいとも思われない、苦笑を含んだ、大層暖かみに溢れる微笑であった。
「仮にも邪仙と(うそぶ)く者が、何を泣くのか、宇文(うぶん)玄獅(げんし。我がここに死するは天命であろうよ、悔いはなし、怨みもまたなし。正々堂々たる一騎打ちであった。我が剣力が汝に及ばなんだ、ただそれだけのこと」
 そう言うと、男は呵呵として笑った。
 笑って、笑って、腹の底から、その鶴のような細身の身体に、どこにこれほどの力があったのかというくらいの力の限りに笑った。
 時折、「ごほっ、ごほっ」っと嫌な感じに濁った咳をして、昏い赤褐色の塊を口から吐きだすが、それでも毛ほども気にするところがない。その都度、紅い唾を吐き棄てては、元は薄い黄色であった道衣の袖で、口許を無造作に拭って、それからまたぞろ笑いだす始末である。
 それは本当に愉快そうに、己を殺した者を前にしたとは、半ば死への途上にある身とは、到底思えぬように、笑っている。
 その笑い声を耳に聞く、宇文玄獅と呼ばれた、己を邪仙と嘯く青年こそは、蒼白となって、まるきり呆然とした態である。
 勝った側が呆然として悲痛に呻き、敗れた側が愉快そうに呵呵大笑する。まるであべこべであるが、技量に、若さに、優る筈の宇文玄獅こそが眼前の死に行く男に気負けしているのだ。
 薄黄色の道衣を纏う男が吐血する度にますます顔色を失っては、思わず助け起そうとして、すんでのところで思い止まる。
 そんな宇文玄獅の姿を、男はさも愉快そうに、だがなぜか同時に情けなそうに眺めると、一喝した。
「天道背くまじ!」
 びくっと宇文玄獅は身体を竦める。どこか、親に叱られて泣きそうな子供のような振舞いだ。
「今一度言うが、力及ばず我の敗れるが天命なれば、邪仙よ、汝の為すこともまた天命であろうさ」
 その面に浮かぶには、壮絶な微笑であった。飄々と嘯く顔は、血の気がすっかとりうせきって蒼ざめ、あぶら汗が滝と流れる。いよいよ死期は近いと見えた。してみると、この笑みは全てを天命と受け入れた者の覚悟であったか。
「嗚呼、天網恢恢疎にして漏らさず。汝、左道の輩よ、必ずや我に続く者が、汝の邪道を阻むであろうよ!」
 どこまで本気か、一言吼えて、もう一度屈託なく笑いきって、そして……果てた。
 眼を大きく見開いて、剣を杖に立ったまま、笑いながら黄泉路を辿ることとなった男を、宇文玄獅は泣きそうな、苦しそうな顔をしてしばらくの間眺めていた。
 どれくらい経っただろうか、その間に幾度も手を伸ばそうとしては、引っ込めるを繰り返した。
 そして、ついに未練を断ち切ったと見える。
「敢えて、埋葬は致しません。私にその資格は……。さらばです、剣仙どの。……さらばです、我が……師匠どの」
 宇文玄獅は、己が師と呼んだ者の亡骸へと拝跪して、一礼すると立ち上がり、踵を返して何処とも知れぬ闇の中へと消えていった。

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諸権利者.淡海いさな|落成.2006.01.04|定礎.2005.12.29