第二章――臣野邸にて
「それでは失礼をいたします。奥さま」
用事を果たした私は、そう余所行きの猫皮を引っ被って、深々とお辞儀を一つ、辞去の言葉を告げて『お殿様』のお屋敷を後にする。
その際に、来た時と同様「お母様のお使い、偉いわねぇ」とにこにこと品良く微笑んだたおやかな中年婦人に褒められる。
もはや絶滅した――と言うよりも、実は最初からそんな物は男の妄想の中にしか存在しなかったのではないか、と私は疑っている――大和撫子と云う言葉が、実にしっくりとくる、そんな女性だ。
そりゃあ五十を過ぎた人たちから見れば、十七、八の女子高生も十歳未満の小学生も、どちらも等しく子供なのだろうということは頭では解るし、私も褒められて悪い気はしない。
なのだがやはり高校二年生。十七歳にもなって、ただちょっと親の使いを果たしたくらいで、偉い、偉いと言われるのはさすがにちょっと気恥ずかしい。
それにしても、流石は臣野姉妹の母親だけあって、いつ見ても五十過ぎにしては若々しくて美人なおばさんだ。四十代前半。その年相応の容貌をしたはずの私の母親の方が、五つも六つも年上に見える。
この親にして、あの子供あり、と云う感じで、私もあやかりたいものだ。
その子供のこの性癖まであやかりたいとは思わないけれど。
「あら、お早う」
私が臣野宅の脇門を出ようとしたところで、背後から声がかかった。振向くまでもなく誰か判る。と言うかそもそもこの人の実家でもあるのだから、遭遇しても不思議ではない。
「お早うございます。ドーニャ先生」
振向くと、庭木の向こうから長襦袢姿の色っぽい人物が歩み出てきた。
イラン人の血を引く薄褐色の肌と好対照な、絹の襦袢の耀く白が涼しげであり、婀娜っぽい。この非常勤とはいえ高校教師には不必要なまでの色気を発散している妖艶な人物が、臣野の『お殿様』の長男だ。
ドニヤザードこと本名を、臣野・アリー・樫緒と言う。
異常なまでに板についた女物の衣装に、私たち本物の女以上に女性的な言葉使い。だが「別にオカマという訳ではない」……らしい。
本人の言によると「女装趣味の両性愛者なだけで、精神はきっちり男」であるらしいのだけれど、そっちの方がいっそう変態的だと思うのは私だけだろうか。 まあ、それはそれとして、この人は何だってまた、自宅の庭を下着姿で徘徊しているのだろう。
「徘徊って、眠気覚ましに散歩しているだけよ」
私の疑問こそが不思議だと言いたげな態度で答えられた。そして襦袢は寝間着らしい。我家も含めて、普通のご家庭には、散歩できるような広大な日本庭園などありません。
私がそう言えば「でも、家にはあるのよ」とこの御仁はのたまった。
さようで。さすがは鷲王二万四千石の御館だ。
城ではないので平屋だけれど――平屋なのは母屋のこと。同敷地内には一家が普段過ごしている大正浪漫の匂いも香る和洋折衷の二階建てもあり、先ほど私はそこから出てきた――広さだけなら相当のものがあるらしい。
まあ、それくらいは昔っから当然知っていたけれど。
「それにしても、寝間着を着替える手間は惜しんでいるのに、ヒゲは剃ってから行動するんですね」
「当たり前でしょう」
軽い揶揄も物ともせず、さらりと流して胸を張る。
「……何で、胸を凝視するかな、この子は」
まっ平だ。大草原だ。日頃着用している、Bカップ相当のパッド入りブラは着けられていない。
「いえ、ヒゲと偽胸の優先順位と云う部分が興味深いなーと」
「そんなとこに興味を持たない!」
ビシッと、頭頂部に軽くチョップされた。
「痛いじゃないですか、暴力教師」
「ふふん、セクハラに対する報いとしては安いものだと思いなさい」
「はーいっと、そう言えば、先生。昨日A組の、と言うより生徒会書記の風琴瑠璃が先生を探していましたよ。携帯にも通じないって、例によって無礼ギリギリの慇懃さでしたけど、あれは内心かなり憤慨してましたね」
「ああ、部室まで行ったらしいわね」
「そう言うってことは、連絡は通じたんですね」
「まあね。ってか携帯の電源入れたら、風琴くん他の生徒会役員からの不在着信の履歴がずらーと何件も連続してて焦ったわ」
それは自業自得だと思う。
「でも、何だったんです。先生と生徒会の接点とか、丸っきり不明なんですけど」
「ふふ、美少年との愉しき逢瀬、そこで繰り広げられたことは、勿体無いから秘密……てか、聞いてそう面白い話でも無いわよ、本当に」
こっちも苦笑する。なんか笑ってはぐらかされましたよ。
それにしても浮かべる微笑には無意味なまでになまめかしい魅力がある。大分慣れたけれど、女子生徒相手に女装で色気振りまいてどうする。それも特に意識せずに。内心で改めて嘆息する。
「この生物は年頃の少年少女には目の毒だなあ」
これが高等部の校舎を野放しでうろついているのだから、うちの学園もたいがい懐が深い。
願わくば、道を誤る男子学生が出ませんように。
「なんか、風紀紊乱、けしからんって感じで叱られたとか?」
授業も解り易いし、生徒ときっちり一線を引きつつ、高圧的なところのない、良い先生ではあるのだけれど、性癖とか性格とか色気過剰なところとか、いかに私立学園の事とはいえ、教育者としては叩けば埃が出るどころか八割埃で構成されていそうな人だから。
って、これは生徒会と言うよりは、風紀委員とか学園、PTAの役回りかな。その割には何か不自然なまでに自然に、皆がこの性別のよく判らない生物を受け入れているけど。
「あははっそんな今更……ヤツラを除いては」
今更なんだ、やっぱり。何か妙な感じで納得できてしまう。後半変に格好つけているけれど、ヤツラと言うのは単に県の教育委員会のことだ。
残念ながら先生は教育委員会の受けは悪い。むしろ当然って気もする。たぶん普通に受け入れている学園の方がまともではない。噂ではこの先生の存在の為に、教育委員会と学園の関係がぎくしゃくとしているのだとか。
「いや、委員会と仲悪いのはむしろ代々の学園長であって、私いなくてもそれほど変わらないって、いや本当に」
朗らかに笑いながら、別の意味で問題のあることをのたまった。
「まあ、どうだって良いんですけどね」
「うーん、願ったりかなったりなんだけど、そうきっぱり言われるとちょっと寂しいわね」
今度は苦笑いを浮かべ首を竦める。笑い一つでその表情の豊かなことだ。
と、携帯の着信音が鳴った。この音は私のものではない、先生のものだ。
「どうぞ」と、私に遠慮せずに出るように促がす。
「悪いわね」
「いいえ。それに良いタイミングです」
ぐだぐだになりかけた世間話を、惰性と化す前に打ち切るのには。
「それじゃあ、私は失礼します」
有無を言わせず一礼した。嫌いではない、むしろ好きなのだけれど、一対一で長々と話し合うにはちょっと苦手だ。
「あらそ、まあ、引き止めて悪かったわね、それじゃあ気をつけて帰るのよ、最近は変質者なんかも多いから」
大丈夫。私はもう二日続けて変質者なんて可愛く思えるような異常事態に遭遇しましたから……大丈夫じゃない、と言うかもう手遅れかもしれませんが。
純粋に心配してくれているはずの先生の言葉に、思わず皮肉な反応を返しそうになる。
と、私の背後で先生がびっくりとした声をあげた。
「もしもし……はっ、見られた? 誰に、何処で?」
声に続いて、視線を感じた気がして振向くと、どこか唖然とした表情で先生がこちらを凝視していた。
この人のこういう表情はとても珍しい。だが、何故だ、あれは妙な生物を、世にも稀な珍獣を見る目付きだ。それも大熊猫や大山椒魚といった可愛げのある種ではなく、異形の深海魚に、もっと言えば未確認吸血生物のような人知を超越した生物種に向けるたぐいの。
見たこと無いけどさ。
「……こっちが聞きたいわよ。何故! って、さ。ああーああ、対策は後で考えるから、彼女には貴方から連絡をとってちょうだい」
慌てた様子で話を打ち切る。そして何でもないと言いたげに、何かあると強烈に主張しているひきつった笑みを浮かべた。
あからさまな、当の本人でさえもそれで誤魔化せるだなどとは露ほどにも思っていないだろう拙劣なはぐらかしだったが、それ以上にツッこんで穿鑿できる雰囲気でもなかった。
首を傾げざるを得ない。
私に出来たのは、「何?」と、頭を疑問符で一杯にしながら、お屋敷を後にすることだけだった。
そして。
もしかすると、冗談事でなく本気で手遅れなのではなかろうか!
口は災いの元、噂をすれば影が差す。まったくおちおち軽口も叩けない。自分自身への呪詛ばっかり効果覿面だね世の中ってのは。
帰途。私は三度異常事態と遭遇した。
何となく、自分でもどうしてそんなことをしたのかよく判らないのだけれど、いつのまにか私は空を見上げていた。
そして、あれは――
「――天使!」愕然として叫んだ。
周囲を行きかう通行人が胡乱そうに私を眺める。それだけではない、私の視線が向う先として、不思議そうに空に眼をやる人もいる。なのにどうしてだろうか、私の他に誰も気付いた気配がないのは。
私の――この一両日で信頼度が大分減少したとは言え――視界の内、光り輝く、いや光その物と見える翼を背から生やした人間――遠く、そして高すぎて、細部までは杳として見えないけれど、恐らくは女性が悠然として、少し前の梅雨が嘘だったような晴天の雲ひとつない大空を舞っている。
さきほどの鬼のときにも疑ったけれど、もしかして本当に私の眼は狂ってしまったのだろうか。
どうやら十人かそこらはいる周囲の人たちには見えていないらしい物を私は見ているようだ。それに翼を生やしたくらいで人間の筋力と体重では飛べるはずがないのに。
だから、これは、今度こそ本当に幻覚なのだろうか?
それにしてはしっかりとしている。まあ、幻覚と言うのは他人が思うよりも遥かに真に迫ったリアリティーを伴って現出するらしいけれど、そうではないと信じたい。
……信じたいのだが。
――しかし天使?
仏教と神道の日本に?
それに私は先祖代々真宗なわけで。回心しろとでも?
キリスト教徒もイスラム教徒もいるにはいるが、それでもやはり天使すなわち唯一神の御使いと云うのは、ちょっと似つかわしくないように思える。
すると、天狗だろうか。うん、こっちの方が鷲王のような、緑も多く残る地方都市には合っている気がする。
そうすると、あの天狗様はきっと天狗の隠れ蓑を纏っていなさるのだ。
うん、きっとそうだ、そうだとも。
それならば他の人には見えないということを含めて、全てに納得が……いくはずがない。
そうすると、ならばどうして私にだけは見えるのか、という新たな疑問が湧いてくる。
もはや、何がなんだか。
「ははは」
笑ってみる。
「むー」
しかめっ面。
「……」
無表情。
「手があるくせに、どうして翼があるんだ」
根本的な部分に対して、文句をつけてみる。
唐突な百面相と独り言に、周囲の人がこちらを薄気味悪そうに眺めている。だと云うのにそれさえも気にならなかった。羞恥心が無くなったわけではないので、恥ずかしいと感じてはいる……いるのだが、それに構っている余裕が無かった。
いかん……。
これは……。
ちょっと……。
鬼や鼠はまだ、かなり無理をすれば理解できなくもなかった。
そう、大分頑張れば。カンガルーだって直立くらいしているし、あの鬼は実は超重量級のプロレスラーだったというオチとか……。
だけれども、羽の生えた人間型生物が空を飛ぶ、そしてそれを見えているのが私だけだという事態はいただけない。
それまでにも大分揺らいでいた常識と精神的な持久力とが、今度こそ完全に、容易には立ち直りがたいまでに打ちのめされ根こそぎにされていた。
意を決して、私は、叫びだしそうになるのを、なけなし残った羞恥心と自制心で堪えて、体育の時間でも披露したことの無いくらいの全力疾走で自分の家へと駆け戻ったのだった。