第三章――カラオケボックスにて
スピーカーから吐き出される大音響の旋律と、それに乗せて歌われる騒々しくも軽快な歌。
去年だったか一昨年だったかのミリオンセラー。
元は女性シンガーの歌っていたものだが、元々が嗄れた声質を持った歌手である。少年が歌ってもあまり違和感は無かった。
目立って音程が外れるようなこともなく、声自体も悪くない。よく歌いなれたことの判る巧さだった。だから、それは決して下手ではないし、聞き苦しくも無い。
けれども、それはまた同時に、格別な感銘を聴衆に対して与えるというほどでもなかった。
「――具体的に言うと、自己陶酔しすぎ」
「ほっとけ」
気分良く終えた熱唱の余韻に肌を軽く上気させ、薄っすらと汗をかいた様子の五季が、それまで握っていたマイクを次の人間(私たちの一学年後輩である茉莉花)へと手渡し、「折角の余韻がぶち壊しだろうが」とふてくされた様子で言いながら、私の隣へ歩いて来る。そして、座りながら。
「お遊びのカラオケでどう歌おうが俺の勝手だろうが。つか、お前だってそんなに上手いわけでもないんだしさぁ」
それは確かにその通り。
「別に悪いとは言っていない。それに、一応、巧いって褒めてるじゃないのさ、別に貶してるわけでもないんだし」
「そうかぁ、何かそこはかとない悪意を感じるんだがな」
「被害妄想よ」
そう、悪意は無い。単に小馬鹿にしているだけで。
「おい、こら」
「あ、今気づいたんだけれどさ、おい、こらってアイコラと似てるよね」
「知らねぇよ、んなことはよ」
丁々発止、軽口を叩き合う。
私と五季に挟まれた空間に充満する、ぎすぎすとした空気。それが心地良くって、仕方が無いよ、まったく。
いつもならば、ここで仲裁に入る沙羅が、次に自分が歌う曲選びに熱中しているので止める者が誰もいない。
歌うところはカラオケボックス。
天使(?)の目撃と、それに続く脱兎から数時間後。一時的な恐慌状態を脱した私は、何故か駅前のカラオケボックスの中に居た。
城島五季と宇賀嶋沙羅。そして、現在マイクを握って私の知らない――恐らくは特撮かアニメ辺りの主題歌だろう物を歌っている臣野茉莉花が一緒だった。
茉莉花はその苗字が示すように、ドーニャ先生の妹である。臣野家の次女、あるいはシャハラザード、ドニヤザード、マルヤムの臣野三姉妹の(激しく何かが間違っている)末妹。
兄と良く似た美人系の、大人っぽい面差しのこの子が、その外見からは結びつき難い小さな女の子向けの魔法少女物のアニメや、幼い男の子が好みそうな変身ヒーロー物の歌をうたっている姿には、そこはかとない違和感がある。
「そりゃ、お前の偏見だ」
うっさい、黙れ。
……まあ、確かに。人の嗜好はそれぞれであり何を好み、何を歌おうが個人の勝手ではあるので、他人がイメージを押し付けても仕方がないか。
それに、最近はアニメの歌とかも人気らしいし
「いや、こりゃゲームの奴だな。てか、認識が古いぞ」
私はあまり詳しくないのだけれど、右に座る――先刻からうるさい――五季からの情報によると、とある伝奇系RPGのオープニングらしい。
「ふーん、まあ、どっちだって構わないけれど、結構良いんじゃない」
「そりゃあ、ワルけりゃ、商売にならんだろ」
それはそうだ。
さてそれで、カラオケですることと言えば勿論歌うことなわけで――何か、やばいブツの取引とか、売春とかもある所にはあるのだろうが、少なくとも私たちには関係ない。
うたって、歌って、唄いまくって、内心の動揺とむしゃくしゃとを発散さすことを思いついたのは、自室に引き篭もってから、意外とすぐのことだった。
と言って、私が一人、自主的に思いついたとも言いがたい。
天巌戸で鬱々と、一人籠もっている私の携帯へと掛かってきた「遊びませんかー」という茉莉花からの電話。
それが私にカラオケに行くことを思いつかせた。
いつの時代も引き篭もりを引きずり出すのは歌舞音曲というわけだ。
ちょっと違うか。
とまれ、気が滅入っている時には無理にでも遊ぶのが特効薬だと言うもので、なにより、湿ってキノコが生えてきそうなのは私の柄ではないだろう。
あと、二人きりでと言うのも寂しい話なので、家で寝ていた沙羅と、クラスの男子と遊んでいたらしい五季を呼びつけ……もとい、誘って鷲王駅前で合流したのが三時間くらい前。
それからひたすら歌っている訳だが、
「――そろそろ帰ろっか」
と、誰言うともなく自然な流れで終了となった。
延長料金込みでの使用料と軽食・ドリンクの代金を支払い店を出る。
支払いの際に、ちらっと見た帳場の時計が告げる時刻は、三時を数分回ったところ。
土曜日でこの時間帯は、少し……いや、大分早い気もしないではなかったが、一同解散することにした。
昨日を補習でつぶされた沙羅などは、その反動かまだまだ遊び足りないって風だったけれど、そこは多数決で敗れてしまった。
私はやっぱりちょっと疲労していたし、五季は五季で「女の買物に付き合わされるのは真平ごめん」と言うところだろう。言いだしっぺの茉莉花までが帰る側に傾いたのは少し以外だったけれど。
ともかく、三対一だ。民主主義ってステキよね?
「数の暴力だよ」
納得のいかない沙羅の呻き声が耳に心地よいわ。
「サディストかお前は……いや、聞くまでもなかったな」
まあ、確かに。マゾヒストよりはサディストの方が、その気持ちに共感しやすそうではあるわね。
「わー、先輩。何か、ボンデージでも着て哄笑でもしてもらいたいですね、似合いそうですよ」
何か、茉莉花に褒められた……のか、これは。だが、別に似合いたくないって、そんなもん。と言うか、それはアンタの方が似合うと思うぞ。
「うわ、ヒドッ」
マテ、その酷い事を私に言うのは良いのか、おい。
「自分で言うのは構わないけれど、他人に言われるのはムカつくって奴か?」
それもちょっと違うと思うぞ、五季よ。
「そうかい。……まあ、別に名残おしくもないが、それじゃあな」
「ん、またね」
書店に寄ってから帰るらしい五季と、仕方なく一人で服を見るつもりの沙羅に手を振って、私は家路についた。途中まで茉莉花が一緒だ。
新興の、イヤ、特に新しくない建物も数多いのだが、コンクリートとアスファルトを基調とする駅前から、一つ路地を違えるとがらりと街の雰囲気が変わってくる。いつだったか「昭和の空気が残る町屋」とかなんとか、何かの雑誌に取り上げられていたが、そこで生まれ育った平成生まれの私らは何なんだ。
昭和の遺物か、こら。
「良い街だって、褒められたんだと思っておきましょうよ」
気の無い表情で茉莉花が合いの手を入れてくる。
それは記事を書いた人間は、褒め言葉、肯定的に、プラスの意味合いで書いたのだとは思うが、それで書かれた人間が喜ぶとは限らないものだ。
まあ、私も別に怒っているわけではなかったりするのだが。
「どっちなんですか」
ふと、思い出しただけよ。
思い出すと言えば、それにしても、お互い家は近いし部活も一緒だと言うのに、こうやって私と茉莉花が二人きりになると言うのも久しぶりだ。
大抵、沙羅なり五季なり、誰か別の人間が傍にいる。
そう気付くと、ふとおかしな気分になってくる。見慣れたこの子が別人にでもなったような。
別に、「見慣れた幼馴染に、ある日芽生える恋の自覚」とかそんなんじゃないぞ、レズじゃないんだからさ。恋情というよりもむしろ、
「――まぁったく、この娘は、無闇と乳とか腰とか張りやがってからに」
軽い羨望まじりのからかい。
やはり、コーカソイドの血は強いらしい。
身長そのものはそんなに違わないけれど、そこにくっ付いている乳房や腰は私よりも一回り、二回り大きい。
遠目には彼女の方が年上に見えるだろう。さしずめ、女子大生のお姉さんと女子高生の妹とでもいった感じに。
「ほんの、二、三年前までは、こーんなにちんまりとした小娘だったってのに」
そんな筈はないのだが、右手の親指と人差し指を広げてみる。気分で。
そうしたら、
「それ、ほとんどセクハラオヤジのノリですよ」
と苦笑い。
むー、不本意ながら、自覚が有るや。
「なら、改めましょうよ」
「無理」
私は、こんな私が大好きなのさ。
「うわー、性質ワルー」
「ふふん」
何が、「ふふん」なのかは自分でも謎だ。そんな他愛もない世間話――馬鹿話?――をしながら、てくてくと二人して鷲王の町を歩く。
古くは『延喜式』の内、四百余の宿駅の一つとしてその名が現れ、宿場町・商業都市として栄えた鷲王の街並みは、細い通路や川筋などが有機的に、複雑に入り組んでいて、なおかつ古い。
それはそれで、土地の人間にとっては自然なものであり、一定の秩序を認められるのだけれど、外部の人間にはただの無秩序であり、混沌以外のなにものでも無いだろう。ロクでもない。
特に我が信太家や、茉莉花と先生の生家である臣野邸がある旧市街。
通称「古町」は、余所から初めて来た人間が迷わないことが無いというほどの、ほとんど迷路のような有様となっている。
これは自動車なんて物がなかった時代の細い道に、分家に次ぐ分家の、あまり深く考えて行われなかった弛まぬ増改築の結果だった。
母屋と分家の関係が、核家族化に伴い稀薄となった現在でも、庭を共有していたり、家中を走る私道が別の通りに抜ける唯一の道だったりするのがざらにある。
実際、私の家なんかも隣家――ちなみに五季の家なのだけれど――と我家を仕切る年季の入った柿の大木(生憎と渋柿だ。子供の頃迂闊にも頬張って痛い目を見た)がどっちの家に帰属するんだか良く判ってなかったりする、そんな処だった。
ついでに言うと、当時の私は一本の同じ柿の木に、渋柿と甘柿が一緒に生るのだと信じていて、どれかは甘いは筈だと無駄な努力を繰り広げていた。それを、外道な親どもはいつ気付くかと、面白がって敢えて黙っていたらしい。
おのれ!
ロクデナシども、娘が人間不信になっていたらどうする気だったんだ。
おっと、そんな感じで私たち土地の人間なら惑うことも無いのだけれど、新市街の人間では半数くらいが迷い、そうでなくても随分と遠回りを強いられるだろう。
そして、それくらいに古いと、必然というべきか、妙な伝承のある場所というものには事欠かない。
ちょうど今渡っている、苔むした石橋――「茅姫橋」もそんな場所の一つ。
鷲王の人間ならば幼稚園児でも知っている昔話だ。
室町時代の半ば、応仁の乱後しばらく、戦国時代に突入する少し前のこと。
この鷲王の土地を守護に代わって実質的に支配した国人臣野氏。要するに茉莉花とかの御先祖様だな。当時の臣野のご当主には何人か娘がいたのだけれど、その内の一人は名前を「茅」と云った。訓はカヤだとも言うし、チガヤだとも言う。と言うのは、よくわかってないらしい。ただ、一般には慣用的にカヤだとされている。
そのお姫様が、何か色々あって常世の神様の下へと嫁ぐ事になった。ぶっちゃけると生贄だよね、これって。
「何か色々って、その色々の部分、紆余曲折が語られる重要部分じゃないですか」
茉莉花のどことはなしに呆れた声が言うように、その部分が昔から人気だ。
その部分だけを取り出して、肝心の輿入れの部分を削除した本末転倒なバージョンやら、何年か前にソコを脚色して小説にした人間が居る。これが結構売れたらしくて、しばらく前までは観光客が良く迷子になっていたものだ。
ただ、その辺は物語本来の流れと話のトーンが違うから、多分、別の説話などから持ってきたストーリーを茅姫伝説に仮託したものだろうと思う。
「お黙り、私は薄れ消えていく部分が幻想的で好きなのよ」
「うわ、この人、気まますぎ」
その嫁入りの舞台となったのがこの橋で、神の寄越した輿に乗ったお姫様と、それを担ぐ神の使い。殿様たちの目の前で一歩橋を進む毎にその姿が薄れ、終に橋を渡りきった時には蜃気楼のように消えてしまったと伝えられている。
で、何でこんな話をしたのかと言うと。
「――どこだ此処は?」
もうここまで来ると驚くのも馬鹿らしい。
しかし、やはり驚いてしまうのが常識人の悲しさであり、同時にまたそれは強みだろう。今この時点では何の役にも立たない強みだったが
私と茉莉花の二人して、常世にでも迷い込んだらしい。
目の前には奇妙な世界が広がっていた。
橋を越えると雪国だったわけでもないし、大気組成が唐突に木星のそれに変わった訳でもない。
空気そのものは、多少樹々の匂いが濃い様な気がする以外は、窒素八割、酸素二割と他少々の変わり映えせぬ地球の空気だ、幸いに。多分、確信は無いが。
でなければ、入った瞬間とは言わず、遅かれ早かれ私たちは死んでいる。そして、生きているのは結構なことだが、この先も生きていけるかは判らない。
幸い、これも変わらず1Gの(違ったとしても、違和感を感じるほどではない)確かな重力の恩恵を受けて足の下に踏みしめるのは、先ほどまで通っていた筈の石橋ではなく、無闇と細い獣道だった。
嫌な予感、と言うよりも既に揺ぎない確信と共に振り返ると、そこにはやはり「茅姫橋」が消えている。
見渡す限りの樹、木、ツリーに、ところどころ草。
近所の雑木林にもどこか似ているが、ああいった植樹林ではなくこちらは太古以来の原生林の趣がある。
「茉莉花」
「はい」
「――この辺りの家って、本当に古いのが多いわよねぇ」
これまた私だけが見ていると言う可能性もあるので、やんわりと鎌をかけてみる。
「え、まあ、そうですね。今は家なんてどこにもなくて森ばっかりなはずなんですけど。って、ああ、先輩、見えているのが自分だけなんじゃないかって疑って、それとなく確かめようとしているんですね」
正解。
にしても、そう言うってことは、
「貴方にも、見えてるわけね」
自分の声に驚く。必要以上に素っ気ないものだった。
「もちろんです。目の前にこんだけ広がっている森の、おまけに濃厚な木と土の匂いつきが住宅街に見えるようなら、それは眼科って言うかもう脳の病院に駆け込むべきですよ。それか窓に鉄格子の入った病院とか」
「そうね」
頷きつつ、私は違和感をとらえた。
違和感と言うか、ずばりそのものなのだが、どうしてこの子はこんなに冷静なのかしらね。
私が疑いの眼差しを向けるその先、
「えーと……」
茉莉花はしばらく言葉を探し、そして見つからなかったようで「えへへ」と愛想笑いを浮かべた。
「――で、説明してもらいましょうか?」
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