第二章――屋形町にて
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 我が目を疑った。
  あまりのことに、思わず天を仰いでから、改めて見直す。  
  目を閉じること――二秒と少々。じっくりと眼を見開いて、それでもやっぱり事実として変わらぬ眼前の状況に、溜息一つ目を伏せた。  
 なんてことだ。  
「さらば、常識。善き旅路をボン・ヴォヤージュ未知なる世界へ……どうなってんのよ、堅実でマトモだったはずの私の人生」  
  げんなりとして呟いた。我ながらこういう状況で、自分自身にさえも皮肉を忘れないのは大したものだ、いや、まったく。  
  時は早朝。処は昨日の雑木林……ではない。君子危うきに近寄らず、私は好奇心に殺される猫ではないのだ。  
  昨日の今日であんな怪しい場所には近づきはしない。どころか、これからも近づくことはしまい、と堅く誓ったのだ、昨日の夜。  
 だと言うのに、ああ、だと言うのに!  
  どうして雑木林を遠く離れた――町内と言う点では変わらないけれども別の場所で、それもこの昔ながらの閑静な屋形町やかたまちにて、こんなことにピンポイントで遭遇してしまうのだろうか。  
 小さな女神と化け鼠の戦いを、目撃してしまったのが昨日のこと。  
 そして今、私は鬼と鼠の戦いを目の当たりにしていた。  
 場所を弁えろよ、怪人どもが。  
 ああ、駄目だ。なんか、泣けてきた。  
  その涙にくれる愛らしい――←ここ重要――私の眼の前で、繰り広げられる戦闘とも言えない殲滅戦。  
 昨日の少女とは違う意味で、鬼は鼠たちを圧倒していた。  
  あの女の子が持ち前のスピードで翻弄し、急所へと的確な一撃を加えるという、所謂いわゆる蝶のように舞い、蜂のように刺すモハメド・アリっぽい」攻撃を行ったのだとすれば、こちらはその虫を叩き潰すように圧倒的な力で、正面から蹂躙していた。  
  荒ぶる鬼が、風を切って豪腕を振るい、鉄拳を叩き込むたびに、骨を砕かれ、身は破れ、苦鳴くめいを上げる暇もあらばこそ、倒れ伏していく、豚面と鼠の怪物の群れ。  
 一方的と言うのも愚か。  




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 昨日は見られなかった新種の、豚の妖怪も――もしかしたら、鼠よりも強いのかもしれないが、そんなことは一切関係なく、颶風ぐふうが木々をなぎ倒し、木っ端を散らしていくように、敵ともせずに粉砕していく。  
 それを見ながら、私はぽつりと呟いた。  
「ううん。鬼というより、オーグルだ」  
  そう、鬼と言っても、寅の毛皮を腰に巻き、牛角巻き毛の金棒を振る、日本的な鬼ではなかった。  
 もちろん中国のクィ。つまり幽霊なんかではもっとない。
  それは西洋の民話に登場する巨人的な鬼、『オーグル』と呼ぶのが相応しそうな、濃い金髪の髪を振り乱した鬼だった。  
 ジャックと豆の木』の雲の上の巨人であり、ペローの『長靴をはいた猫』に登場する、妖精猫ケット・シーに退治された、お城の人食い鬼のことだ。
  それの英語形の発音をカナで表記すれば、RPGなんかでお馴染みの、強力な、だけれどやっぱりやられ役、オーガになる。  
  身長は、受ける威圧感の印象か、もっとずっと大きく見えるが、本当は多分二五〇センチメートルくらい。  
  それで体重は……確かなことは判らないけれども、筋肉を覆う脂肪が少ない分、特に巨漢の力士なんかよりは軽いのではないだろうか。  
  だと言うのに、不思議と恐い感じがしないのは、実物として見せられたら、妖精猫の方が恐ろしいかもしれないのはどうしてだろうか。  
  それは恐らく、身長と筋肉こそ異常だけれども、それでも未だ人類の多様性のふり幅に収まっていて、絶対 にありえないわけではないからと云うのもあるだろう。ギネスギネスブックに記録されている人類史上最大の巨人は、二七二センチあったわけで。  
 でも、それ以上に、大きいのは目だろう。  
  と言って、よく小説や漫画なんかで言われるような、「知性」がどうだとか「優しさ」がどうだなんて言う話じゃなくって、単純にこの仮称 ・オーグルが私たち人間と、同じ構造をした目をしているからに過ぎない。  
  だって、そうでしょう。もしかするとあの不気味な鼠人間や豚人間のよどんだ だって、彼ら自身の社会の中では「知的な目がステキ」ってなもんで、モテるのかもしれないじゃないか。  




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 単に人間は、結局同じ人間を基準としているというだけの話で、やっぱり自分と違った外見を持った相手には違和感 を覚えるのだ、巨人だってたいがいそうだけれど、それでも獣人に比べれば親近感が湧いてくる。  
 それにこの鬼、私はどこかで見たような気がしてならなかった。  
  家族ほどには近しくはないのだけれど、それでも確かに身近な人に似ているのだ。  
「うーむ」  
 時に疑問は恐怖を超越してくれる。慣れもある。  
 それに。  
「――何で、ジャージ?」  
  一束幾らで量販店にでも売っていそうな、こげ茶色のジャージの一揃いなどを、窮屈そうに着込んでいる。  
  イギリス海峡はチャネル諸島のジャージー島の漁師服がその起源だと言われるスポーツウェア――ジャージだ。  
 ちなみにその同ジャージー島原産の乳牛がジャージー種なのだが。
――閑話休題それはさておき
  規格外の体躯に元よりサイズが合っていない物を無理をして着込んでいるらしく、伸縮性の高い流石のエステル重合体ポリエステルもその限界を迎えたようで、妙につんつるてん・・・・・・なのが、どこか滑稽だった。
  それは、素っ裸で出てこられたって困るけれど、こんな変に現実的な服装で出てこられると逆に、それはそれでたいへん困る。  
  虚構ファンタジー現実リアルの天秤が狂ってしまって、唐突に表出したきだしのシュルレアリスムに愕然とさせられると言うか……何か、よく判らないね。  
  とにかく面食らうってことだ。びっくりしたり、呆れたりで、恐怖もへったくれもないと言うこと。  
  それで後に残るのは、恐怖よりも好奇心よりも、先刻から感じている強い既視感。  
  そしてをそれを解消する為に、じーっと、凝視していると、鬼は私の疑惑の視線を感じるのか、居心地が悪そうに身じろぎをする。  
  心なしか、「早くこの場を離れたいのだ」とでも言いたげに、より攻撃し殲滅する速度を引き上げる。  







 それで見た感じでは敵対しているらしい全ての怪物を倒し終えると、ちらりと私に目をやって、さっと手近なお屋敷 の内へと飛び込んだ、そして意外なほど身軽な動きで屋根の上へと跳び移ると、軽やかにいらかの上を走り去った。  
「鼠小僧かアイツは?」  
  屍山血河に浮かぶ、妖鼠と思わず見比べる間に、凄まじい速度で遠ざかってしまった。聞こえる音だけが りだったが、それがすぐに聞こえなくなったことからも、その俊足さが知れた。  
  鬼の立ち去る際に、正面から見たのは一瞬だけだが、筋肉の盛り上がった厳つい顔に浮かんでいたのは、困惑と苦慮とそして微かな諦観だった。  
 やはり、向こうも私を知っているのではなかろうか。  
  それに、昨日の少女とは違って、どうやらあの鬼には光を回収する意図はなく、ただ殴り殺していただけだったようだけれど、両者は意思 を同じくして行動しているというわけではないのだろうか?  
  怪物の遺骸、そしてそれが変換された燐光に包まれた、ある意味で地獄絵図の状況も忘れて私は考えた。  
 考えて、考えて、思索をめぐらして、諦めた。  
 どうせ、考えたからって答えの出るような種類の事でもない。  
  それに、今の私は母の使いの途中であって、残念ながら悠長に考え事をしている余裕はあまり無かった。  
  それに、こんな怪物の死体だらけの場所を誰かに見られようものなら誤魔化しようが無い。  
  非常事態を求め、活躍の場を欲する、情熱的な、英雄願望の強い人たちと違って、平和主義者の私としては、そんな面倒はごめんだ。  
 ああ、ごめんだとも。  
 事なかれ主義万歳!  
  私は当初の目的地へと向けて、逃げるように足早に……と言うか実際に逃げ出したのだった。  


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