第一章――郷土史研究部部室にて
放課後。
いつものように私は、自分が所属する郷史研――郷土史研究部の部室として割り当てられている高等部第二図書準備室へと足を運んだ。
私の通う鷲王学園には、全て併せると四つの図書館と、同じく四つの図書室がある。
その内訳は、初等部、中等部校舎に各々一つ、高等部校舎に二つで計四室の図書室に、県内外の大学部の各学舎に一棟の割合で計四棟存在する図書館だ。
そして初等・中等・高等部の各校舎と文学部の学舎はそれぞれ独立した組織であるが、建物そのものは同じ敷地内、鷲王学舎に存在する。
つまり、鷲王学園には四つの学舎が存在することになる。
中央にでんとそびえる大きな図書館の存在にもかかわらず、複数の図書室が存在するのは、授業で利用しなければならない時や休み時間に、そもそも図書館までの移動で時間が潰れないようにという配慮からである。
だが放課後ともなれば殆どの生徒が部活に参加するし、肝心の利用を見込まれる層――勉強熱心な生徒や読書好きの人間――はそもそもが大学部の図書館まで足を運ぶものなので、ただでさえ利用者の少ない図書室はこの時間帯利用者がほぼゼロになる。
元々、部室は準備室の方なので、図書室が空いていようと混んでいようと私たちにはあまり関係ないのだが、お隣が騒々しいよりは静かであるのは幸いなことで、そうであれば閑散としているのも結構なことである。
以前にこう漏らしたら「そもそも、図書室がうるさければ問題ですし、興醒めです」と司書の先生が言った。私も同感。けれど、やっぱり昼休みなどに訪れると、少し騒がしい感じがするのも事実。
ともあれ、部室である図書準備室は心地よい静寂に満たされていた……ことなど、私の記憶には一時間たりとも存在しない。
「ういーす、諒子ちゃん」
私が部室に入ると、部長である三年生の鹿島伊澄先輩が、読んでいた雑誌から目を離すと、ちらりと視線をこちらに向けて軽く右手を挙げるいつもの挨拶で、歓迎の意を示してくれる。
それにこちらも挨拶を返す。
部長と机を挟んで向かい合って座り、文庫本を読んでいる金髪――染色ではなく地毛として金髪碧眼なフランス人の青年。ミッシェル・アンリ先輩にも一緒に。
「こんにちは部長。それにアンリ先輩も。今日はお二人だけですか?」
「いらっしゃい、リョーコちゃん。うん、今は俺とイスミだけだね。そっちこそ、サラちゃんは一緒じゃないのかい。珍しく」
「ええっと、まあ、恒例のアレです」
私が笑いながら仄めかすと、先輩たちもそれと察したようで、苦笑を浮かべる。
「ああ、アレ。彼女も災難だね」
「自業自得ですよ」
アレと言うのは、補習のこと。
どうもあの子は要領が悪いのか学校の成績が良い方ではない。
もっとはっきり言ってしまうと、悪い。
更に幼馴染として欲目なしでの忌憚無い意見を言えば、学校の成績と知性とがイコールだとは思わないけれど、ちょっとお馬鹿さんかもしれない。
「でも、その代り、彼女には稀有な音楽的才能があるわね」
私の思考を読みでもしたかのようなタイミングで、鹿島部長が断言した。
それは本当のこと。歌も上手いし、子供の頃から習っているピアノとヴァイオリンもとても巧い。全体的に音感が高水準で備わっているのだろう。
それも私たち素人による判断だけではなく、あの子に優れた音楽センスがあるのは客観的に事実らしい。大学部の吹奏楽部の顧問を務めている音楽学部の教授のお墨付きを貰っていた。
「本人はヴァイオリニストになると決めているらしいんですが、もしかするとそれがいまいち学校の授業に身が入らない原因かもしれませんね」
鞄から取り出した筆記用具他の必要なものを机の上に並べながら、私は鹿島部長の言葉にそう応じた。本当は多分、それだけでもないだろうとは確信しているが、それが一因だろうこともまた確かだから。
「かもね」
そう言って笑うと、ふと鹿島部長がいつになく真面目な顔つきになった。
どうしたのだろうか?
そしてしばらく何かに逡巡しているようなそぶりを見せる。
「あの、何でしょうか?」
「いや、それでさ。うーん、あの子が居ないのは却って都合が良いのかもしれないから、この機会に思い切って君に尋ねるわね」
本当に何だろうか。改めて、どうしたのだろうか、と少しだけ身構える。
「気のせいかもしれないけれど、あの子最近、何かに悩んでいるような様子はない? 音楽とか進路とかに関して」
「悩み……ですか?」
ちょっと予想外の言葉だ。思い当たらない。
「うん、最初に言ったように、気のせいかもしれないんだけれどね」
部長はそう言うけれども、この人はこれでなかなか勘の鋭い人物である。なおかつ昔から、傍目八目や灯台下暗しなどと言うことわざもあるように、近くに居ると却って気付けないということはままある。
それに、わたしの事を沙羅が全て知っているはずがないように、私が彼女を完全に理解できているわけがない。
だからもしかすると、私が気付いていない事が、何かあるのかもしれない。
ただ。
「――ちょっと直ぐには思い当たりません。けど、私も少し気をつけてみますね」
「うん、そうしてあげて」
そう言うと、この話はこれでおしまい、とばかり「パンッ」と手を打ち鳴らした。そして振り返りながら。
「ミッシェルー、お茶入れて」
「了解。と言うよりも、君らが話している間に、茶葉も茶器も、準備は万端整っているよ」
お隣りの図書室は飲食厳禁だけれども、ここ図書準備室には茶器一式にお茶菓子が常備されている。
一応、建前としては司書の先生か顧問の先生の監督下以外での、生徒だけによる飲食は禁止されている。
なのだけれど、お茶を飲みながらの読書に優る快楽はそうそう無いということで。建前は建前であって守られている気配はない。
そもそも司書の先生と顧問のドーニャ先生はどちらも、在籍していた時期こそ違え郷史研のOGであり、往年の彼女たちもまた無断で飲み食いしていたようで、自分たちの過去の行状に鑑みてあまり偉そうなことが言えないというのが真相であるらしい。
そう。部室は静寂ではなく、お茶とお菓子の良い匂い、そしてお茶会の雑談に満ちているのだ。
「おおー、やるじゃん」
「お褒めに預かり光栄ですよ、ミ・レディ」
鹿島部長の称賛に、笑みを浮かべおどけた様子で言う間にも、その手許は休まず、速やかにお茶が出てきた。速やかと言っても蒸らす時間は忘れない。その手腕が水の流れるようで、一挙一動に無駄がなく、見事な物なので、見ていて退屈しないのだ。
そしてアンリ先輩が机にティーカップを並べてくれている間に、私は部室備え付けの小型冷蔵庫の中から――林立する缶ビールやワインボトル、一升瓶の間に埋もれた――お茶菓子を取り出す。
恐ろしいことにこの冷蔵庫、高校生の部活動に充てられた校内の一室だというのに、アルコール飲料が一通り揃っていたりする。
ただこれは、私たちが呑む分ではなく――こっそりと手を出そうものなら、呑んべの両人に殺される。未成年、学校内、倫理道徳がどうとかではなく、自分の酒に手を出した愚か者への制裁として――顧問と司書の先生方の酒盛り用だ。もっと言うと冷蔵庫がそもそも、ドーニャ先生の私物だったりする。
お茶の用意をするアンリ先輩と私を、どうも手伝う気はないらしい鹿島部長が、にこにこと笑いながら眺めている。
そう言えば、この点で部長が働いているところを見たことがない。
ないけれども、そもそもその様子が想像できないし、かいがいしくこの手の家事的行為に励む部長だなんて違和感がありすぎる。
「今日はお茶請けが牡丹餅だからね、紅茶の方もダージリンにしてみたよ」
紅茶で和菓子とは少し不調和に聞こえるかもしれないが、紅茶特有のさっぱりとした渋みが、和菓子のあっさりとして上品な甘みにとても合う。
タッパーに入れられた半殺しの牡丹餅を、菓子皿に移していく。
半殺しというのは餡子の中の餅の部分が、ご飯粒を残している物を言う。だからもちろん、完全にお餅になっているものは皆殺しだ。
地方によっては、この半殺しの牡丹餅をお萩と呼ぶが、私はこちらのお萩のほうが好きである。だからちょっと嬉しい。
それとして、私たち部員三人と司書の先生へとお裾分けする分だから、深く考えるまでもなく四つだ。
すると、アンリ先輩がこう言い添えた。
「うん、今日は出席者が少ないからね、特別に二つずつ食べるとしようか」
「いいんですか?」
嬉しいのは確かだけれど、でも太りそうだ。だからそれはちょっと困る。けど、許可を出されると食べてしまうのは、予想ではなく確実な未来だ。
「構わないさ。そもそも作って来たのは昨日だよ。たとえ冷蔵庫に入って
いるとはいえ、生菓子を翌日……どころか、次に来るのは週明けだ、そんなに長いこと放置するのは腐らせるだけで、かといって持ち帰って食べると言うのもちょっと寂しいしね」
実はわが部のお菓子類は、大方をアンリ先輩が用意してくれている。
鹿島部長の要望に沿ったお菓子をアンリ先輩が作って、それを部長が食べるという流れが二人の間で成立しており、そのおこぼれに部員一同与っているのだ。
「そうだ。それでも未だ残っているだろう、帰る時に持って帰らないかい?」
「……うう、だから太る。太るんですよ、アンリ先輩」
私が、そう唸るように言うと、先輩方はおかしそうに笑った。
「なら、やめとく?」
意地悪だ。わかっていて言っている。しかし、意地悪したがる人間の気持ちもわかる、沙羅に対する私とか。
「有り難くいただいて帰ります」
「素直でよろしい」
繰り返すが、二人のおこぼれに与っているのが我が郷史研の現状である。
この放って置いても、美味しいお茶とお菓子を貰えるという、こんな贅沢な環境に一度でも順応してしまった身としては、二人が卒業した後に必然として訪れるだろう暗黒時代に思いをはせざるをえない。憂鬱だ。
幸せの内に、それゆえに恐るべき、近い未来の不幸を(勝手に)見ている後輩の横で、鹿島部長が幸せそうな声を上げる。
「うむ。美味、美味」
満足げに頷いている鹿島部長の姿を見ていると、やはりこの人は他人――具体的にはアンリ先輩を指す――に給仕されている姿が一番はまっている。今までもそうだし、これからもそうだろう。
お似合いのカップルだと思う。
そうして、私たちがいつもどおり、部室でお茶会を開いていると、宴もたけなわという頃に、一人の訪問者があった。
こちらは常にはない人の訪れである。訪れた人も珍しいし、部外の人間が訪れること自体が稀である。
「あれ、君って確か、生徒会の風琴君じゃないの、どうしたん?」
不思議そうに鹿島部長が言ったように、それは2年A組の風琴瑠璃だった。次期生徒会長候補筆頭とも噂される女顔の生徒会書記である。
瑠璃の風琴とは、その名前も風貌にいや増して、雅やかで女性的だが、どうしてこれでれっきとした男子生徒である。
「失礼します。鹿島先輩、こちらに、顧問の臣野先生は来られて……ないようですね」
前触れもなく突然やって来て、挨拶もそこそこに、一人で用件を告げて、一人で合点する。
客観的に事実だけを並べると無作法な感じを受けるが、実際を見ると礼をつくしているように見えるのだから得な人間だ。
その優雅な、ちょっとした気取りともとれる物腰と、典雅な硬質の美貌とのなせるわざだろう。
文句のつけようのないその女性的な美貌は、いささか以上に己の容姿に自信のある異性をして――つまりは私のことなわけだけれど――ミーハーな好意よりも先ず、強い負の方向の感情を覚えさせずにはいられない。
男に嫉妬すると言うのも、だいぶ不毛だが、事実だから仕方ない。
「うん。来てないね、と言うか毎日来る人でもないし、そもそも金曜日ってあの人授業あったっけ?」
「はい、ありません。
ただ、至急生徒会として連絡を取りたいことがあったのですが、携帯の電源は切られていて、御自宅にもおられないようなので、こちらにも念のための確認に訪れたのですが……しかし、そうですか」
「ああ、あのセンセ良く携帯切ってるのよねー」
鹿島部長の言葉に「はい」と頷く。そしてその――生徒会の人間が、率先して校則違反を犯して良いのだろうか、といらぬ心配をしてしまうくらいに無闇と長い黒髪を肩へと払いながら、物憂げに溜息をついた。
色白の肌に映える鴉の濡れ羽色の髪の毛が、白魚の手に従ってはらりと流れる様は、彼の信奉者である一年の女子と、これが結構な数存在する男子生徒たちをして「きゃー、きゃー」黄色い悲鳴をあげさせること確実な、匂い立つような色気がある。
彼のこういう振る舞いを見るたんびに、私はとある確信を新しく、そしてより堅固なものにする。
こいつは絶対、真性のナルシストだ、と。
だって、自分に自信のないものに、こういった種類の色香を湛えられるはずがないのだ。
使い古された表現だけれども、どれほどに美しい宝石も、原石のままではただの石ころと見た目に違うところはないのだ。それに加えて美貌というものは、磨くことを怠った時点ですぐに曇ってしまう。
自分は美しい。たとえもし今はそうでなくても、必ず自分は美しくなれる。そういう強い、強い、誇大妄想じみた執念と確信をもってしてはじめて美貌は結実し、そしてそれを保てる。「だから、こいつは真性のナルシストだ!」などと、私がやっかみまじりに手前勝手な持論を展開している間に、どうやら話は終ったらしい。
「残念だったわね。ところで、折角ここまで来たのだから、お茶とお菓子でもいかが?」
「ご厚意に感謝を。ですが結構ですので、お構いなく。それでは」
生徒会書記、風琴瑠璃は一言礼を述べて、来たとき同様唐突に去っていく。
途中、こちらを怪訝そうに窺ってきたのは、はて、もしかすると凝視し過ぎただろうか。はっ、それとも私に恋を……はありえないな、というかそもそも怪訝そうの時点で。
「いや、リョーコちゃん、『ナルシスト』云々が漏れてたよ」
声に振向くと、アンリ先輩が苦笑している。ううむ、またやってしまったらしい。
「ま、私も同感だけどね。素材だけであそこまでの耽美な人間は出来上がらんでしょ、相応の研磨をしてやらないと」
鹿島部長が同意してくれた。真顔で。
そう。彼は立ち居振る舞いがきびきびとしていて、姿勢もすっきりとしているのだ。そしてこれは習慣と鍛錬によるものだ。
それで目測一八〇センチと、ただでさえ日本人としては高い上背が、なおいっそう強調されて、少年をより美しく印象的にさせるのだ。
「それはそれとして」
鹿島部長が話を変える。
「ドーニャ姐さんもそうだけれど、その妹ちゃんも含めて今日はやっぱり他には誰も来ないようだから、お開きにしましょうか、そろそろ」
時計を見るに、もう結構な時間である。
まあ確かに、元々私たち郷史研は所属する部員の大半が幽霊なわけで、また今日が金曜日だということも影響しているだろうが、やはりちょっとこれは酷い。鹿島部長の言うように今日のところはそろそろ退散時だろう。
学校行事での発表会をのぞけば、日頃の活動はただお茶を飲んで駄弁るだけの部活だけれど、だからこそ肝心の参加者が少ないと、それこそお話しにならない。
ともあれ先ほどのアンリ先輩の言葉に甘えることにした私は、余った牡丹餅を持ち帰る為にラップに包んで、お昼に役目を果たして空になった自分の弁当箱に詰め込んだ。
母は弁当箱を汚すのが嫌いなのか、サンドイッチやお握りを更にラップにくるんで詰め込む習性がある。そのおかげで味が混ざる心配はなかった。まあ、匂いくらいはくっつくかもしれないが。
何でも、洗う際にご飯粒が乾燥してこびり付いていたり、ソースやマスタードの汚れが酷いと、手間がかかって仕方がないのだそうだ。
「タッパーごと持って帰れば良いよ」とアンリ先輩は言ってくれたのだが、流石にそういうわけにもいかない。と言うか、それ以前に邪魔になるし。
そして散会の後、下校する前に、私が教室に寄ってみると、やはり沙羅はまだ、補習中だった。
全て終るにはまだしばらくかかりそうだ。両方ともお疲れ様だと思う。
そこで沙羅に、そして大多喜先生にも、一つ、二つ、牡丹餅を差し入れると、先に一人で帰ることにした。
待っていても仕方が無いし、じっと隣で待たれていても、気詰まりで仕方ないだろう。
それに冷蔵庫の中ならばともかく、午後とはいえ夏の常温に長時間放り出しておきたくはなかったから。
そしてちょっとした近道として、市の政策として残されている雑木林の中の細道を突っ切る道すがら、私はそれに出遭った。