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第参話

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3-1 【レーテーの愛人‐アムネジア】


……暗い。
 それが最初に浮かんできた、初めての明晰なる意味を伴った“言葉”であった。
 その“言葉”は、それまでの壊れたスピーカーの発するノイズであるか、はたまたディスプレイに表示しそこねた、文字化けした文章ででもあるかのような、混沌とした無意味さによって構築された世界を叩き壊した。
 瞬く間さえも与えられず、旧き“混沌と言う秩序”は新しき“秩序と言う混沌”に取って代わられた。

 深い深い、深遠たる深淵が新円の態を為してぽっかりと口を広げている。
 深い闇。自分はその内に居て眺めているのか、それとも外からそれを眺めているのか、それとても杳として知れぬ。
 “言葉”とは“意識”である。
 その肝心要の“意識”が拡散している。ある“意識”は闇と同化していた。別のある“意識”は穴の外から闇を眺めていた。更に別の“意識”は穴の中から闇の外を眺めようと試みていた。

……自分は全てを眺めている。
……眺めているという自分を眺めているし、更にその自分を眺めてさえもいる。

 だが。

……判らない。闇の奥には何があるのだ、闇の外には何があるのだ?
……判らない。闇の奥には何がないのだ、闇の外には何がないのだ?
……判らない。判らない。判らない。判らない。判らない。判らない。判らない。

……自分こそが闇なのか、闇こそが自分なのか、どちらに主体が在るのか、それともどちらにもないのか。
……判らない。判らない。判らない。判らない。判らない。判らない。判らない。判らない。判らない。判らない。

 ただ其処にある“意識”には、何物も判らなかった。
 そんな時間がどれ程続いただろうか、永劫とも感じられたし、一瞬とも感じられた。
 否、それはあまりにも人間的な表現である。
 その“意識”には時間という概念は無かった。だから、時間の長短を考えることもなく、その“意識”はただ其処に存在してきたのだ、尽きることの無い疑問と、果てることの無い思惟とに明け暮れながら。
 ふと、それは感じた。
……何だ、これは?

 それは、眩しいということ、“意識”には判らない。
 それは、暖かいということ、“意識”には判らない。

 それは、“光”。
 “意識”は“光”へと己を向ける。
 “光”と共に“意識”を呼ぶ“声”があった、それは……


 一切の洒落っ気というものが、感じられない部屋である。壁は一面、白一色。生のままのリノリウムの白である。ぱさついた白色の壁に掛けられた、一幅の小さな額縁入りの風景画を除いては、飾りらしい飾りもない。その風景画自体、随分となおざりな代物である。今時、監獄でもまだ華というものがあるだろう。
 何の変哲も無いという表現があるが、あまりにも簡素・平凡に過ぎて逆に変哲となっている、そんな部屋である。
 部屋の中は薄暗い。
 窓にはカーテンが掛かっていて、天井に蛍光灯が設置されている他は光源となりそうな物とても無く、その蛍光灯にしてから今は無情にも消されている。
 そんな部屋の奥に、一台のベッドが置かれている。それは病室に置かれているような、アルミ材のパイプベッドである。
 と言うよりも、ここが病室であった。それもあまり程度の宜しくない病院の。病院であるからには、不潔ということはあり得ないのであるが、そこは清潔であるというだけで温かみというものが感じられない。ここで過ごす病人は逆に衰弱してしまうのではないか、とそんな心配がふとよぎるほどに人間味の感じられない病室であった。
 寝台の上に一人の男が横になっている。一見して、まだ若い男である。それでは、歳の頃はと言えば……これがよく判らない。目を閉じているということもあるのだろうが、どこか年齢というものを超越しているような奇妙な雰囲気を纏っている。
 よもや、三十を越えてはいないだろうが、十代とも見えたし、二十代とも見えた。
 人種、これもまたよく判らない。色々な処の血を引いているのかもしれない。取り敢えずアジア系やオセアニア系ではなさそうである。欧州系ともとれるが、肌の色からすると、エジプトかシリアか、アラブ系の血が入っているのは先ず確実だろう。単純なコーカソイドではなさそうである、どこかでネグロイドの血が入っている可能性もある。
 おおざっぱに辺りをつけるならば、肌の浅黒い白色人種ないし色白の黒色人種、もしくはその混血、と言ったところか。
 弱々しい呻き声があがる。男の発したものである。それは苦悶の響きというよりは、眠りから覚める時に出す反射的な痙攣のようなものであったろう。そして男がゆっくりと目を見開くに、
 金。
 それは黄金の色彩を帯びていた。琥珀の瞳でも光の加減でもない。紛うかたなき黄金の輝きである。それも虹彩のみが金なのではない。ありえざることであるが、白目にあたる部分までもが、こちらは金ではないが鮮やかな紅、炎の色を纏っているのである。無論、別に充血しているというわけではない。
 薄暗闇の中、その場を照らす火眼金睛(かがんきんせい)。あたかもそれ自体が光を放っているかのようである。
 昔の伝えに、金色の瞳は、人ならざる化生の証しであると言う。
 それでは、この男は人ではないのであろうか。
 と、突如の閃光が男の眼を灼く。
 男は思わず苦悶の呻きをあげると同時に、再びその目蓋を閉じた。暗闇に慣れた瞳孔に唐突な光は痛む。両掌を閉じた眼の上に当てる。更に少しでも光から逃れる為にか、無意識的に上半身を起して、その勢いのままに一気に身を抱え込む。言うなれば、泣きじゃくっているかの様な姿勢である。その状態でなおも苦しむ男に向けて、涼しげな声が投げ掛けられる。
「あら、気がついたのね」
 男には生憎と見えないのだが、部屋の入り口に看護師のような白衣を着た、三十を幾らか過ぎたところかと見える女性が立っている。ような、と言うか実際に、ここが病室であるからには彼女もまた看護師なのであろうが。その彼女の右手が部屋の入り口の傍らの壁に触れられている、その指が蛍光灯のスイッチを入れたのだ。
 そう、蛍光灯である。閃光と表現したが、光の絶対量としてはそれ程でもない、闇を切裂く閃光と感じたのは男の主観である。
 ようやく目が慣れてきたのか、男が再び目蓋を持ち上げる。
 金の光が零れ……ない。
 再び見開かれた男の瞳は、どこにでもありそうなありふれた茶色がかった黒い虹彩を有していた。無論白目の部分は白である。
 錯覚だったのだろうか。否、確かに金色に輝いていた。だが、それは誰にも知られることはない。男も、看護師も、他の誰も、彼の瞳が金色に輝いていた処を見ていなかったのだから。
「……こ、こは?」
 男は戸惑ったように、かすれた声で疑問を発すると、それを自分で解明しようとするのか部屋の中を見渡す。
 そして、男の目線と看護師の目線とが一致する。
「ここは、病院の病室よ」
 そう、看護師は男の疑問に答えてやると、窓辺へと歩を進める。さっと言う軽快な音を立ててカーテンが開かれる。
 初夏の柔らかな朝日が病室に差し込むと、それで室内の雰囲気が一変する。殺風景は殺風景であるが、随分と柔らかくなったように感じられる。薄暗闇の中では無愛想な看守のようであった白い壁が、突如として如才ない紳士に変じたかのようである。
「……病室?」
 男が再度疑問の声をあげる。何故、自分はそんな処にいるのだ。入院していたと言うような記憶は無い。いや、それどころか、男の顔が、サッと青ざめる。
「そう。貴方、昨日の夜、この病院に運び込まれたのよ……と、どうしたの?」
 様子のおかしい男に今度は看護師の方が訝しげな声をあげる。
「もしかして、寒気とかする? それともどこか痛む、吐きそう……?」
 男を調べた医師の見立てでは、特に異常は無いとの話であったが、そこはやはり行き倒れて救急車で運び込まれてきた患者である。やはりどこか具合が悪いのだろうかと考えたものか問いただす。
「……いや、此処は病院なんだな?」
「え? ええ」
「そこに俺は運び込まれた」
「そうよ」
 目を覚ました患者が混乱しているのはままあることである。冷静に、根気良く、優しく対応してあげなければならないと、職業意識の為さしめるものか、先ほどよりも対応が幾分柔らかいものとなっていた。
「……俺はどうして運び込まれたんだ?」
「……行き倒れ同然で街の郊外の森の中に倒れているところを、散歩中の人に偶然発見されて、その通報で到着した救急車に乗せられてよ」
 そのままだと、初夏とは言え凍死していたかもと、言葉を続けながら、だが、少しずつ男の質問の内容とその問うてくる様子のおかしさに、次第に訝り始める。
「なら、俺はどうして……」
 そこで言葉を濁す、しばらく言葉を探しているかような間があって、
「……どうして、そんな場所に倒れていたんだ?」
 結局、言葉は見つからずそのままに続ける。それは質問というよりも自問であった。
 看護師もそれで疑惑が確信へと変わった。記憶が混乱している。一時的なものか、もっと根が深くなるのかは判らないが。少なくとも、自分の手には余る。そう判断すると、看護師はポケットから取り出したDコンで昨晩から詰めている医師へ報告する。
 このDコンは特に病院用に調整されたものである。


「ええっと、それで、君はどうして自分が森の中に居たのかが解らない。それどころか、名前すら覚えていないんだね?」
 ベッドの隣に置かれた椅子に腰掛けた医師が、手許のカルテを捲りながら、男に確認する。三十前かと見える若い男性の医師である。彼が担ぎ込まれてきた男を検査したわけではないので、担当者の作ったカルテの記述が頼りであった。
 胸の名札や最初の自己紹介によると、フランツ=ベルガーと言うらしい。
「ああ……いや、はい」
 ぶっきらぼうに言いさして、慌てて言い直す。記憶は混乱しているようであるが礼儀はちゃんと覚えているらしい。
 そして落ち着くと、さっきの看護師に対する態度は、動揺していたとは言え、失礼なことをしたかな、と後悔の念が沸いてくる。
「……それでも、病院や看護師、医師と言ったものが、何なのかは解る?」
 男は無言で頷く。
……何故だ。
 それは判った。自分が今こうして医師との会話に使用しているのがドイツ語だと言うのも判るし、この言葉が使われるのが主に、地球連邦に所属するドイツ地区であるということも覚えている。
……なのにどうして、俺は自分の名前や年齢なんて、ごく当たり前の事が判らないんだ。
 そう自らを省みようとして適わず、苦悶する男の姿を見て、ベルガー医師は思った。
 自分自身の名前、年齢、家族関係を忘れてしまう、全生活史健忘症……いわゆる記憶喪失だろうか。
「うーん。脳波には特に異常は見られなかったらしいしなあ。特に外傷も見当たらない、と。するとやっぱり心因性の物かな」
 まいったなあ、と呟く。彼の専門は外科であって、精神科でもカウンセリングでもない。
 それ以上にこの全生活史健忘症という症例は絶対的に報告例が少ない。この病院の医師の手に負えるかどうか。
「なに、大丈夫さ。何かのショックで記憶が一時的に混乱しているだけかも知れない。一過性のものだったら今日のうちにも戻ってくることも充分に考えられるからね」
 我ながら、気休めでしかないなとは感じたのだがこれ以外に言うべき言葉は見つからない。
 実際に、一過性全健忘であれば、通常二十四時間以内に回復すると聞いていた。
「一応、警察の方には行方不明の届けの出ている人はいないか、と確認してもらっているけど。……良かったかな?」
 少し不安になって、罪悪感と共に尋ねる。
 この場合は致し方ない面もあるとは言え、医者には守秘義務と言うものがある。
 男が、自分の記憶が失われている事実を病院内に留めておいて欲しいと感じていたかもしれないからだ。
「……お気遣いなく。自分が何者かってことがもしそれで判るんなら」
 気弱げに、しかし確固たる意志をもって首肯する。
「ああ、いや。あくまでも確認なんで、届出がなければ判らないんだが」
「あっ、そうですね」
 少し肩透かし。照れた様に頬を掻きながら苦笑する。
 そのような様を、こうして見ると、意外と幼いのかもしれない。仕草や言葉遣いの端々に現れる年齢は、十七、八というところだろうか、青年というよりもむしろ少年と呼ぶべきであろう。
「取り敢えず、朝食を食べて、散歩でもして来てはどうだろうか……ああ、そうだ。証拠品として、君の着ていた服やらと一緒に財布も提出してしまったんだったっけか」
 思い出したと言った風に、呟く。そして暫し考え、
「よし。当座の小遣い銭は僕が貸してあげよう」
「いいんですか?」
 ちょっと驚く。いくらなんでも親切に過ぎやしないか。
「……なあ、君。って、名前が判らないというのも不便だな、後でそれも考えよう。さて置き、この病室を見てどう感じる?」
 男、改め少年の疑問を置いてけぼりにしてベルガー医師は尋ねる。
「……え!? えぇっと、清潔感があって、他には……」
「結構。オブラートにつつむ必要はないよ。無愛想で殺風景だ、そうだね?」
「……はい」
 観念して同意する。
「……率直に言って、うちの病院は貧乏だ。内装に金を使っているような余裕は無い」
 何が言いたいんだろうかと少年は首を傾げる。それに、貧乏だというなら尚更に自分の様な見ず知らずの人間に金を貸したりするべきではないのではないだろうか。それとも、そういう風に人が良いから貧乏なのか?
「失礼だが、財布をあらためさせてもらったよ。免許証や保険証といった身元を証明するような物がないか調べる為だ。誓って言うが中身には手をだしていないぞ」
 妙にそこを強調する。もしかすると一瞬ネコババの誘惑に駆られたのかも知れない。
「で、だ。全生活……ああ、記憶喪失で心細いであろう君にこのようなことを言うのは気がひけるのだが、入院費、治療費他を支払う方法はあるかな」
 あるわけがない。自分が一体どれくらい蓄えを持っているのかも判らない。
「……健康保険に加入しているか判らないんで、加入していない前提だと、かなりになるよ」
 つまり、金が。またたとえ加入していたとして、現状確認する術が無いのだから一緒だ。
「君の場合、身体そのものには異常は見られないんで、入院するよりも、ホテルかなにかに宿泊して通院した方が多分安くつくよ」
 少年が果たして日常生活を送れるのかという懸念はあるが、そちらの方が双方にとって有益である。
 少年にとっては、限られた財布の中身(ベルガー医師によると、節約すれば二月はホテル暮らしが可能な結構な額が入っていたらしい)を無駄にしなくて済む。病院側としては、入院患者の方が通院患者よりも儲かるのだが、この場合少年に支払能力があるのかが判らないので、迂闊なことは出来ない。
「お金だけ持って逃げるかもしれませんよ?」
「その場合は財布の中身から返して貰うよ。それで、そう言うという事は通院するってことだね?」
「はい。でもいいんですか、こんなこと勝手に決めて」
「大丈夫。院長は僕だから」
 さらりと言う。
「そうなんですか!」
 よもや院長が当直をしているとは思わなかったので大いに驚く。
「……うん、驚くよね。父親の後を継いで未だ日が浅いんで、何を言うか若造がって感じで、結構立場弱いけどね」
 思わず愚痴る。爺さんの代から勤めてる人も居たりするから……。
「取り敢えず、朝食は七時半だから、それを食べて、雑務を処理して、十時頃退院って流れで行くから」
 今、六時過ぎだから、あと一時間。腕時計を眺めて時間を確認しながら。
「解りました」
 その少年の頷きに、「うん」と頷き返すとベルガー医師と看護師はともに病室を後にした。


 四時間後、病院の一階ロビーでベルガー医師と少年が向かい合っていた。
 少年は病人用の寝巻きから、ワイシャツとスラックスとに着替えている。病院の売店で買ったものだ。これもベルガー医師の貸してくれた金で購入した。一番安いのを選んだのだが、それでも結構値が張った気がする。
 食料なんかと一緒に、あとで街の店で買ったほうがよかっただろうか。
 ちなみに食料と言えば、出された食事は結構旨かった。空腹もあったものか、その身体の健康さを誇るかのように、己の割り当て分を瞬く間に食べきると、同じく売店で売られていた菓子やらを購入して、大いにその健啖ぶりを発揮したものだ。
 ベルガー医師は、値段の手頃なホテルへの道行きが書かれた地図を少年に手渡す。彼が書いたものだ。既にホテルへも予約の電話を彼の名前で入れてある。地図を受け取って少年は一礼して感謝の意を告げる。
「何から何まで、お世話になります」
「いや、こちらこそ追い出すような真似をして済まないね。ハンス君」
 あの後の話し合いの結果、便宜的に少年はハンス=ミュラーと呼ばれることになった。
 粉屋のハンス。明らかに見た目ゲルマン系ではない少年に名付けるにはいささか妙な感じもするが、さりとて何処の国の人間かが判らないのに、アラビア語やスワヒリ語で名付けるのももっとおかしな話だろう。
「ブータン王国やフィンランドあたりの人間である可能性も充分にあり得るのだからね」
 そんな冗談めかした発言はベルガー医師。
 ハンスもミュラーも共にありふれた名前であって、姓である。言うなれば、名無しの権兵衛、山田太郎的な名前だ。
 そして仮にハンスと呼ばれることになった少年は、お気になさらずにと言った感じに手を振ると、ベルガー医師と看護師たちの視線を背に受けながら、病院の外へと出て行った。

 外に出て、地図を見る。院内で一応説明されたのだが、改めて確認する。クロスタッヒェン市役所のウェブサイトからコピーした街の簡易地図にベルガー医師が印を付けたものである。
……ええと、病院がこれだから、歩いて四十分くらいかな。あ、ベルガー先生がお昼は別に買っておくように言ってたっけか。
 なんでも行く先のホテル――クロスタッヒェン・デル・リーゼンと言うらしい――では、朝食以外の食事は出ないらしい。レストランはあるそうだが、節約するならばスーパーや総菜屋で買っていく方が良い、とベルガー医師お勧めの総菜屋も紹介されていた。
……取り敢えず、ベルガー先生の勧めてくれた総菜屋で、適当に昼に食べる物を見繕ってからホテルに入る。手続きをして部屋に入るのが正午ごろってところかな。
 そんなふうに、軽く予定を計算して歩き出す。
 季節は初夏である。
 通りを見渡すと混雑するほどではないが、適度に人が行きかっている。住宅街なのか、勤め人や観光客といった感じの人間は少なく、買物がてら世間話に花を咲かせる主婦や散歩する老人、遊んでいる子供たちなど地域住民の姿が多い。
 彼らには自分はどう見えるのだろうかと、そんなことを考えながら、しばらく歩くと、繁華街へと街の趣きが変わっていく。
 聞こえてくる音も、鳥の声や人の話し声から、広告の音楽やら自動車の発する音に変わってくる。
……今の車は燃料電池で走るから、大昔のガソリン車に比べればうるくないけれど、それでもやっぱりうるさいんだよな。と言うか、俺達の世代だとそもそもガソリン車なんて見ること無いしなあ、ぶっちゃけ、比較できん。
 ふいに、そんなことを考える。そして思う。何でこんなこと覚えてるのに肝心のことが判らないんだ、俺。
 憂鬱になりかけて頭を振る。いかんいかん、落ち着け俺。こんなことで落ち込んでたらこの先やっていけないぞ。
 そうこうやっている間に、くだんの総菜屋に着いた。
 なかなか繁盛しているようで、昼飯前ということもあって買い物客が多くいる。元来は肉屋らしく、腸詰の類が特に充実していた。一応、パンやサラダ、ビールにミネラルウォーターの類も置いてある。
 後で買いに来ればいいかとも考えたのだが、念のため夕食の分も買っておくことにする。
 ソーセージが挟まったパンとローストチキンのサンドウィッチを買うことにした。夕食用には日持ちする物を中心に幾つか見繕う。
 そんな自分に考える。結構手馴れているな俺。少なくとも箱入りって線は消えたかな?
 飲み物はミネラルウォーター。ビールにするかと迷ったのだが、一応は病み上がりということで自重して、一リットルと五百ミリのペットボトルを一本ずつ買う。これには後で後悔することになる。
 道に迷ったのだ。うろうろと彷徨い歩くうちに、最初はどうってことなかったこの重みが少しずつ負担になってくる。買物の入ったナイロン製の袋の持ち手が、手に食い込んで痛い。
……訂正する。手馴れてないって俺。金払って、袋貰って、後悔するってどうよ。
 ナイロン袋は有料だ。買物袋を、それもリュック式のを早急に買おうと決める。それがなにかと便利だろう。
 道行く人に尋ねたりしながら、どうにか目的のホテルに着いた時には、とうに十二時半をまわっていた。


 ホテルは三階建ての建物で、旧西暦時代に建てられたと思しい、いささかならずに古色蒼然とした物だった。
 勿論、内装や設備そのものは現代風に改装されている。これは後で知ったことだが、元は16世紀に建てられた修道院で、この街で現存する建築物の中では、最古の部類に入るそうである。と言うよりも、この“小さな修道院(クロスタッヒェン)”の名を持つ街そのものが、巨人伝説の残る中世の修道院の門前町として誕生したというのが正しい。
 そしてその伝説を踏まえて名付けられたのが、クロスタッヒェン・デル・リーゼンであり。その意味するところは“巨人の小さな修道院”とでもなるのだろうか。
 ホテルになったのは大分時代が下ってからであるが、それでもかなり古い。帝政時代、それも一九十二年と第一次の世界大戦直前の創始だと言う。
 そんなこんなで伝統はあるが、格式はそんなに高くなく、一部、下宿のような用途で利用されている部分もあるらしい。今も全部で五十二ある部屋の内、半数近くは長期滞在者(中には三十年以上生活している者もいるらしい)が占めている。
 ホテルにチェックインすると、ボーイが部屋へと案内がてら手荷物を運んでくれる。
 手荷物と言っても、病院の売店で買った下着が何揃いかと、先ほどの総菜屋で買った昼夜の惣菜と水しか入っていないのはご愛嬌といったところだが、マナーとして手渡す僅かばかりのチップが今の手許不如意の身にはきつい。
 ハンスの部屋は三階であった。
……うわ、手動エレベーターなんて初めて見たよ。いやま、全てが正直始めてなんだが。
 ハンスが自嘲交じりに驚いたように、このホテルのエレベーターは、完全手動方式のエレベーターであった。現代ではもはや珍しいを通り越して博物館級の、その運転手がハンドルを操作して運転するエレベータに乗って、ちょっとした驚愕とともに案内されたのは三階の東から二つ目の部屋である。残念と言うべきか、あまり広くはない。
 どうもこのホテルは上に行くほど狭く、そして安くなるらしい。
 ハンスの部屋は元は下級の修道士や寺男用の部屋として使われていたものであるらしい。逆に下が高価なのは、客や年を食って足腰の衰えた老修道士たちの部屋として使用されていた為、内装・調度品が豪華で、なおかつ広い為である。
 荷物をテーブルに乗っけて、自分はベッドに腰を降ろす。そうして倒れこむように手を投げ出すと大の字に寝転がる。
 少し疲れた。記憶が失われているという精神的なものと、道に迷って予定以上に歩かなければならなかったという肉体的なもの。双方がハンスの身を苛む。
……あーまあ、考えてもしょうがないか。
 本質的に楽天家なのか、そう簡単に結論づけると、むくりと起き上がり、腹が減ったなと、荷物を漁って先ほど買ったパンとサンドウィッチを取り出す。
 美味い。人に勧めるだけのことはある。そう思う。美味い物を食べて腹を満たすと、なんとなくどうにかなりそうな気がしてくる。
……食事ってのは偉大だな。あれだ、やっぱ人間腹いっぱい食えればおかしなこと考えないんだろうな、つうか食えないから戦争ってのは起きるのかね?
 そんなことを、とりとめもなく考えていると、疲れと満腹感に導かれたのか、猛烈な勢いで睡魔が襲ってくる。
 敢えて抗うようなことはせず、そのまま眠りの誘惑に流されてみることにした。
 意識が闇へと溶け込んで行く。


……何時だ?
 それが最初の思考の全てであった。
 目が覚める。それから考えた、ここは何処だったかと。ホテルの一室、自分の部屋だ。
 もう一度考える、今は何時だ?
 最早部屋に差し込む光は無い。夜なのだ。昼間の陽光に変わって窓から飛び込んでくるのは煌く星の映える空と、ライトアップされた街の景観。部屋に備え付けの時計は七時過ぎを指している。その時計が狂ってでもいない限り、六時間以上は眠っていた計算だ。昼寝と言うには少々長い。
……腹減ったな。
 主観としては今さっき食べたばかりの筈であったが、身体はしっかり次の食事を求めていた。
 少し逡巡する。……流石にこれで食べるのは人として問題がないか。
 ホテル内を散歩してからそれから食べようと考える。大した変わりがあるとも思われないが、ちょっとした言い訳である。
 扉を開けて部屋の外へ出ると、賑やかな歓談する声が聞こえてきた。三階の西側、突き当たりの方である。
 疑問に感じて、そちらに足を向けると十数人の宿泊客が宴会を開いていた。
 最初、こんなに騒いで良いのかと感じた。この時点では判らなかったが、この宴会を開いているのが、実質的に下宿の店子と化している、このホテルの長期宿泊客たちであり、伝統的にこいつらが騒ぎまくるので一般客の客足が遠のいて格安の料金で泊まれるのである。
 追い出せば良いような気もするのだが、このホテルの代々のオーナーたちはこの種の変人たちを不思議なほどに好意的に迎え入れてきた。
 それで現状、と言うよりも昔から、三階はこの住人達の隔離施設の様相を呈していた。
 そして実のところ、当のハンスも彼らの同類として扱われていたのであるが、そんなこととは露知らず、戸惑うハンスになんともぶしつけな声が掛けられる。
「おお! 若人、お主が噂の記憶喪失という、中々にステキな運命をしょった新顔か!」
 こう言ったのは、宴席の中心にいた七十過ぎかと見える、綺麗に禿げ上がった卵型の頭とデッキブラシのように硬質の髭を蓄えたかくしゃくとした小柄な老人である。こっちゃ来い、こっちゃ来い、としきりに手招きをしている。
「こらこら、ヴォルフ。いきなりそんなことを言ってもお兄さんが混乱するだけだろうに、こういう場合は先ずは自己紹介からというのが筋だろう」
 そう、老人をたしなめるのは、彼の隣に座った、同じく七十過ぎの老人。ヴォルフと呼ばれた老人とは対照的に背が高くて豊かな頭髪は整髪剤で綺麗に撫で付けられている。
「むぅ、これはしたり。我輩としたことが、興奮のあまりいささか礼を失しておったか。我輩はヴォルフガング・アーデルベルト=フォン・ザカリアスと言う」
「僕はフェルディナン=マリエール。僕達はこのホテルの三階の住人だよ」
「ホテルの……住人?」
 ホテルと住人があまり結びつかない。ホテル暮らしをする人間という者の存在を知ってはいるが、そういう人々はホテルの廊下に椅子と机を持ち出して大騒ぎの宴会をやらかすような、不可解な存在と違うような気がする。
「そう、ホテルの住人。長い人も短い人も居るけれど、僕なんかはここに住み着いて二十五年だね」
……二十五年って正確な年齢は判らないが俺の生まれる前じゃないのか?
 普通に尋常な期間ではないだろう。今時アパートだってもっと早く出て行くぞ。
「うむ、我輩は二十二年だな、だがな若人よ、そんなもんで驚いていてはいかんぞ、このホテルの長い歴史の中では、このホテルで産まれて、死ぬまでの八十九年間を生活したつわものが過去に存在しておる」
「……はあ」
 正直、理解を超越している。取り敢えず頷いておくくらいしか出来なかった。
 親がここに住み着いていたということだろうから、下手すると、もしいたとしてその人物の子供を入れたら一世紀を越えるかも、そう考えて、ふと、思いついたことがあった。尋ねてみる。
「ええと、それはもしかしてホテルのオーナーとかって事はないですよね?」
「ん。若人、おぬし、なかなか聡いな! その通りじゃ!」
 周囲からも感嘆の声が挙がる。この八十九年云々はヴォルフ老人のお得意であり、新入りは大概この言葉に騙されて信じ込むのだ。今、彼らの周囲に居る人間たちも大方が騙された口である。
 もしかして自分はからかわれているのだろうか。この爺さんたちに。
「まあまあ、ゴメンね、お兄さん。この人こういう冗談が好きでね、悪気はないんだよ」
 背の高い紳士的な方の老人が取り成してくる。
「でも、僕らが数十年暮らしているって言うのは本当のことだよ。最長記録は……四十二年かな」
 半分以下になった。それでも異常な長さではあるが。
「まあ、それはさて置き一杯どうだろうか? ……宗教的・信条的な禁忌ってことはないよね、それなら。若い人は珍しいから皆面白がっているんだよ」
 そう言って、右手にビール瓶を左手にビールジョッキを持ってハンスの方へ差し出してくる。
 皆の視線がハンスへと集まる。周囲の人間の期待感が圧力をもって感じられる。断れそうな雰囲気ではなかった。
……ええと、俺はムスリムだったっけか? 違うような気がする。もしそうだったとしても、不可抗力での忌み破りはアッラーは許していたような覚えがあった。本当、いらんことばかり覚えているよなぁ、と思いながら覚悟を決めて頷く。
 そして、
「頂きます」
 そうして一息、とはいかなかったが、どうにか二息で飲み干す。
 それを見て、「良い飲みっぷりだ」と周囲からやんやの喝采が挙がる。
 空きっ腹にアルコールはこたえる。いつもより酔いが早い……いつもより?
……なるほど、俺はアルコールは普通に摂取していたんだな。こう感じるということは。
 昼間、総菜屋の店先でビールを買おうか迷った事と言い、アルコールとは比較的親しい間柄であったようだ。
 改めてハンスは周囲。宴席の場に集う者たちを眺める。
 そうすれば気付くが、本当に色々な人間のいることいること。
 肌の色一つとっても、黄色、赤銅、純白、漆黒と人種・民族の見本市といった観があるし、そこには男女の別にとらわれない、第三の性別を持った人々もまた、違和感なく溶け込んでいる。
 顔立ちや身なりから、連想される職業もばらばらである。公務員か銀行員かとでもいった風情の堅物そうな人間と、ギャングかチンピラにしか見えない風体の男が肩を組んで歌っているかと思えば、その傍らでは明らかにお水の世界の住人と牧師服の中年が酒を飲み交わしている。
 年齢はだいたい下が二十の半ばから上は七十過ぎと言ったところか、そう言えばフェルディナン老人が「若い人は珍しい」と言っていたか、ハンスは最年少の部類に入るらしい。
 彼らの中心に居て、宴会の音頭をとっているのはやはり、一際年長であるらしいヴォルフとフェルディナンの両老人である。その老人二人に先ほどから感じている疑問をぶつけてみた。
「毎晩、こんな宴会をしているんですか?」
「否。毎晩ではないぞ」
 てっきり、肯定の言葉が返ってくるのだろうと思っていたら、意外であった。週一くらいなのかなと考える。だが、それは甘い考えであった。彼らの所業は、毎晩という考えさえも軽く超越していたのだ。
「毎日だ! 若人よ。朝から、晩まで、そしてまた朝まで我輩たちはここで宴会をしておる」
 毎晩ではなく毎日であるらしい。
「好きな時に飲みに来て、飽きたら出て行く。そのまま仕事に行っても良いし、仕事帰りにそのまま参加しても良い。見ず知らずの人間が飛び入りで参加することもあるし、数十年来の馴染みがある日急にこなくなることもままある。若人よ、お主も好きなときに参加すれば良い。何時だろうと、大概、一人か二人はここにおる」
 昼間、誰とも出会わなかったのは偶々であった。夜のほうが集まりは多いのも確かであるが、その時既に人はいた。単に酔いつぶれて眠っていたから静かだっただけである。
「……ただし、二階より下と各員の部屋に宴会を持ち込んではならぬぞ」
 三階の住人の中にも、この種の乱痴気騒ぎを好まない人間もいれば、好む者とても日によっては静かにしたい時もあるだろう、彼らを巻き込むのはタブーである。だから三階廊下の宴会場のみで行えということだ。それに二階以下の一般客相手のホテル業務を行っている一般社会の日常に彼らの日常を持ち込んでもいけない。
 三階住人たちはユニークであるがゆえに、お互いのプライバシーを意外なほど尊重していた。侵害しているように見えて無理に踏み込んでくることは無い。
「ああ、でも、それぞれ合意の上で部屋で静かに飲み交わすというのはありだからね。僕もエレーナ君や茉莉花クンの部屋でしっぽりと二人きりで飲み明かしたいものだよ」
 そんな言葉に周囲からやじが飛ぶ。スケベイー、エロー、犯罪者ーと。
「あらん、もう。ムシューったらエロいんだから」
 こう言うのはスラブ系らしい二十代半ばの美女。彼女がエレーナであるらしい。ほどよく頬は上気して、瞳はとろんとしている。いい感じに出来上がっているらしい。
「まあまあ、ああそうだ、茉莉花クンというのは君の隣人になる少女だよ。君の部屋の隣、東の角部屋が茉莉花クンの部屋だよ。羨ましいねぇ、君」
「はあ、それで、どう言う人物なんですか、その人は。」
 少々呆れながらも一応は聞いておく。いつまでここに居ることになるかは判らないが、これから自分の隣人となる人物だ。
「“二町・Y・茉莉花”クンと言ってね、十五歳なんだが、これがまた中々どうして、上背があるせいかな、胸も立派だし腰つきもなまめかしくてだね、肉体的な成熟の中にも、匂いたつような青さがだね……たまらんわけだよ! 判るかね、君ぃ!!」
 鼻息荒く言う。紳士に見えて、なかなかどうしてエロ爺である。
「……いや、そういうことを聞いているわけではなく」
「いいや、聞きたまえ、君。これが一番大切なことなのだ。僕の見立てによるとだね、恐らくトップとアンダーの差は二十四cm……FないしGカップだね、おまけに未だ発育途上だ、均衡というものを無視して、無駄に大きすぎるのは美しくないが、彼女ならばきっと……。次にウエストは五十八前後、ヒップふぁ……痛!……ぬぉぉぉぉ……」
 どこかイッてしまった目付きで喋り続けるフェルディナン老人であったが、ふいに奇声を発する。直前に何か音が響くのをハンスは聞いた。快音ではなく、鈍いいやな音である。
 喋り続けるフェルディナン老人に気をとられて気付かなかったのだが、先ほどまではこの場にいなかった一人の女性が、いつのまにかフェルディナン老人の直ぐ後ろに、片足を上げた状態で立っている。その上げられた足の向かう先は、老人の腰の右後ろ側である。
 つまり、蹴っているのだ。容赦なく踵を捻り込むように。そのまま、足を踏み込むように、振り下ろす。前のめりに倒れるフェルディナン老人。どうにか、腕立て伏せの様な体勢で受身をとる。ぜいぜい、と荒い息を吐く。そして叫ぶ、
「……ま、前のめりに……倒れるのは危険なんだよ、いや本当に!」
 そのような抗議は軽く無視してなおも執拗に靴の踵で踏みにじる。幸いにと言うべきか、彼女の靴がヒールの高い物ではないのがせめてもの救いかもしれない。
「……何を、馬鹿な、ことを、ほざいて、いらっしゃい、ますかね、この、色ボケ老人は!」
 笑顔を浮かべながら、一音ずつ強調して発音し、それに連動して足にも力をこめていく女性。
 目下彼女の足の下で呻き声を上げているフェルディナン老人の、その口から語られたとおりに、背も高く豊満な肢体を有している。その為、見た目二十過ぎに見えるのだが、彼女がくだんの茉莉花であるならば、十五歳なのだから少女と言うべきか。
「……ま、待ってくれないか、茉莉花クン! 僕はどこぞのオーストリア人とは違うんだよ! こんなことされても痛いだけで、嬉しくないよ! いや、本当に! ……痛! 痛いって、これ、老人虐待! 暴力反対!」
……ザッヘル=マゾッホ?
「おお。お嬢ちゃんか、いま帰りかね?」
 目の前で展開されている老人虐待を軽く流して……と言うよりも、毛ほども気にすることなく、虐待の当事者の一方であるところの少女に声を掛けるヴォルフ老人。観客と化している外野の連中も口々に、おかえりー、おはよー、こんばんわー、と少女に挨拶する。が、やはり気にする者はいない。いつもの事なのだろう、彼らにとっては。
「い、いいじゃないか。この年になると勃つものも勃たなくなるんだ、せめて目を愉しませるくらいはしてくれてもばちは当たらないだろう! って、!!!……………………」
 懲りもせずその様な事を言う。更に強く、今度はふくらはぎを踵で踏み抜かれる。とうとう声を発することも出来なくなったらしい。
……初対面でホラ吹く爺さんに、紳士もどきの変質者、とどめは容赦ない女にそれを笑って眺めてやがるまわりの奴ら。
……大丈夫か、俺。
 もはや一言も無いハンス。
 なんでも、奇人変人の集う場所として、この近所ではつとに有名な場所であった。
 何故、ベルガー医師がこのような場所を紹介したのかは謎である。後のこと、本人に言わせると「ユニークな人たちが多いから、良い刺激になるのではないかと考えた」とのことであるが、恐らくはそこまで考えていない、単に宿泊料が安いからというのが真相であろうかとハンスは思った。それほど、このホテルはこのレベルのホテルの相場に比べて、格安であった。

 数分後。
 老人への折檻を終えた茉莉花はようやく気付く。目の前に立つ、呆然として棒立ちの見慣れない男の存在に。
「……もしかして、新入りさんかな?」
 ハンスは頷く。
……うわ、印象悪ー。
 強張った顔に曖昧な笑みを浮かべる。そして慌てたように周囲を見回す。にやにやと笑って自分たちを見ている酔っ払いどもに、足下には老人が転がっている、こちらのスカートの中を覗きながら。取り敢えず、その老人はもう一度蹴っておく。ぐぇという声を発したような気がするが気にしない。ついでに廊下の端っこへと蹴り飛ばしておく。
……なにか、誤魔化す手段はって、あるわけないし。しゃあない、ここは一つもう腹を括って、自己紹介でもしてお茶を濁すしか!
 心中で呟き決意する。これを後ろ向きというか、前向きというかは評価の分かれるところだろう。
「ええっと、あたしは二町・Y・茉莉花と言います」
 今更の感はあるが、取り敢えず挨拶の間は猫を被っておく。
「日系イラン人と言うかイラン系日本人と言うか、国籍は日本で混血です。貴方のお名前は?」
「……一応、ハンス=ミュラーと呼ばれています」
 あはは、と笑いながら内心で一応ってなに、偽名? などと思っている茉莉花にヴォルフ老人が言う。
「おお。お嬢ちゃん。そこの若人はいわゆる一つの記憶喪失という奴だ。名前が判らぬらしいぞ」
「え、うそ、まじ! えー、ちょっとそれなら、こんな変人ばっかの変な処に居て大丈夫なの?」
 そう言う変人の中には自分は含まれていないかのような口ぶりである。
 ぶしつけではあるが、一応、自分のことを心配してくれているらしいと、ハンスは思うことにした。
「身元不明で保険証も無いんで、入院する費用が……。後、身体そのものは健康体なので」
「ベルガーのところのフランツ坊の患者らしいて」
 ヴォルフ老人が補足する。
「ああ、はいはい。フランツ院長の差配なわけね」
「そっかー、あそこなら支払能力の不確かな患者を泊めておく余裕は無さそうだし、患者にホテルを勧めたりもするか。やっぱ、あれよ、周旋料でも受け取ってるんじゃない」
「恐らくの」
 その言葉に段々と失われつつあった一つの想いが、一気に軽くなる。フランツ医師への感謝の念である。
……あの先生、……いや、真っ正直に感謝していた俺が馬鹿なのか? いや、他意の無い無償の善意なんてものを期待するほうが間違っているんだな、そう考えればベルガー先生はかなり好意的だよな。
 そう思い直すと、退去の断りを入れる。
「申し訳ないんだけど。少し、頭痛がする。疲れたみたいなんで、今日はもう部屋に戻らせて貰っていいですか」
 いい加減、精神が擦り切れそうだ。
「あ、そうね。病気なんだもんね、疲れもするよね。お休み」
「ふむ。残念だな、もう少し話を聞いてみたいと思ったんじゃが。そういうことならば仕方がないの」
「やは、それはいけないね。気をつけてくれよ、人間身体が資本だからね、若いうちから病みでもしたら事だ」
 口々に労いの言葉をかけて来る。いつのまにかフェルディナン老人も涼しい顔で復活している。
 恐らく彼らに頭痛の原因は自分達にあるとは夢にも思っていないのだろう。それか解っていても敢えて無視しているのかは解らないが、この人たちにも悪気はないんだろうな、とは思う。同時に、付き合うのは疲れるだろうとも思うが。
 ハンスはその場を後に、部屋に戻ろうとして気付く。後ろに人の気配がついてくる事に。
 振り返って尋ねる。
「何か?」
「いや、あたしも部屋がそっちなんで」
 そう言えば、隣室だったか。納得するとともに、いささか自意識過剰だったかなと思い、言う。
「なら、途中まで一緒に行きますか」
「うん。それよりもあたしの方が多分年下だし、歳も近そうなんだから敬語を使う必要は無いわよ」
 そう言う本人は既にタメ口である。
「そう……そうか? なら、そうさせて貰うよ」
「そうそう。お隣なんだから仲良くしましょ」
 並んで歩く。そうは言っても所詮は小さなホテルである。直ぐに目的の場所には着く。
「それじゃ、お休み」
「おやすみー。よき眠りをー」
 ハンスは部屋のドアを開けながら、挨拶をする。見れば、茉莉花も後ろ手に手を振りながら返して来る。ふんふんと何か鼻歌を唄っているらしいが聞き取れない。それを見送って部屋に入り、ベッドに突っ伏す。
「あー、どうなるのかね、俺。マジで疲れたわ」
 ぐー、と腹の虫が鳴る。それで思い出す、自分が空腹だったことを。
 確か自分は小腹を空かす為に散歩しようとして外に出たんだったよな。
「食うか」


「くしゅっ!」
 自分のくしゃみの音に目を覚ます。
 いつ眠ったのかは覚えていない。食べ終えたことは確かなのであるが、気付いた頃には眠ってしまっていたようだ。
「……朝か。……寒、やっぱ七月っていったところでこの時季は未だ冷えるよな」
 布団を被らずに眠りこけていたから尚更に。ぶるっと震えながら今更ながらに毛布を身体に巻きつける。
 それでそうなふうなことを考えていると、「こんこん」と扉を打つ音が響いて、次いで声が掛けられる。
「ヘル。ヘル・ミュラー。ご起床ですか? 朝食の用意が整っておりますが、部屋へとお運び致しましょうか、それとも一階の食堂でお取りになりますか?」
 ホテルの従業員だ。それで思い出すのが、そう言えばここって確かホテルだったっけかと。完全に忘れていた。それほどに三階の住人たちは強烈だった。
「あー、持って来て貰えるかな」
 そう答える。すると五分後にお持ちしますとの言葉に違わず、五分きっかりで食事が運ばれてきた。
 食後にシャワーを浴びてから、服を着ながら考える。服も買わないとな。流石に一着しかないのでは問題だろう。
 これから病院に行かなければならない。ベルガー医師に来るように言われていた。帰りに他の雑貨と一緒に幾つか買おう。仕事も探さなければならない。その為にも着たきり雀の状態は脱しておくべきだ、信用を得るのに。
 だが記憶喪失の身元不明を雇ってくれるところがあるだろうか。
 やはりと言うべきか、かすかに期待していたのであるが、結局ハンスの記憶は回復していなかった。


「それで、どうだい。調子の方は」
「悪いです」
「ありゃ、そうなのかい」
「何なんですかあのホテルは」
「面白い人たちだろ」
「面白すぎですよ。ついてけません」
「じきに慣れるよ」
……なれたくありません。
 深くそう思う。
 院内の談話室で椅子に腰掛け、ハンスとベルガー医師とが清涼飲料水で満たされた紙コップ片手に雑談をしていた。検査を終えて帰ろうとしていたところをベルガー医師に呼び止められたのだ。ちなみに検査を担当したのはベルガー医師とは別の精神科の医者である。彼は外科医なので専門外。
「……ところで先生」
 ベルガー医師のおごりである、黒っぽい炭酸飲料を飲み干したところで、少し躊躇いがちにそう切り出す。
「なんだい」
「何か適当な仕事はありませんかね」
「……何か君、物凄く前向きだねぇ。記憶が無くなったんだよ、普通、仕事を探すどころでなく、うろたえたりするもんなんじゃないかい?」
 呆れたとも感心したともつかない声をあげる。
「まあ、そうなのかもしれませんが、現実問題、ことの当事者としては記憶がどうとかよりも生活していかなきゃならないんですよ。それにはやっぱり先立つものが」
「……開き直った? 素敵だね、とは言え、仕事ねぇ」
 最近はどこもかしこも不況だからねぇ……。そう呟くと腕組みして考えるに。
「うーん……僕よりも、三階のお年寄り達に相談してみちゃどうだい。妙に顔の広い人たちだから」
 あまりお近づきになりたくないんですが。ベルガー医師の言葉に対して、反射的にそんなふうに考えこんだハンスの耳に、けったいな歌が飛び込んでくる。
「よ〜ぞら〜を、切裂く! ピ〜ンクのイナズマ! マ〜スクド・ガイダー」
 どこかで聞いたような名前だ。どこぞのヒーローのバッタ物くさい。
「最強〜無敵ッガイッダー!」
 調子の外れた歌はさらに続く。歌う声そのものは悪くないのだが、何とも奇妙なおかしさがこみ上げてくる。その声はだんだんと熱を帯びていく、そして同様にだんだんと近づいてくる。
「ガイダー! ガイダー! ガイッダー!」
 とうとう、歌い手の姿があらわになる。歌の内容とはあまり似つかわしいとは思われない大人っぽい少女であった。歌うことに夢中でこちらには気付いていない。
「唸るぜ、轟け、ガイダーパァアンチ、星の果てまで吹ぅき飛ばせっ!」
 周囲の人間達もその殆どはごく一部をのぞいて気にしていない。五月蝿いと煩わしげな者もいるが、大半は「いつものことだ」というふうな、遊ぶ子供など微笑ましいものを見るような感じである。推測するに彼女の歌を聴くのが初めてではないのだろう。
「乙女の祈りを力に変えーて、群がる悪〜を薙ぎ倒せ! そこだ〜閃け、切っりっ裂け〜、天下無敵のガイダッブレェェ……ぶれぇ……うわぁ! み、見た! き、聞いてた!?」
 自分を見る周囲の顔ぶれにハンスが存在することに気付く。恥ずかしいと言う自覚はあるらしい。顔を真っ赤にして聞いてくる。
「うん、まあ。それで、何やってんだ……茉莉花?」
 そう、それは茉莉花であった。
「え、いや、仕事にね」
「仕事?」
「ああ! そうだ、ここに居たよ一人」
 ベルガー医師が叫ぶ。そんな医者の姿に、「先生?」「どうしたの?」二人が訝しみの声をあげる。
「いやね、彼が仕事を探しているんだよ。それで相談されていたんだけれど、いつだったか茉莉花。君、雑用のバイトを探しているって言ってなかったかい? どうだろう、彼を君のところで雇うと言うのは」
「……いや、いきなり言われても、状況の把握が……」
 面食らったような顔をし、右掌を二人に向けて左の人差し指を米噛みにやる。それで、「ちょっと待ってね」と考えて……
「まあ、私は別にそれでも良いんだけど、ハンスはどう?」
「どうって言うか、そもそも雑用ってどんなことをするんだ?」
「いや、コピーとったり掃除したり、お茶入れたりの本当の雑用だけど。難しいことは何も無い分、労働量に比べて給料安いわよ」
「……うん。それでも良い。今は取り敢えず収入のあてが必要なんだ」
 逡巡は僅かであった。とにかく働き口である。選んでいられる立場ではない。
「そう。なら、ここの仕事を終らせて、社の方に行くから、待っててもらえる? ちゃっちゃと終らせちゃうから」
「何か手伝うことあるか?」
「ええっ、でもこれは、給料出ないわよ」
「別にいいって」
 礼のつもりだった。
「そうね、ならお言葉に甘えるわ、手伝ってもらえる。ついて来て」


「技師だったのか?」
 工具を茉莉花に手渡しながら、彼女の言う仕事とやらの内容を見て、そう尋ねる。
「まあね。もっともここでの仕事は半分趣味でやってることなんで、本職のそれとは少し違うんだけど。エンジニアじゃなくて、デザイナーかな?」
 茉莉花曰くに半分趣味と言うのは、この病院で使われている、介護用のパワーアシストスーツの整備である。
「実はこれ、私が設計から組み立てまで一人でやったのよ」
 へえ、っと感心するハンスに茉莉花は続ける。
「さっきの歌聞いてたでしょう?」
 ハンスは頷く。
「そっか。うん、あれさー、あたしの中にいるヒーローのイメージなんだよね。それで特撮……って言って判るかな?」
 それも何故か記憶にある。特に日本のSFX作品の一分野の多分に概念的な名称だ。
「十五にもなった女の理想が、あっタイプって意味じゃなく成りたいのね、それが少年漫画の主人公だの、戦隊ヒーローだのってのも色気のない話なんだけどさ。超人願望っていうのかな、憧れるんだよね。それで気付いたらこう言う強化服だとかPTだとかのことを研究してたのよね。……実は魔法少女はもっと好きなんだけどさ、魔法は流石にね」
 そう言って苦笑する彼女の常識の中には、魔法はやはり存在していないようである。しかしこれが正常な反応だろう。
「さぁてと、これで良し。定期メンテ完了〜、致命的な異常はなし、と。もう、完璧なシステムね」
 自画自賛的に自分の構築したシステムの優秀性に酔いしれること一頻り。
「それじゃ、行こっか」
「ああ。それで今更気味だが、その社ってのは何処なんだ?」
「シュナイダー社。知ってる? と言うかもし知ってたとして、覚えてる?」
 覚えがあった。確か、軍需を中核に結構名の知られたコングロマリットだった筈だ。
「ある。自分でも意外だが、昔の俺は結構物知りらしい、それともこいつは常識か? 自分に関する事以外は結構覚えているな」
「そういうもの?」
「らしいな」
「あやふやねー」
「そういうもんだ。それよりもこれも今更なんだが、突然行って雇ってもらえるもんなのか?」
 その点が多少気に掛かった。
「あっそこは大丈夫よ。あなたを雇う部署は開発部の開発2課って処でさ、そこの責任者はあたしだから」
「……まじか?」
 それは結構偉いんじゃないだろうか。
「まじまじ。言うなれば課長よ。正社員は人事部の管轄らしいから無理だけど、必要に応じてバイトの一人二人雇う程度の裁量は与えられてるから。そうでなくてもシュナイダー社ってかなり技術者や科学者の扱いが良いのよね」
「驚きだな」
 本当に。昨日といい今日といい驚いてばっかりだな。そして思う。自分って物を見失った驚愕で始まった人生だ、こうやって驚き続けるのが運命なのかもしれない、と。
 くつくつと思わず笑いがこみ上げてくる。どうしたのかなこいつは。と言う視線で茉莉花が自分を見ているが構うものか。
……次は何が起こるのかねえ。


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