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第参話 

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3-2 【〈竜〉の胎動‐ブルム】



テレサ=アッバード少佐とシュナイダー社職員らヴァルカン計画開発陣による定例会議が行われた日から一週間ほど後のことである。あるいはハンスが茉莉花に雇われるちょっと前。
 クロスタッヒェンの中心街。一世紀の歳月を閲するシュナイダー社の本社社屋はそこを走る目抜き通りに面していた。建設当時に流行した復古調の建築様式でそびえるその威容は、同社が単に地図の上にてそうであるのみならず、経済的・政治的にもまたこの街の中心であることを明示している。
 そして今、同敷地内に立地する、同社開発部の保有する研究施設の一室にて、その作業は進められていた。
 十二、三人の年齢も肌の色も様々な、ただ理学工学の研究者、技術者であるという要素で同一な人種によって構成される一群の、白衣やスーツを身に纏う人々が慌しく立ち回っているその中に、一見して判るほどに他と異なった空気を纏った若い女性が一人静かにぽつねんと手持ち無沙汰に佇んでいた。
 彼女は地球連邦軍の制服を着ていた。いや、どちらかと言えば、服に着られているといった印象を与える、そんな初々しさを纏った女性である。いや少女と呼ばれる頃は過ぎたが未だ“女性”と呼ぶには成熟の足りない娘と呼ぶべきなのかもしれない。
「〈ブルム〉の調整作業は、どんな調子なのです?」
 メリィベルことメアリー・アン・ウルミラ=ベル‐シャルマ少尉は、その少し大きめの口を開きそう尋ねた。
 支給されたばかりで未だ新品同然な制服の窮屈さにか、その場に居ながらにして部外者であるという居心地の悪さにか、さも耐えかねたといった風情である。
 インド亜大陸出身の父ゆずりの薄い褐色の柔らかな肌にかかる肩までの髪は艶やかに黒い。その秀でた額の下には母親ゆずりの大きな瞳が輝いていて、その明るい色調の青い瞳には理知的な光が湛えられている。
 目鼻立ちはくっきりとしていて、逆三角形のシャープな顎と引き結ばれた唇に、碧眼の上を走る太目の眉毛が強情とも言える気性の、彼女の意志の強さを表しているかのようで、その顔立ちそのものは、美人と云うのとはいささか異なって、ハンサムという形容がしっくりくるタイプである。
 大概の人間が当然のように彼女は魅力的な女性だと答えるだろう。
 今年二十三歳になる彼女は地球連邦軍欧州方面軍に所属する軍人。今年の春に士官学校を卒業したばかりの新米少尉である彼女は、プロジェクト・ヴァルカンによる南欧支部基地のローラン中尉の指揮する『特殊兵装試験小隊』の副隊長であった。
「……もうちょっと、ってところですかね。……半月ぐらい前から同じこと言ってるような気もするが」
 調整作業に当たっているシュナイダー社の、アロイス=ミュラーと言う名前の、システムエンジニアが、右手で頭をがしがしと掻き毟りながら答える。
 初見での自己紹介の際の本人の申告によれば、ユダヤ系のドイツ人であるというこの男の、その声音は常から酒焼けをした、いがらっぽい声であり、決して快い響きであるとは言えなかったのだが、今はそれに加えて、体内の疲れと言う疲れが物質化して、にじみだしてでもいるかのような、なんとも言えず、おどろおどろしい嫌〜な雰囲気を帯びていた。
 暫らく風呂に入っていないのか、ミュラーが手を動かすたびに白っぽいものが周囲に飛び散る。ふけだ。それだけでなく、乾燥して水気を失った、その癖妙に脂っぽくテカる顔面の、酒に焼けたとおぼしい赤い頬はこけて、目許には遠目にも判るぐらいにくっきりとした隈が浮かんでいるし。口のまわりや顎にはうっすらとどころではなく、無精ひげが林をなしている。
 ひょろりとした男である。身長そのものは2mに及ぼうかという大男なのだが、極めて肉が薄く、おまけに猫背気味なために巨漢といったふうでもない。
 スーツの上着は脱いでいて、シャツの上から白衣を着込んでいる。邪魔なのか暑いのか、皺のよった白衣と長袖のシャツの腕の部分をまくり上げられていて、ゴムのバンドで留められている。
 洗濯自体は小まめに行われているらしく、不潔とは感じさせないのだが、残念ながらアイロンは掛かっていないらしい。よれよれなその白衣の胸ポケットから、これまたクッシャクシャな煙草の箱を取り出す。
 だが直ぐにこの研究室を含めた全棟内が禁煙であることを思い出して、やるせない様な表情を浮かべると、また戻した。
 実のところこれを行うのは初めてではない、彼はこれと同じ動作を先刻から幾度も繰り返していた、そしてそれが益々この三十男を情けなくさせる。
 これでもかというくらい不衛生・不健康な外見である。そのくせ不思議と弱々しくは感じさせない。
 形容するに、酔っ払った針金細工の人形といったところか。別に本人は酔ってはいなかったが。
 そしてよくよく周りを眺めると、そんな有様なのはこの男だけではない、見える範囲にいる人間は多かれ少なかれ似たような状態である。幸い、室内は温度・湿度は丁度良い環境に調整されていて――あくまでもコンピュータにとってであるが、人間にとってもそうそう悪い環境でもなかったし、換気もされているので、耐え難い悪環境というわけではなかったが、もしもそうでなかったら極めて不快であったろうな、とメリィベルは思った。
 彼らも入りたくなくて入っていないわけではないのだろうが、やはり、近づかれると思わず一歩引いてしまう。
 えてしてくたびれている本人たちは、感覚が麻痺していて自分たちが臭いということに気付かないもので、周囲の人間にこそ被害が及ぶものだ。ことにその被害者が、石鹸の臭いをさせているような状態であれば、なおさらに。
 彼女は現在、自分たちの部隊へと配備される予定の機体、〈ブルム〉のテストパイロットとしてシュナイダー社の人型機動兵器研究開発機関である開発2課へと出向してきていた。
 もっとも実質はアッバード少佐との連絡が主要任務であったが。なにせ肝心の機体が未完成なのだから。
 士官学校では必修でロボット工学の基礎はある程度学ばされたが、それはやはり“ある程度”である。開発の現場で彼女が役に立つようなことは存在しなかった。
 彼女の性格的にそれが情けなくて仕方がないのだが、どうしようもない。
 ここしばらく徹夜での作業が続いていた。彼らと同じく風呂に入らず夜を徹すれば、気は済むかもしれないが無意味だ。
〈ブルム〉の開発プランは大詰めを迎えていた。
 この機体には社運をとまではいかないが、シュナイダー社の軍需部門の今後を賭して総力が傾けられている。
 だが、肝心の最終調整の段階に来て、いささか成らず手間取っていた。
 本来の予定では十日は前に終了していて、今頃はメリィベルたちによって、ローザンヌ基地で本格的な試験が行われている筈であったのだが、完成したと思われていた、〈ブルム〉の全体の制御を司る、専用のOSにある意味で致命的とも言えるバグが突如として発見されたのである。
 脚部を用いての歩行に際して発生する、脚部アクチュエーターへのダメージを抑える為に、〈ブルム〉では特殊な緩衝機構が組まれているのであるが、それを制御するプログラムにこそ問題はあった。
 現状の機体バランスとプログラムの性能を鑑みると、一定値以上のストレスが脚部に掛かると正常に作動しない恐れがある。
 しかし、実のところそれ自体も無論問題ではあるのだが、更に恐ろしい事実の存在を、解析チームの試算したデータはあらゆる面から示唆していた。それによると、脚部緩衝機構の制御プログラムの誤作動に連動して、〈ブルム〉と言うシステムの全体がフリーズする可能性があった。
 必ずや起こるとは限らないのだが、そんな致命的な爆弾を抱えた機体を出荷するわけにはいかない。
「まいったね、どうにも。マオ社の方の〈亡霊〉はもう配備されているんだって。相変わらず、あちらさんはやる事が早いね」
 ミュラーがそんな現状へのぼやきとも競合企業への感嘆ともつかない、率直な感想を述べる。
「……ええ」
 何が、ええ、なのか自分でも判らなかったが、まさかその通りだと同意するわけにもいかない。
 そこでふと、メリィベルは一つの思いにとらわれた、このユダヤ人だという男にとって、人の型をした機動兵器を造るというのはどういう意味を持っているのだろうか、あまり熱心ではないキリスト教徒の自分にとってさえも少し抵抗のある兵器だ。
 ユダヤ教はより偶像に厳しくはなかっただろうか。
 こうも考える。もしかすると、PTの開発で、シュナイダー社他の欧米の企業体がマオ社やイスルギ重工に遅れを立ったのは、そして中東やアフリカの軍需企業が、この分野への参入に二の足を踏む現状は、それぞれキリスト教とイスラームの偶像崇拝を禁じる教えが下にあるのではないか、そして彼ら中国・日本系の企業にはそれがない。
 実を言うと〈ブルム〉は、PTではない。いや、PTに成れなかった機体と言うべきか、その母体は現在から遡ること7年前、新西暦179年より秘密裡に開始実行された連邦軍のPT開発計画に際して、シュナイダー社より提出された機体である。つまり、マオ社のゲシュペンストに敗れた機体ということだ。
 こう書くと、なんだ失敗作かと思われる向きもあるかもしれない。だが、ゲシュペンストに比べて格段に劣っていたというわけでもなかった。
「確かに、性能評価試験に於いてこれの母体となったプランはゲシュペンストに敗れた、けれどもそれはあの時点ではシステム全体が未完成だったからよ」
 これは〈ブルム〉の開発を担当している開発部開発2課の主任である、二町・Y・茉莉花の言だ。
 ああ、そう言えば彼女も日本人だ。もっともその半分は先ほどメリィベルの退けたイスラームのイラン人なわけだが、しかしそれでもイランに多いシーア派は聖像には寛容なわけであるが、とは言えそこまではメリィベルには知れないが。
 そして彼女の言葉もまた別に、あながち負け惜しみと言うわけでもないのだ、実のところ、連邦軍より『PT開発計画』を告知され、開発に当たっていた当時の他の企業群のプランも多かれ少なかれ殆どが似たような段階であった。
 言葉は悪いが、僅か一年という超短期間で完成させたマオ社の方がむしろ“異常”なのである。
 それを達成し得たのは、同社がカーク・ハミルやマリオン・ラドムといった当初より人型機動兵器を専攻研究していた技術者を抱えていたが為であり、他の企業が人型機動兵器などと考えてさえもいなかったからだ。
「勿論。私たちも企業人の、技術者の端くれとして、その誇りに賭けても『あと半年あったならば』なんて無様な言い訳をするつもりはないわ。顧客のニーズを読めていなかった点は企業の人間として、それに対する技術の蓄積を怠っていた点は技術者としてのそれぞれの怠慢、紛うかたなき落ち度だもの」
 だからといって、悔しくないはずも無かった。
「あれから数年、私たち開発2課は、いいえシュナイダー社はあの屈辱をバネに基礎研究と設計をひたすらに繰り返し、ここまで開発を続けてきたのよ」
 その為に、開発3課の特機開発計画も込みでではあるが、グループ全体の2割にも及ぶ、莫大な特別予算が組まれている。
 その研究の成果を基に、前任者よりその地位を引き継いだ茉莉花の指揮下、旧ブルム・プランを数年がかりで見直して、再設計し開発されのが、ドイツ語で蠕虫、ミミズや蛭の類を指す言葉であるが、同時に詩的な用法での“竜”を意味する〈ブルム〉だった。
 PPT‐01C。“Para Personal Trooper”、PTを超える者、それがこの機体に与えられた開発コードである。
 ゲシュペンスト・シリーズがいかに名機であるとは云え、やはり一世代前のコンセプトによる設計の機体である。不満点・改善点は数多く存在する。その内で際たるものはやはり飛行能力の欠如であろう。
 これは完成当初より指摘されていたものなのであるが、それには多分に致し方ない面もあった。
 当時のテスラドライブは未だ戦艦クラスにしか搭載不可能な大きさであったし、化学ロケットで無理からに飛行させるのには、宇宙空間ならばまだしも大気圏内ではPT他の人型という形態は無駄が大きすぎる。
 対してブルムの開発陣は、操作やマニュピレーター部については、ゲシュペンスト以来培われてきたPTの規格に準じつつも、テスラドライブの将来的な小型化を見越して、それの組み込みをも視野に入れた上で、機体フレームやOSを開発するなど、“飛行可能な人型機動兵器”をコンセプトに最先端の技術を惜し気も無く盛り込んできた。
 もっともだからこそ、開発が難航し、調整に難渋している現状があるとも言えるわけだが。
 ならば、飛行が可能であり、その状態での運用を基本とするのであれば、脚部に関連したプログラムの多少の瑕疵など問題ないとみる向きもあるかもしれないが、やはりそういうわけにもいかない。
 建造物の内部など必ずしも飛行に適さない領域での戦闘も考慮されているのだ。そこに投入するモノが地上戦や安定した作業に適さない機体となってしまっては、戦闘機を多数揃えた方がましである。
 第一、「あらゆる状態に適応する」万能の兵器というのがPTに代表される汎用人型機動兵器のアイデンティティである。歩行能力の欠如という傷は、たとえ実際上の運用に問題がなかったとしても許されない。
 ともあれ、あれから幾度もの開発コンセプトの転換、画期的な技術・理論の登場などが存在し、それを受けて大幅な改装が施されてきた。性能もコンセプトも最早別物と呼ぶべきだろう。
 色々と見るべき点はあるのだが、一つだけ確かなことは、額面通りの性能では間違いなくゲシュペンストMk−2を軽く凌駕しているということだ。
 しかしながら、そこはやはり一度採用の見送られた機体の後継機である。生半可なことでは一度下された評価は覆しがたい。
 慎重に交渉の機会を見計らってきたシュナイダー社の営業部に、やがて好機が訪れた。ヴァルカン計画に基づいて、欧州方面軍がシュナイダー社へも参加を要請してきたのである。ただ残念ながら彼らが求めていたものは機動兵器そのものではなく、PTの運用する武装や強化装甲、移送車輌などの補助的な部分ではあったが。しかし、営業部は熱心にプレゼンを繰り返し、交渉を続けた。それによって〈ブルム〉は一つの機会を獲得した。
 実機試験である。
 『特殊兵装試験小隊』によって実際に運用されることによって、その性能を計るのだ。それによって優れた性能を残すことが出来れば次世代機の候補の一つに選ばれることが出来る。
 これにはヴァルカン計画が欧州方面軍の主導であることも幸いした。極東や北米はそれぞれマオ社とテスラ研と関係が深く、マオ社とテスラ研そのものが良好な関係を築いている。管轄下の航宙基地を含めて、ある意味で北太平洋の三点と月の一点とによって三角錐的な需要と供給の完結したシステムが存在するのである。
 そこには余所者が割り込むような隙は無い。
 加えて、先日の極東基地での飛行試験の失敗。ビルトラプターと呼ばれる可変式PTの空中分解も追い風となった。もっともマオ社にとっては向かい風と言ったところだろうが。
 無論選ばれると言ってもこれは、あくまでも候補の一つにしか過ぎないのだが、大きな前進ではある。開発陣は奮起した。懸命に調整を行っている。ここで納期が遅れすぎて、試験そのものが流れては意味が無いのである。
 なにせブルム・プランそのものがヴァルカン計画全体に占める比重は決して大きくはないのだ。
 そして数年前のトライアルでの敗北以来、シュナイダー社の上層部では大型兵器分野からの撤退も常に考慮されていた。
 そしてそれはシュナイダー社だけの問題でもなかった。

……ここで計画が凍結されでもしたら困るのよ。
 そう、彼女は思う。
 メリィベルもまた自分の未来を、ブルムの成否に賭けていた。
 別に彼女は出世至上主義の我利我利亡者というわけではないけれど、人並みには軍組織内での出世に興味があったし、理想の実現に尉官の階級では無力だということが充分に理解できる程度には冷静であった。
 彼女の理想というのは、敬愛する祖父の様な万軍を指揮する提督乃至将軍である。
 無論その階級に上り詰められる者など極々僅かなものであり、正直殆どの者は夢破れる、否そもそも夢にも見ないだろう。
 彼女もそれは充分に承知している。
 しかしそれでも諦めきってはいなかった、たとえそれが成らずともいつかはせめて一軍なりとも率いたいと考えていた。
 ところで、そのベル‐シャルマという二重姓からも判るように彼女は混血(ダブル)である。それもいわゆる名家と呼ばれる家同士の婚姻による。一方のシャルマとは高位バラモンの氏姓であり、方やもう一方のベルというのは、ノルマン・コンクエストの以前より伝わる由緒ある家柄を誇る、連合王国はイングランドの貴族、アージェントウィッチ伯爵家の姓である。
 今を去る三十年前、一人のインド人留学生と、伯爵家の一人娘とが大学で出会って恋に落ちて、後はお定まりの紆余曲折の末に結ばれた。そしてその間に誕生したこれまた一人娘が彼女である。
 つまりは伯爵令嬢、押しも押されもせぬ、純然たる“レディー”である。現代では女性一般への呼称、それもいささか古色蒼然とした時代遅れの感のあるこのレディーであるが、本来は“ロード”及び“サー”の称号を持つ人物の夫人と、伯爵以上の家格を有する家の令嬢へのみ用いられる呼称であったのだから。
 もっとも本人に言わせると、今の自分という存在は、先祖より引き継いだ伝統と名誉ある家門の末裔という虚名ばかりが際立って、その実何の中身も伴わない、あたかも「シェイクスピア劇を演じるハム役者のようなもの」ということになるらしいのだが。
 自分の生まれ育った家のこと。決して嫌ってはなかったし、両親を愛してもいたのだが、長じて思春期を迎えた少女は己の家に何とも言えぬ息苦しさを感じていた。
 家に対して懐く誇りと自分自身へのそれがうまく噛みあわないといったところであろうか。
 それには当時は未だ健在であった母方の祖父、つまりは先代のアージェントウィッチ伯爵パトリックによって決められた、パブリックスクールを出て、オックスブリッジあるいは連邦大学への進学という貴族にありがちな流れが肌に合わなかったというのも影響していたであろう。
 彼女はいつしか強烈に自立を志向するように成長していった。
 そしてそれは彼女に、ついには一族には無断での寄宿学校の卒業見込みを得るのと同時での士官学校への入学願書の提出という、行為を決意し実行させるまでになった。
 ことほどさようにメリィベルという女性は自立心に溢れ、意に沿わぬ束縛を嫌う女性であった。
 それは士官学校時代の教官や学友たちが「なんで、わざわざこの性格で、階級絶対の軍人なんてものを志したのか」と疑問に感じるほどに強固で、いっそ頑迷とすら言えるものであった。
 それは彼女が、祖父から引き継いだ――その意向に沿うことは出来なかったが、彼女は祖父を敬愛していたし、自他ともに認める事実として彼女の性格は祖父にそっくりであった――高貴なる者の義務(ノブレス・オブリッジ)の実践として、軍人を志したのものであったからだ。
 祖父パトリックもまた軍人、それも将官であった。
 軍役こそ高貴なる者の義務を果たす最良の道と信じる昔気質の老貴族が自らの子孫に望む進路としては軍人というのは如何にもありそうな話である。事実、息子を持たなかった老パトリックは、代りとばかりに甥やその息子たち、親族の青年たちにしきりと軍人への道を勧めていた。そうとなれば最初から孫娘を士官学校に進めさせそうなものであるが、これもまた昔気質であるがゆえに、貴族とはいえ、いやだからこそか、女性が軍務に携わることを彼はよしとしなかった。
 彼の世界観では、女性、それも殊に身分も教養もある淑女というのは、軍役などという暴力行為などではなく、より社会に対して有意義且つ創造的な慈善事業や芸術への支援などを以ってその高貴なる責務を果たすべきであり、護られるべき存在なのである。それは一見して古臭い。男性上位の身勝手な考えであると言われても仕方のない面もあっただろう。
 さぞかし自立を志向するメリィベルの考えと衝突したことだろうと思われるかもしれない。しかし、そういう事実はなかった。当然の如く良い顔はしなかったが、むしろ両親よりもその進路には賛成し援助してくれたと言ってよい。
 実のところ、メリィベル自身もまた、女性の多くは男性よりも肉体的に脆弱であり、妊娠や出産というハンディ(同時に男性に優越する特権であるとも考えていたが)を背負っている。それゆえに社会的歴史的に不当な抑圧をされてきたのは事実だろうと考えていた。しかしここからが彼女の更に独特なところである。
 普通そうなればフェミニズムを志向しそうなものであるが、大筋に於いて祖父パトリックの説を支持していた彼女は、自分もまた女性であることを忘れているのではないかと言う思われるほどにレディーファストの信奉者(ただし、そこから自分を除く)であったし、子供に対しても優しかった。
 彼女は女性の大半は依然としてか弱いと考えていたし、子供は言わずもがなである。祖父と異なるのは、そこに加えて同時に多くの男性もまた無力だと考えていたことである。要するに人類の大半は無力だと言うのだ。
 実際、彼女の思考法は祖父と瓜二つであったと言ってもよかっただろう。生まれ育った時代性と、その性別が女性であったがゆえに護るべき弱者に男性をも含みえたという多少の相違を除いては。
 つまりは上品でたおやかであるよりも、自分自身の力によって将来を切り開き、力なき人々を護ろうと志向する正義感と自立心に溢れた人間。それこそが彼女であった。
 立ち居振る舞いも颯爽として優美である。貴族という生まれと、軍人という職業柄が合わさってのものだろう。一本線が入ったように背筋はピンッと伸びていて、何気ない所作の一々がキビキビとしていた。
 その姿態は、見る者に清澄な美しさを感じさせ、尚且つその体つきは、細身でありながらもふくよかであり、女性らしい優美な曲線を描くことも忘れてはいない。
 見事に絵になる、清冽な士官ぶりである。

 だが繰り返しになるが、彼女は正義感に溢れ、自立的な性格の持ち主である。なおかつ貴族的な潔癖さと強情さをも併せ持っている。つまりは納得のいかない命令には従わないとまではいかずとも、抗議や異議申し立てを辞さないのである。
 当然、この手の人間は組織、殊に軍隊では好まれない。充分以上に優秀ではあったが、正直、あまり上役の受けは芳しくない、さすがの彼女も軌道修正をするべきなのかと少々悩んでいた。
 まず第一の問題として、彼女が所属している欧州方面軍の統轄するヨーロッパ・エリアでは、アフリカやロシア、西アジア方面軍と違って、潜在的な火種は常に燻ぶっているとは言え、特に目立った紛争は3年前のバルカン半島以来発生していないということが挙げられる。
 平時には官僚的な行政手腕に優れた人材が好まれる。軍人殊に彼女の様な非官僚的な前線(を志向する)タイプの軍人は戦場に立ってなんぼである。この有様では戦功の立てようがある筈もない。
 不謹慎にも一瞬とはいえ紛争が起らないだろうかと考えてしまって、即座に自身を戒めたことが一度ならずあった。
 第二の問題は、戦場で功を立てられないのならば、軍政や事務方面で何らかの功績を立てるべきなのだが、彼女には生憎とそちら方面のコネはなかった。
 亡くなった祖父の同僚や部下、親族の軍人たちは皆前線畑の人間であったし、彼女自身がそれを目指してきた為に士官学校時代に事務・主計・参謀コースの候補生たちと特別に交友を持ってこなかった。
 酷評すればそれこそ大局的な視野が欠けている証拠と言えなくもないだろう。祖父の頃とは時代が変わっていることが読めなかったという。
 ただまあ、昔の彼女、一途に祖父を理想とするハイスクールの少女にそれを求めるのは酷というものである。
 幸い、士官学校に進学し、優秀な成績で卒業した彼女にはパイロットとしての適正もあった。のみならず、性格的に権謀術数の類には不利の感は否めないが、心身ともに優秀であり、事務処理や政治能力といったものでも、超一流とまではいかないが、充分に実用に足るだけのものを備えていた。
 彼女は考えた。戦力の中核は戦車や戦闘機といった旧来の兵器から、PTという新兵器へとこれからは移り変わっていく。
 そうとなればその新型機の開発計画ないし導入計画に参画できないだろうか、そうすれば一躍出世コースに入れるはずだ、と。
 極東や北米ではそれぞれ“SRX計画”に“ATX計画”という開発計画が進展していると聞く。
 テストパイロットに選ばれるに足るだけの操縦技術は持っているとの自負はあった。
 ただ問題は、マオ社やテスラライヒ研究所は既に堅固な実績を築いていたし、極東や北米と密接な関係を保っている。そこに南欧支部の、それも士官と言っても未だ何の実績もない一少尉に過ぎない身の自分が割り込む隙はなさそうだった、ということだ。
 これが三番目の、そして最大の問題。彼女はどうにも行き詰っていた。
 まさにそんな時だ、アッバード少佐からの打診があったのは、「プロジェクト・ヴァルカンに参加する気はないか?」と。
 腐りかけていた彼女にとっては渡りに船か、はたまた干天の慈雨か、彼女は一も二もなく飛びついた。
 エアロゲイターの存在が軍内部で噂される昨今、戦争に従事するものに貴賎も高低もない――しかし、重要度は自ずから異なってくる――とは頭では分かっていても、やはり一兵卒として(彼女は士官なのでそういう事はないが)戦わされるのと、新兵器の開発に携わるテストパイロットととして巨大なプロジェクトに参画するのとでは、やる気の度合いが自然違ってくる。
 そして、特殊兵装試験小隊に配属された彼女には、更なる可能性が待ち受けていた。
 ヴァルカン計画に急遽組み込まれた、シュナイダー社の「ブルム・プラン」である。
 ブルム・プランは彼女の野望と言うほどでもないが、その正義感と功名心、誇りと情熱とに火をつけた。
 もしもこのプランが成功裡に終わり、ゲシュペンストMk−Uに次ぐ、連邦軍の次期制式量産機として採用されるようなことがあったとすれば、その時用いられるデータは自分たち『特殊兵装試験小隊』が、これから取得するものが当然のように基となる。
 言うなれば、次代の『教導隊』となれるかもしれない、そう思っていたのだ。
 だが逆に自分の参加しているプロジェクトが破綻すれば、経歴に傷がつく。そうとなれば、なんやかやと今後の出世にも差しつかえることがあるだろう。
 二人の部下たち、カシマとアンリの両曹長などとは違って彼女は士官であり兵士ではない。
 無論、実戦に十二分に耐えうる技量は備えているという自負はあったが。そうでなければ、このプロジェクトに引き抜かれることもなかった筈だ。
……けれど、私が欲しいのは、兵士としての能力でも実績でもないのよ。
 彼女は明らかに焦っていた。
 こんなことを考えるのも、一週間前の苦い思い出のせいであった。

 メリィベルは鮮明に記憶していた。
 一週間前。彼女が今現在赴任しているドイツ地区ではなく、隣国フランス地区はルーアンでのことある。
 ルーアンはルーアン・ノートルダム大聖堂にジャンヌ・ダルクが火刑に処されたことで知られる、中世よりの古市である。
 そしてまた、古くから学生の街として知られるこの街は、現代の新西暦時代では、日本地区の大阪などと同じく、連邦大学のうち一つの所在地でもあった。
 そんな街の中、メリィベルが指定された喫茶店に入ると、既に相手はやって来ていた。通りを眺めることの出来る窓際の席、二人掛けのテーブルの一方に、アングロサクソンらしき男性が一人座っている。
 メリィベルの記憶にある限り、男の本当の年齢は47歳であったが、身体につく無駄な贅肉は少ないし、肌には張りがあって、眼には精力的な輝きが灯っている。見た目には未だ三十そこそこでも充分通用しそうなほどに若々しい。
 その男の傍らに立つと、メリィベルはきっちりとした敬礼を一つして、それからおもむろに口を開いた。
「お呼びでしょうか。ベル大佐」
「ああ。わざわざ呼び出して済まなかったね。電話やメールで用件を済ませると言うのも味気ないものだからな、と……そら、どうしたね、そんなぼさーっと突っ立っていないでさっさと座りなさい」
 言われた男は一つ頷くと、楽にするように言う。
「は、有難うございます」
 敬礼の姿勢を崩すことなく一礼する。それからようやっと敬礼を解いて男性の向かいの席に腰掛ける。
「やれやれ、そんなに堅苦しくしなくてもいい。今日は上官と部下としてではなく、親戚のエドワードおじさんが、小さなメアリーと話をしたくて呼んだんだ」
 ベル大佐とベル‐シャルマ少尉。姓からも推測できるように、彼らは親戚だった。それもかなり親しい間柄の。
 ベル大佐の母親はパトリックの妹である。つまり彼はパトリックの甥であり、彼の一人娘であるシャーロットの従兄弟であった。
 妹のように思っている年下の従姉妹の娘と、母親の従兄弟。
 無論、身内とは言え、大佐と少尉の間には、それこそ天地に等しい厳然たる階級の差が存在する。とは言え、やはり身内である、今のような平時の勤務時間外では軍よりも親戚としてのそれが優先されても不都合はない。本当は問題なのかもしれないが、目くじらを立てるほどのことではない。
 それなのにあくまでも軍内部での上下関係に拘る彼女の生真面目さに、ベル大佐、もといエドワードはひとしきり笑ってから、彼女に気を楽にするように言う。
 その生真面目さは同じ軍人としては好ましいと思うが、おじ代わりとしては寂しくもあった。
「わかりました。こほん、それで用事とは何です、エドワードおじ。それと私はもう“小さな”メアリーではありません」
 憮然とし軽く唇を尖らせながらそう言うと、メリィベルは肩の力を抜く。しかし何故か未だ幾ばくかの緊張が顔に張り付いている。
 実のところエドワードが自分に話すであろうことに見当はついていた。
 メリィベルの両親は彼女が軍に入ることに賛成していなかった。そしてそれは、エドワードも同様である。
 軍を離れろと言うのだろう。
 これまでにも同様の要求がそれとなく何度も行われてきたし、その都度彼女はそれを断って来た。
 両親やエドワードのことは愛していたが、これが続けばいつか嫌いになってしまうのではないかとの恐れもある。
 それで、どうしたって身構えてしまう。
 おまけにこれまではエドワードも一言言えば、大人しく引き下がって来ていたのだが、この日はいつもと少し様相が違っていた。
「まあ、着いたばかりで話し合いもないだろう、先ずは珈琲か何かを軽く一杯飲んで落ち着きなさい。おっと、しかし勤務時間外とは言え酒はやめておきなさい。こんな時でもなければパイロットには禁物な酒を飲む機会はないだろうけどね」
 軽くからかうように言ってくる。身内として、彼女がかなりの酒好きなことをよく知っているのだ。
 ところで彼女の愛称であるこのメリィベル。実はこれ、メアリーの愛称としてのメリーではなく、“陽気な”のメリーである。それに姓のベルを組み合わせたものなのであるが、その意味するところとしては“浮かれた鐘の音”とでもなるだろうか。
 元は、酒に酔っ払った際、常日頃とは打って変わって、極めて陽気かつ破天荒な性格になる彼女の行状を士官学校時代、その友人たちが親愛を込めて皮肉ったニックネームであった。それを上司であるアッバード少佐が気に入ったらしく「メリィベル、メリィベル」と連呼する為に、いつしか定着したもので、本人としては不本意ながらも、今では彼女の所属する南欧支部の内部などではこちらの方が通りが良いくらいである。
「当たり前です、このような昼間から飲むほど……」
 それで憮然としたその言葉もどこか尻すぼみになる。実際、ちょっと自信がなかった。
 そんな彼女の様子に、一頻り笑うと、「さて」と前置きしてくる。それ来たとメリィベルもまた居住まいを正す。
「メアリー、何度も言っているが、軍を離れる気はないかね。ご両親も心配している。何も軍役に拘る必要なないだろう、シャーロットのようにNGOやボランティア活動に勤しむというわけにはいかないのかね」
「ボランティア活動も大切だとは思いますが、私には残念ながら向いていません。……それに何ですか、わざわざルーアンを選ぶだなどと、皮肉ですか?」
 士官学校に進学を決定する以前、メリィベルは両親や未だ健在だったパトリック、そしてこのエドワードからルーアン連邦大学への進学を勧められていた。そして両親の出会った場所でもある。
「別にそういうわけではないがね……。しかしその、あれだ。最近は物騒だからな……」
 どうにも歯切れの悪い、道理に合わない言い様である。
「エドワードおじ。何を言ってらっしゃるのです。我々は軍人ですよ。物騒もなにもないのでは」
「それはそうだがね。何事にも平時とそれ以外というものがあってだな……」
 某研究によると、最も平均寿命が長い職業の一つは“平時の軍人”であるらしい。
「平時……それは最近軍内部で公然と噂されているEOTI機関の叛乱に関係してのことですか?」
「いや、別にそう言うわけではないのだが……」
 スーツの胸ポケットから取り出したハンカチで汗を拭う。誤魔化そうと言うのである。だが、直ぐに無理と思ったのか正直に言う。
「今更か、その通りだ。平時ならばともかく……この先間違いなく戦乱が起こるだろう。それもEOTI機関だけではない、エアロゲイター……それは人類がこれまで体験してきたどれも比較の対象にすらなり得ないほどの大乱が……そのような軍に君を残すわけにはいかない」
 現状、エアロゲイターが出没しているのが全て兵器の開発計画にゆかりのある部署だということもある。
「そして、私が抜けた穴には私とは別の、親兄弟を持つ彼もしくは彼女が配属されるわけですね」
 皮肉っぽく口を歪ませ言う。
「むぅ……否定はしない。私は人事へと介入するような、コネも権限も有してはいないがだからと言ってそれで罪がないわけではない。私は今恥知らずなことを言っているという自覚はある。君を助けて他のものを死地にやろうと言っているのだからな」
 渋面を作ると、だが、と続ける。エドワードとても引き下がるわけにはいかない。
「しかし、自覚したまえ。君という身は自分一人の身ではないのだぞ。伯父上には妹――私の母だな、彼女や弟のロバート叔父上がいた。しかし君は一人娘なのだぞ、現当主である君の母親、私の従姉妹であるシャーロットの第一子。君はベル家の総領として、やがて一門を背負わなければならない身だ」
 その、一族からの有形無形の期待が重い。
「他の者が死ぬのは構わないと?」
「……構わない筈はない。だが、敢えてそうだと答えよう。私も軍人だ、だが同時にベル家の人間として当主の意向に背くわけにはいかないし、次期当主を危険にさらすわけにもいかない。そしてもしそれがなかったとしても、エドワード=ベルは君やシャーロットが、一門の人間が危険にさらされるのが恐ろしい。……だが、連邦軍の大佐としてのエドワード=ベルは必要と判断すれば君たちの所属する部隊を躊躇うことなく死地へと派遣するだろう……否、しなければならない。……だが私は……」
「エドワードおじ!」
 それ以上言わせたくなかった。ショックを受けた表情と声色で叫ぶ。エドワードの続く言葉に覆い被せるように。
「ともかく、何度言われても私の意志は変わりません! 最後にはお祖父様も賛成してくださりました。それと先ほども言いましたが、私はもう“小さな”メアリーでは、子供ではありません。自分自身の去就を自分自身の自由意志で決定できる大人なのです」
 エドワードも言葉をさえぎられたのを、ほっとしたような残念なような複雑な心持ちで頷く。
「……意志は固いと? ……よかろう。お互いベル家の人間だ、そろいもそろって頑固者のな。今日のところはおとなしく引き下がろう。しかし私とて君の除隊を諦めたわけではないよ」
 そう言うと溜息一つ。伝票をとって立ち上がる。そして彼女に背を向けながら、
「最後に一言、言っておく、“小さな”メアリー。自分のことを大人だと、自分の意志で決められる、そんなことを声高に言う者ほど、子供なのだよ。年齢に関係なくね」
 そう一言呟くと今度こそ彼女に背を向けて喫茶店を出て行った。
 後には拳を握り締めて眉根を寄せて、唇を噛締める一人の女性の姿があった。


 そんなことがあったのが一週間ほど前のこと。
「……ち…っと…しょ……さ……ん…ば!」
 メリィベルは悩んでいる。軍人を諦めるつもりはないし、まさかエドワードも無理矢理除隊させるといったような非常手段はとらないだろうが、しかしこのままではなしくずしの内に気がつけば実家の居間で寛いでいる自分がいそうだった。
 どうにかエドワードや両親を納得させるだけの成果が欲しかった。
……エドワードおじ……私は……。
 と、そんな感じにとりとめもなく己の過去と現在と未来とへと思いを馳せていた彼女の思考が、ふいに途切れる。
「ちょっとぉ、少尉さんってば。大丈夫ぅ、聞いてる? 起きてる、ねぇ、生きてるぅ!」
「……ぅあ、っと、なッ何です? Dr.(フゥアン)
 メリィベルは我に返って、自分でも間の抜けたと思わざるをえないようなほうけた声を、つい挙げてしまった。見るとミュラーとは別の、こちらも三十をいくつか過ぎたくらいの東洋系の女性が彼女の顔を覗き込んで、話しかけてきていた。
 中国系アメリカ人である彼女は、セシリア=黄と言った。
 回想に夢中で気付けなかったのだが、どうやら、いつのまにか傍にやってきていた彼女が先ほどから何度も話しかけてきていたようである。なのにどうにも返事がないというので、相手も最初は耳元で囁いていたものが段々と声が大きくなっていって、終いには怒鳴り声へと発展してしまったらしい。
 それでその大声でメリィベルは我にかえったわけだが、今度はメリィベルの驚きの声がセシリアを驚かせたのか、彼女はなにやらきょとんとしている。そしてとぼけたような声で話しかける。
「いや〜、別になにほどってわけでもないんだけれどね。少尉さんも仕事とは言え、ただ待っているのも暇でしょうからコーヒーでもどうかな〜って」
 少尉や警部、社長に神父。階級や役職というものは、それそのものだと堅苦しい筈なのに、一度それに「さん」がつくと急にどこかユーモラスな響きを帯びるのは何故だろうか。
「それとぉ、もう二月近くも一緒の職場で働いているんだからセシリアって呼んでくださいな、も〜他人行儀なんだからぁ。あっそれかあれねぇ、いっそのことセシーって、呼んでん♪」
 などと阿呆みたいなことを、これまた妙ちきりんなまでに可愛らしい(?)仕草で以って自分を指しながらのたまう、セシリア=黄(三十三歳・独身)。
「有難う。ではセシリア、一杯いただけますか」
 賢明にもセシー云々のくだりは無視することにしたらしい。
 実のところ愛称で呼ぶこと自体には別段異論はないのだが……その際の言動に呆れたと言うか引いたと言うか、とりあえず無かったことにしたかった。
「いえいえ〜どういたしましてぇ〜」
 軽く流されたせいか微妙に不満げではある。
「あっ俺の分も頼むわ。セシリア」
 ミュラーがついでにとばかりに自分の分の珈琲も頼む。と、それを聞きつけた周囲のエンジニアたちが俺も、私もと次々に注文してくる。最後には室内に居た人間の八割、十人を超す人間が彼女に珈琲を要求している有様であった。
「……あんたらはぁ、ちょっとは遠慮しろよ。わたしは少尉さんだけに聞いたんだってぇのに。てゆうかさぁ、こんなに飲みたい奴が沢山居たんなら、誰かわたしよりも前に淹れにいきなさいっての。そうすれば私もそいつに要求できたのにさあ……」
 などとものぐさな事をのたまう。
 そんな彼女もまた工学博士の学位を持つ科学者であり、〈ブルム〉開発チームの一員なのであるが、一見して判るほどにさっぱりとしていて、仲間たちと違って疲労感や汚れを感じさせない。
 それも道理で、彼女とその部下たちの担当は動力廻りのハードウェアであり、ソフトウェアは専門外である。そしてその作業は、この場にいるミュラーらシステムエンジニアたちとは違って、ほぼ完了していて、
「暇なんだろ? それくらいしてもバチはあたらんだろうが」
「あら、失礼ねぇ〜。言うほどには暇じゃないのよ、私たちも〜」
 暇人扱いするミュラーに反論しながらも、いささか不満そうにではあるが、ミュラーたちの分の珈琲も淹れてやる。
 カップを受け取って、嬉しそうに中身を一口すする。それから何の気なくセシリアに尋ねる。
「そういや、お前何でいるんだ?」
 それはメリィベルも気になっていた、確か本日は彼女たちは休みの筈だった。
「だから〜、暇じゃないって言ったでしょう。3課の方から要請があってね、彼らが開発中の特機の動力について、専門家たるこの私の意見が聞きたいんだってさ」
「ああ。そういやあっちも何か難航してるんだったか。嫌だね〜こうも調子が悪いとさ、俺らシュナイダー社の人間ってば、実は無能しかいないんじゃないかっ! てな具合に自虐の蜜に耽溺したくなってくるね、ホント。他人の不幸は蜜の味って言うが、自分の不幸て奴はもっと甘いからな、これが」
 納得したとばかりにあいづちを打ち、含蓄のあるようなないようなことを言う。
「あっきれたぁ、なにを馬鹿なこと言ってるんだか」
「馬鹿たぁ、なによ馬鹿たー。ホント、失礼な人だねぇ、君も」
 呆れたとばかりに頭を振るセシリアに、それに対して心外だとばかりに非難するミュラー。
「ええ〜馬鹿って言ったら、馬鹿よぉ。ねぇ、少尉さん……って、どうしたん?」
 同意を求めて振向いたセシリアが見たものは、内心で「あなたも大概だけれどなぁ」と思いつつ、首を傾げているメリィベルの姿であった。
 だが別に二人の技術班長たちのお馬鹿さの是非に悩んでいるわけではない。
「……特機? セシリア、それは一体」
「……あれ、少尉さんは知らなかったっけ?」
「そりゃ、知ってるわけないだろ。あっちは俺らと違ってヴァルカン計画ともブルム・プランとも関係ないところで進行してるんだからさ」
 だから、連邦軍に対して報告はいっていないのだ、と前置きしてからミュラーはメリィベルに第3課で開発中の特機について説明していく。
 曰く、最初から製品化を目的として開発している訳ではなく、データと基礎技術の蓄積を目的とするテストベッドとして開発している機体で、設計者はテスラ研より引き抜かれた科学者であると言う。
 熱心なことであるが、別に親切心からだけではない。この男は説明を口実としてサボっているのである。
 なおも言い募ろうとしていたミュラーのその背中に声が掛けられる。
「班長。ご歓談のところ悪いんですがね。そろそろ作業に戻っちゃもらえませんかね」
 中年のシステムエンジニアがせっつく。微妙に顔が引きつって青筋が立っているように見えるのは錯視であろうか。
 見れば他の班員たちは既に珈琲を手早く飲み干して、作業に戻っている。
「……あー、諒解諒解。すぐに戻るわ」
 誤魔化されてはくれないか、とばかりに肩を落として、そう言うと、珈琲の残りを一気に全て飲み干してしまう。
 その喉を焼く熱と苦みにいささか顔をしかめながら、カップをセシリアに手渡す。
「クァー、ッ熱い、セシリア、あとは任せた」
 言いながら、セシリアの肩をポンと叩いて歩み去っていく。
「いや……任されてもこまるんだけれども。ん〜……論より証拠の一見に如かずってことで、少尉さん、いっそのこと見に行ってみる?」
 自分はこれから行くところだから一緒にどうか、とのこと。
「いいの? 機密とかがあるでしょうに」
 ミュラー他のエンジニアと話している時に比べて、メリィベルの口調から角が取れている。
 これは同性という気安さもあるが、それ以上にセシリア自身の特性によるものだ。彼女と話しているといつのまにか気が抜けてくる。良い意味でも悪い意味でも。
「まぁ〜大丈夫なんじゃないかしらね。別に社外秘ってわけでもないし、じゃなきゃ税務署に堂々と申告したりしないわよ〜」
「税務署は、あまり関係ないような」
「あら、そう。まぁ、なんだっていいじゃないのよ。……それとも貴方産業スパイにでも転向する?」
「しませんよ」
「でしょぅ〜、それでぇどうする、一緒に来る?」
「付き合います」
 正直、居てもすることはない。彼女こそが暇だった。


 セシリアに案内されたのは、それまで彼女らの居た開発2課の存在する建物の同じ棟の八階、ちょうど二階分上った処。そこに開発3課の部署はあった。
 同じ建物なのだから当然と言えば当然の事なのだが、ふたつの開発室は内装間取りともにそっくりと同じである。
 白衣やスーツの職員が働いているのもご同様。
 ただ、こちらは先刻の今まさに修羅場の真っ只中といった風情のあった2課・システムエンジニアリング班と比べると随分と余裕があったが。
 まあ、彼ら技術者たちも、そういつもいつも泊り込みや夜を徹しての突貫作業があるわけでなし、平常こちらが普通である。
 そんなこれぞ如何にも“普通の研究室”といった風情の室内に据え置かれている無数のコンピュータの内の一つ。映像データ処理用のそれから延びたケーブルに繋がれている装置。立体映像の投射装置が作動する。
 その装置から投影展開された特機の立体モデルが空中に表示される。それと手許のディスプレイに表示されている機体のスペックデータとを併せて見ながら、メリィベルは呟いた。
「中・遠距離からの砲撃戦に主眼を置いた設計か?」
 それはどちらかと言えば質問と言うよりもただ呟いたといった感じのものであったのだが、質問ととったのか、それとも単に説明したかったのか、
「ええ、そうですよ」
 このセクションの主任である、三十代後半から四十代前半にかけてと見える壮年男性。ゲオルグ=シュミットその人が親切にもにこにこと笑いながら応じる。
 特機と言えば、グルンガストシリーズのようにその質量と馬力とを活かした格闘・剣戟戦がセオリーだと思い込んでいたメリィベルには多少意外であったのだが、彼女が見る限り、それは確かに設計者も言う通りに砲撃戦用の機体であると思われた。
 実体弾装填式の拳銃二挺と小銃タイプの荷電粒子銃一振りが主装備ということもあり、本当は銃撃戦用と言うべきなのかもしれないが、実質的には威力・質量共に戦艦の主砲並みでる。
 それどころか、使用されている主機関部のジェネレータは現行最大規模の宇宙航行艦用のそれである。艦艇であれば艦内の環境維持などにも割かなければならないそのエネルギーをそのままに、砲撃用に廻せる分、下手をすれば戦艦の主砲以上であったかもしれない。
 だが、
「でも、その肝心の機関が出力不足なのよねぇ〜」
 その揶揄するようなセシリアの指摘に、メリィベルは呆れる。
 こんな馬鹿馬鹿しいまでに巨大な出力の、下手な地方都市程度ならばそれ一基でまかなえてしまえるような規模のエンジンにジェネレータを搭載して、まだ足りないと言うのか。
「そう。そこが問題なんだよ」
 まいったね、と困ったように、しかし微妙に深刻さの欠如した声音でゲオルグが応じる。実際、夜も寝られないくらいに悩んだりと、色々と困ってはいるのだが、それ以上にそれを克服しようという意志に燃えていた。
「いっそ、機体のフレームそのものをもう一回り大きく設計しなおして、機体各所に分散させてあるコ・エンジンを大型化して、燃料タンクも個別に設置させようかとも考えたんだけれどね」
 特機、に限らず巨大人型機動兵器というものは唯一の機関で動いているわけではない。
 頭・胴体・両腕・両足に〈ブルム〉のように翼を備えた機体であればそれも、各部に専用の機関とコンピュータが個別に設置されているものだ。言うなればそれぞれの部位がそれぞれに心臓と脳を備えているわけである。
 大体は最も大きな、言い換えれば余裕のある胴体部にメインとなる機関と燃料タンク、各末端のコンピュータを統轄制御するメイン・コンピュータが搭載される。
 主機関部は主に内蔵火気や各部のバイパス用に使われるのだが、本来は補助的な各部のエンジンを大型高出力化させて、逆にその余剰出力を以って主機関部の補助に廻そうかとも考えた、と言うのである。
 だがやはりそうすれば、質量が増えすぎて機動性が損なわれてしまう。それはゲオルグの望むところではなかった。
 そしてシュナイダー社としても別に商品として開発しているわけではない。納期に間に合わせる為に無理に妥協する必要はない。データの蓄積の為にもいっそオーヴァー・スペックの機体を多少時間を掛けてでも完成させることを望んでいる。
「ふ〜ん。それで、シュミッド主任が私を呼んだのはぁ、やっぱりその機関部の効率化に関してなわけね」
 ふんふん、と軽く一人で合点が言ったとばかりに頷きながら、確認の意味でセシリアが尋ねたのだが、ゲオルグはそれに対して首を振った。
「へっ……違うの?」
 思いがけないことを聞いたばかりに思わず首を傾げて、とんきょうな声をあげる。
「いや、それも勿論あるんだがね。とりあえず、これを見てもらえるかな。……えっと、新しく開きたいんだけれど、いいかい」
 ゲオルグがメリィベルに尋ねる。現在特機のスペックデータが表示されているディスプレイに、別ウィンドウを新しく開いていいだろうか。
 それにはメリィベルに否やもない。
「勿論です」
「そうか。……なら、これなんだがね」
 ディスプレイの上にそれまで表示されていた、特機のスペックデータのその素人には一体何を意味しているのか理解困難な数式やらなにやらに代わって、今度は何かの装置の設計図らしき3D図形データが表示される。
「……なにこれ?」
 その言葉どおりそれが一体なんなのか皆目判然としなかった。
 わざわざ自分を呼んだということは、恐らくこれは何らかのエネルギーを機械エネルギーへと変換することを目的とした装置なのだろうが……。
 そう、見当をつけるにはつけるのだが、やはり依然としてそれがなんなのか判らない。
 そもそもセシリアは機関・動力の専門家である、それもこの分野では欧州のみならず、地球圏全体でもかなり名の知られた。
 当然のこととして様々な種類のエンジン、ジェネレータその他の機器をこれまで一通り見てきた彼女が、である。
 その彼女が見当もつかない。そんなことは、絶対にないとは言わないまでも、あまり考えがたいことだった。
「強いて、しいてよ。どちらかと言うとね……機械工学というよりも化学工学よりの機械に見えるんだけれどな〜、実験器具……ううん、ていうか工芸品? もしもこれが実用品だって言うんなら〜ちょっとあれね、もう、本気で何を企図した設計なのかが判らないんだけれど……」
 でも、工芸品なわけがないわよねぇ、と気弱げに、だが微妙に確信したような表情で呟く。
 彼女の学んできた、現代工学の常識からはどこか逸脱した設計思想が窺える。それで、実用品というよりもオブジェかなにかのように感じられるのである。
「でもまあ、わざわざ作るからには〜何か意味があるのよねぇ。……それともぉ、もしかして意味とかは無しで作るわけぇ? それはそれで良いと思うけれどね」
 セシリアがそう言った時。空間を衝撃が駆け抜けた。
「な、なに!」「何だ!」「ひっ!」
 一瞬にして騒然とした空気が室内に充満する。
 この感じは、
「爆発!?」
 そう、何かが爆発した時に発する衝撃波が家屋の壁をも突破して伝わってきた時に感じるそれのような。
 次いで、聞こえてくる爆発音。
 この音の遅れ具合からすると、爆心地はだいたい10キロくらい先だろうか、とメリィベルは辺りをつける。
 だが、それこそが次なる疑問をもたらす。この研究棟から10キロの場所と言えば森しかないはずだった。
 そこまで考えて、メリィベルは気付く。開発3課主任のゲオルグの顔が蒼白になっていることに。
 どうしたのかと聞こうとする。が、セシリアが先にこう言った。
「ねぇ、森って言えば、シュミット主任の家があったんじゃなかったっけ。……って、大丈夫、顔色悪いけれど」
「……ん、ああ。失礼、少し席を外させてもらってもいいだろうか?」
 そわそわとしている。様子を確認したくて仕方がないのだろう。
 この時点ではメリィベルやセシリアには知るべくもないが、ゲオルグは考えていた。
……今の爆発は、リーゼロッテの言っていた追っ手の物か? 彼女は無事なのか!
 そして、飛び出そうとする。
「ちょ、ちょっと〜、爆発した矢先に飛び出すなんて危険よ〜」
 思わず、後ろから追いすがって羽交い絞めにする。メリィベルも止めるのを手伝う。
「その通りです。一先ず、テレビなりネットなりを確認しておきましょう。今の衝撃です、速報が出ている筈です。軍か警察の発表もあるでしょう」
 テロルかもしれないとメリィベルは思う。
 噂では、不況に対する不満の捌け口を増大する軍事費に求めて暴動やテロルに走る人間が最近は増えていると聞く。
 そしてそれは、政府や軍と言った警戒の厳しいところを避けて、シュナイダー社やイスルギ重工、マオ・インダストリーといった大手軍需企業へと向けられる傾向があるとも聞いていた。
 それかと考えたのだ。技術者を狙っての。
「……そう、だね」
 どうにか落ち着きを取り戻すゲオルグ。興奮の余韻に震えの残る指の動きでキーボートを叩き、関連情報を検索する。
 ネットのニュースサイトには早速、速報が出ていた。しかしながら、大した情報は得られそうになかった。
 それによると、原因は不明。街の中心を離れた森林部分である、ガス爆発というのも考えがたく、原因は目下調査中であるとのこと。なお幸いにも延焼の恐れはないと言う。その他は依然調査中であるらしい。他のニュースサイトにも幾つかあたったが、内容はどこも似たり寄ったりであった。
「……これでは何も判らないも同然じゃないか」
 そう、ゲオルグが呟く。メリィベルも同感であった。
「あら、駄目よぉそんなんじゃ。この街のことなら此処よここ」
 落胆する二人を尻目にそう言いながら、セシリアはアクセスしたのはシュナイダー社のサイト。
 この街はシュナイダー社の企業城下町として発展して来た街である。住人の少なくとも半数が、シュナイダー社とその関連企業に勤務するこの街のことならば、警察や市役所よりもシュナイダー社の広報部や総務部、警備部の方がより詳しい。
 こちらも未だ断片的な情報しか存在しないが、他のサイトよりも詳細である。
 それによると、市警ではなく、何故か……生粋の市民たちや、本社での勤務の長いセシリアたちなどは当然と思っていたりするが、警備部員が先に森に向かったらしく、彼らは爆発物の痕跡を発見したと言うことである。
 一部の社員に割り当てられていた、社屋が何物かに攻撃を受けたらしい。幸い、表面に幾ばくかの損傷が出ている程度で使用には問題は無さそうであるとのこと。
 後は、軍需企業と言う性格上、弊社を狙ったテロルということも考えられること、社員と家族は充分に注意されることを期待する。実際がどうであれ、我社はテロルには屈せず、市警・州警と協力して、追跡調査を行いたい。という、社としての決意表明である。
「……この社屋ってぇ、やっぱりシュミット主任の家のことよねぇ?」
 その家兼任の研究室は社内でも有名であった。彼がある時ふと、森を眺めながら「閑静な森の中というのは思索に向きそうですね、家を建ててみても良さそうだ」という風なことを言ったら、それを聞きつけた社長、より正確には会長の指示で、三日で仕立て上げられたのである。
 元はオーナー一族であるシュナイダー家の所有する別荘の一つだったらしく、かなり高級な造りであって、ゲオルグなどは恐縮しきりであったのだが、使用しないのも礼儀知らずだろうとそこで寝起きをしている。
「……ああ」
 気を取り直しかけていたゲオルグが再び蒼白になる。
……リーゼロッテはどうなったのだ。
 苦悩も露わに今しも駆け出そうかとしていたゲオルグのDコンが、ふいに着信の音を発する。二十年ほど前、彼が青年であった頃に流行った、優しい旋律の曲であった。Dコンと言うのは、個人用の高性能携帯端末機の内、最も一般的な物の商品名であり、同様のコンセプトで作られた商品の通称となっている。
……ええい、誰だこんな時に。
 それとも、もしやニュースを見た知人が安否を確認する為にでもかけてきたのだろうか、と考えながら発信者番号を確認する。そして一瞬、訝る。どこからだ?
 そして気付く。よくよく見ればそれは自分の家の電話機の番号であることに。移り住んで半年、一人暮らしである。家の端末から、かけてくる者はいない。それで直ぐには気付けなかった。
 そう言えば、と思い出す。自分は出社する前に家の据置型の電話機の傍に自分のDコンのアドレスを書いたメモを残してきたか。ならば、とそこまで考えて、慌てて、Dコンの電話に出る。そして、叫ぶ。
「……リーゼロッテかっ! 無事か! 何処に居る!」
 ややあって、反応があった。
「……声が大きい。何処も何も貴方の家で、私は無事だし、追い払った。」
 電話の番号で判るだろうに、と言いたげな無愛想な口調に、それとはどうにも不釣合いな愛らしい声が聞こえてくる。リーゼロッテで間違いは無さそうである。
 その声に安堵したとばかりに、肩ががっくりと下がる。
 主任に家族っていたっけか、と不思議そうに見守る部下達とセシリアの前で、はあっと大きな安堵の溜息を漏らす。
 メリィベルは普通に家族だろうかと考えている。
「……それよりも、だ、この私の身柄を拘束している、このシュナイダー社の職員連中をどうにかしてもらえないか? 私は確かに不審者ではあるし、爆発に無関係とも言えないわけだが、私が起したわけではない、と言っているのに聞かないのだ」
 サイトの広報には記されていないが、どうも、森に向かった警備部員たちはリーゼロッテを発見していたらしい。そして、不審に思ったのだろう。
「それでどうにか、ゲオルグ、貴方に電話をかける許可をとったわけだが」
「……それは、仕方がないのかもしれないね。それじゃあ代わってくれるかい」
 今日向かった警備部員のリーダーは誰だろうかと考えながら代わるように指示を出す。
 暫らく間が空いて、Dコンからリーゼロッテの物とはかけ離れた渋い声が響く。
「……失礼。開発部第3課のゲオルグ=シュミット主任ですか?」
「ええ。そうですが、貴方は?」
「警備部のチャールズ=ホワイトです。……それでは、確かにこの女性……ええと、エリーザベト・シャルロッテ=フラメル嬢ですか。彼女は貴方の保護下にあるわけですね」
 単刀直入に聞いてくる。警備部には退役した元軍人や元警官が多いと聞く。彼もまたそうなのかもしれない。
「はい。その通りです」
「なるほど。それでは失礼ながら、危険は無いのですね?」
「恐らくは。……あ、いや」
 再び、暫らくの間が空く。漏れ聞こえるものから、リーゼロッテに対しての非礼を詫びているようであった。
「ふむ。失礼をお詫びします。シュミット主任。声紋の確認をさせて頂きました。確かに貴方はシュミット主任のようです。ただ、最近はテロルなども多いので警戒するに越したことは無いのです。ご了承頂けますでしょうか?」
 先ほどよりも幾分か声が柔らかい。
「いえ、構いません。ええ、はい、それでは」
 無許可で声紋を調べられたのは、正直あまり気分の良いものではなかったが、それで済むなら安いものである。入社に際してサンプリングされた声紋や指紋、虹彩は元々、こういう時にこそ使われる為であるのだから。
「……ゲオルグ」
 再び、リーゼロッテが出てくる。
「助かった。それと、少し家に傷がいった済まない」
 実際は彼女が指示を出して付けさせたわけだが、それはおくびにも出さない。
「……ああ、君が無事でなによりだよ、家なんていくらでも修理できるさ。一度戻るよ」
 だから、ころっと騙されるわけである。まあ、たとえ知っても彼は許すだろうが。とは言え、そう言って電話を締めくくり、Dコンを懐に仕舞いながら、部下達に声を掛ける。
「皆、聞こえていたと思うが、聞いての通りだ。私はすこし家を見に行ってくる。……黄さん、折角来ていただいたのに申し訳ない」
 部下たちやセシリアに不満はない。皆、彼の家が被った被害に対して労いの言葉を掛ける。
「かまいませんってぇ。ところでぇ、その、リーゼロッテさんでしたっけぇ、ご家族ですか〜?」
「いや。友人の娘さんでね、その設計図を持ち込んだのも彼女なんだが……っと、忘れるところだった」
 そう言って、端末から記録媒体を抜き取る。それから、室外へと足早に出て行った。

「んん〜、けれど、ここに居てもぉ、しょうがないのよねぇ、ど〜しよっかぁ、少尉さん? 2課の方に戻る〜?」
 出て行ったゲオルグを見送って、でも、戻ってもすることはないのよねぇ、と考えながら、腕時計を眺める。彼女の左腕に嵌められた、気に入りのアンティークであるらしい、洒落た腕時計の針は三時半をさしていた。
「ん〜、三時のお茶にはちょっと遅いけれどぉ、カフェテリアの方でぇ、お茶にしない〜?」
 ちょっと考える。一応、勤務時間内なのだけれど、私もすることは無いしなあ。それに、ここに来た時点で今更という気もするし。
 それに、思い出す。この前たまたま食べた、ここのカフェテリアで二時から四時までのお茶の時間限定で出されるパイは絶品だった。茶葉も良いものが揃っている。それらはかなりの魅力を放っていた。
「ご一緒します」
 この際、ミュラーたち徹夜組のことは意識の外に追いやっておくことにする。
「それじゃ、しゅっぱ〜つ!」
 そうして、メリィベルとセシリアの両人は、シュナイダー社一階カフェテリアにて、午後のお茶会と洒落込んだのだった。


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