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第弐話 

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2-2 【狂戦士‐ベルゼルケル】

一軒家。そのままで歴史小説にでも出てきそうな外観をした、樵小屋(きこりごや)のような平屋である。それが原生林の面影を色濃く残す木々の波間にぽつねんと佇む様はあたかも満潮の海面に頭一つ突き出た岩の柱のよう。ただし、あくまでも“かの様な”という但し書きがつけられる。というのも先ずもって大きさからして小屋とは言えまい。加えて樵やら猟師やらの仮の宿りというには少しばかり手入れの行き届きすぎている嫌いがあった。おおかた、酔狂な金持ちが趣味で建てた別荘といったところだろうが、
「一体、幾らぐらいかかってんだこれは?」
 その“小さくない小屋”という根本的な語義的矛盾を孕んだ、多分に趣味的な建築物を、官給品の無骨な双眼鏡越しに窺いながら男は呆れとも妬みともつかない気分で呟く。素人目にも一見して判るほどに結構な額の金が掛かった匂いが濃厚にした。まあ、それは一体どんな匂いだと真面目に問われれば困るのだが、どうにもこの手の感覚は匂いとでも表現するしかない。そして薫香(くんこう)に安楽を、悪臭には不快を覚えるように、自分の物ではない大金の匂いには毎度のこと理不尽な怒りがふつふつとこみ上げてくる。
 思わず知らず、
「放火してやろうか、おい。木だけあって良く燃えるんじゃねえか?」
 などと物騒なことを呟いている。あー、基本金持ちは敵なんだが、借りてるってぇか譲渡された奴にまでこの私怨、もとい義憤を適用するべきかどうかだな、問題は。無論本気である筈は無い――という事にしておいた方が角が立つまい、色々と――が、それくらいこの男は金持ちが嫌いであった。
……猫の額の安月給で、のべつまくなくこき使われてるこの俺がだ、ひいこらひいこら働いてやっとこさ、フランス野郎どもが言うところ“ウサギ小屋”に住めてるってのに、いくら先祖代々金持な大企業のオーナーだか知らないが、こんな別荘をポイッと社員にくれてやるだと、ふざけやがって畜生め。……んなに金が余っているんなら俺に寄越せ、俺に!
 訂正しよう。金持ちが嫌いというよりも、自分が金を持っていないのにもかかわらず、他人には有り余っているというこの(少なくとも彼個人の主観的には)理不尽な事実が単純にしゃくにさわっているだけかもしれない。
「まぁ放火までは冗談にしてもだ、強襲のドサマギで壁に穴の一つも穿ってやっちゃ駄目かね、いやマジで」
『……あの、班長? 民間人の、守るべき対象の資産です、そこのところ判ってます?』
 その言葉に本気の色を感じ取ったのか、通信機越しに部下が恐る恐ると言った感じで指摘してくる。制服の胸ポケットに無造作に突っ込まれた通信機が発するその声の、微かに帯びるくぐもった感じは機械音源の為にかそれとも本気で実行されるのを危惧するのゆえにか、どちらであろうか。より後者である可能性が高いように思われた。
「そうなんだよなあ、そこが問題なんだわ」
 普通そのようなことは問題にすらなり得ない。などという正論が無力であるほどに彼――ノエルが暗い情念を煮え立たせる対象こそは何あろう、まさしく昨晩一人の少女を迎え入れた建物であった。

 エリーザベト・シャルロッテ=フラメルの護衛――という名目の実質的な拘束――を命じられた、ジェイムス・ノエル=スクルージ中尉であるが、彼は先ず部下の情報部員に彼女の行方を追わせることから始める必要があった。当のリーゼロッテが目下逃走中だからである。だがこれは、指示を出した当の本人が欺瞞(ぎまん)情報ではないかと疑ってしまいそうになるほどあっけなく、その足取りを掴むことが出来た。
 なにせ「期待はしていないが一応は張っておくか」といった感じで設置していた網の中にこの鳥は自ら好き好んで飛び込んできたのだから。この建物の現在の主であるゲオルグ=シュミットがリーゼロッテの父親と生前親交のあった数少ない人物の一人であるという辺りにも調査は及んでいた。
……にしてもだ、いくらなんでもこんなわかりやすいところに逃げ込むか?
 灯台下暗しとは言うがそれにも限度はある。こんなところに逃げ込んでも即座に見抜かれるとは思わなかったのであろうか。それが経験と思慮の足りない小娘の浅はかさだと言ってしまえばそれまでであるが、どうにも疑いは止まない。それでも捕捉してしまったからには確保へと動かない訳にはいかない。兎にも角にもこうして、彼とその部下達は森の中に三々五々と散らばって、ゲオルグの家を遠巻きに監視しているわけである。
 右腕に巻いた愛用の腕時計の文字盤にちらりと目をやって現在時刻を確かめる。監視を始めてから数時間、緩やかに進む短針が今しもローマ数字の三にさしかかろうとする刻限。一時間ほど前に、この家の主であるゲオルグが出て行って以来、特に変わった出来事は起こっていない。
 時計の針と言ったが、彼はアナログのそれも機械式時計の愛好者であった。上司や昔の恋人などからは時間の精確さを重視すべき情報部部員として、待ち合わせに誠実な恋人として、いい加減にデジタル時計に変えろと再三再四言われ続けながらも、しつこく使い続けていた。別に職場から支給されている電波時計などもあるにはあるのであるが、目下のところ、彼のデスクの奥深くにて埃と鉄の奇妙なオブジェを形成する為の素材の一つへと成り果てている。
 彼の言い分としては、造りのしっかりとした物であれば機械式の方が信頼出来るし、竜頭を摘まみ手ずから発条(ぜんまい)を巻くことで、あたかも自分が時計をつまりは時間を支配しているかのように感じる瞬間も心地よい。それに何事をもそつなくこなす人物よりも多少の愛すべき欠点を備えた人物の方が味の有る友人となり得るように、たまに時間がずれるのも「愛嬌みたいなもん」だということになる。それにデートに遅刻した際の言い訳にもなるのだそうだ。
 まあ、こんな調子であるから振られるもすのだろうが、それはともかく、
……さて、どうする。このまま一気に突入して確保するか。それとも今しばらく様子を見るか。
 こつ、こつ、と小さく乾いた軽快な音がリズミカルに響く。彼には考え事をする時に、人差し指と中指でもって文字盤の硝子を叩く癖があった。ああは言ったが、やはり対象以外の民間人との接触は可能な限り避けたいところである、たとえ当の住人が不在であるとは言え。いや、だからこそか、空き巣狙いの様な真似はやっていて情けなくなってくる。理想はお嬢ちゃんが自分の意思でコチラに協力してくれることなんだが、逃げ出したことを考えるに見込みは薄いか。リーゼロッテもまた犯罪歴などは特に無い民間人であると言う点には、この際敢えて目をつぶることにしていた。何となれば彼らは軍人であって、警察ではない。法は尊重されるべきものではあるが、最優先事項というわけでもなかった。
 付け加えるにノエルもその部下達も、どのような任務であれ――例えそれが幼児の拉致(らち)に非戦闘員の殺戮といった非人道的なものであっても、ただしそのような状況にはまず滅多にならないが――必要であれば躊躇わずに実行する覚悟を決めた人間ばかりである。だがそれと好悪の感情とはまた別の次元の話であり、唾棄(だき)すべきことであるとは正常に認識出来ている。だからこそ、自己欺瞞に過ぎないと解ってはいても、可能な限り合法的・人道的の枠に収まる流れであって欲しいと願っている。
……あんまヘヴィーなもんが続くとモラール(士気)以前にモティべーション(動機)が保てねえんだよな。
 そんなことを、とりとめも無く考えていた時である、その違和感を捉えたのは。微かな、シャツのボタンを一つずつ掛け違えていたことに気付いた時のような。致命的ではないのだが、どうにも不恰好で居心地の悪い、そんな感覚である。なにがと問われれば困るのだが、確かになにかがずれている。ざらついた、塵埃(じんあい)の舞う風の中に身を晒しているかのような不快感。
「こいつは早急(さっきゅう)にうがいとシャワーが必要だな、おい」
 そんな軽口を叩きながらも、一度気付いてしまった違和感というものは、膨らし粉を入れたパン生地のようにどんどんと(かさ)を増していく。やがてそれだけを心が占めるようになって来て、その違和感と不快さとに衝き動かされるようにして、
「……おい」
 通信機に呼びかける。即座に『はい』『どうされました』『なんでしょうか』とめいめい返事を返してくる部下達に、疑問というよりも確認するように言う。
「……何か変じゃないか」
 目を細めて、眉根を寄せる。
『……特に異常は……ん?』
 ありませんが。そう結ぼうとして、だがしかしその言葉が完成されることはなかった、ノエルに遅れること暫し、その部下もまたかすかな違和感を覚えたのだろう。通信機越しに緊張する者と場所とに特有の、殺気だってざわめいた静けさを聞きながらノエルは周囲を慎重に見回して、その違和感の原因を探っていく。
 意識を束ね集中する。ピンセットで砂粒をより分けるようなイメージ、あるいは顕微鏡で極小の微生物を。秒針の音、葉擦れの音が繁華街の喧騒ででもあるかのように感じられた。
……何だ、俺は一体、何に反応している……?
 ゼリーの水槽で泳ぐ魚にでもなった気分だった、温度・湿度といった物理現象としてではなく比喩的に生臭く生ぬるい。実のところ似たような感覚を過去にも幾度か感じたことがことがあった。
 そう、これは……
「……いつからだっ!」
 全てのピースが合さった。より分け配置された砂の粒が描き出した絵画は男に激しい驚きを(もたら)すものであった。
『……どうされました班長?』
 ノエルが一体何に愕然としているのか判らずに戸惑う部下達の内、一人が皆を代表して尋ねる。先ほどから率先してノエルに応対していた者だ、取り纏め役といったところなのだろう。
「結界だ。内と外との認識を狂わす結界か、内部と外部を切り離すものか……それに類する技術によって“異界”に取り込まれている……んだか中のほうが異界になってるんだかまではわからねえが、ともかく腐れた妖術使いに幻惑されてるぞ、俺達は!」
 ノエルたちの所属する第九課は隠秘学(オカルティズム)を専門とする部署である。自然、世間一般では超常現象に属する事象とも慣れっこと言うほどではないが幾らかは親しんできた。今回のように“結界”という一般常識に照らせば異常と言える単語もお馴染みのものであったし、この程度であれば最早日常現象だとさえ言えた。
 加えて今回の任務の焦点、護衛対象のリーゼロッテは錬金術師である。厳密に言えば魔術師でも魔法使いでもないが現代科学とは一歩離れて、平行して歩む技術体系・世界観の保有者である。想定される襲撃者もまた異能の持ち主であって当然……とまでは言わないが、そうであってもなんらおかしくはなかった。
「分析急げ!」
 その為の装備一色を持ち込んでいる。そしてそれは言われるまでもなかったようだ、ノエルの第一声、結界の一語を聞くや否や、彼の部下達は分析に入っていた。
 彼らの用いるそれは純粋に機械的な技術としての魔術である。磁気や重力を機械的・科学的に観測し、第九課のデータベースに蓄積されたサンプルと今眼前にある現象とを照合し、適当なところにあたりをつける。そしてある程度のあたりがつきさえすれば、大体はそれを破る手段にも見当がつくものであった。


 さて、時間は十分ほども遡るだろうか、くだんの結界の中でのこと。
 最初リーゼロッテはそれに気付かなかった。もとより彼女には気配を読むだの魔力・妖気を感じるだのと言った超人的なあるいは荒唐無稽(こうとうむけい)な能力は備わっていない。にも関わらず彼女は家の外に出てきていた。
 これは追手に対処する為である。家の中に籠もるのは論外であるし、異界に取り込まれた状態では逃げ出すことも適わない。彼女には異常に拡張されていたり、ある一点で無限にループしているかもしれない森の中をあてどもなく彷徨い歩くような趣味は無かった。そうとなれば、結局はこうして積極的に迎え撃つのが最善手というものであった。
 どうやら寝起きであるらしいリーゼロッテは不機嫌そうな顔をして、手櫛(てぐし)でもって寝癖を()(ほぐ)している。服には少し皺が入りよれてもいた。寝巻きを持って逃亡している筈も無いので身体が痛む。それでも久しぶりに椅子やら地面やらではなくちゃんとした寝台の上で布団にくるまって寝られたおかげか気分そのものは悪くない。
 それには当面味方と考えてよいゲオルグと接触できたということも影響していただろう。
 ただ気分は確かに悪くないのだが、いかんせん眠い。未だ睡魔に冒される頭がかくんと落ちる。いやそんな可愛いものではなくて、がくんとでも形容すべき勢いであった。そのせいで急に筋が伸びる形になってしまい痛めてしまった首筋を、さすさすと撫でこすりながら頭を正位置に戻した。
 そうすると、いつものきつい顔つきとも、先刻の仏頂面ともまた違った感じに、とろんと崩れた少女の顔の真ん中に置かれた、ねぼけまなこより発される視線の中に一人の男が入ってくる。
 その男は年の頃、三十の半ばだろうかと思われた。しなやかな筋肉に身を鎧った2メートル近い偉丈夫であり、その端整な彫の深い相貌を綺麗に撫で付けられた亜麻色の頭髪と整えられた顎鬚とが飾っている。未だ年若いリーゼロッテのような少女の趣味からすると少々くどいと感じる容貌であったが、ハンサムであると認めるのにやぶさかではない、そんな男である。
 だがそれよりもなによりも彼女を唖然とさせたのは、その服装であった。
……どこの社交場から抜け出してきた?
 そのルネサンス彫刻の様に均整の取れた肉体を白無地のドレスシャツが包んでいる。二重に折り返された袖先には白蝶貝のカフリンクス(カフスボタン)が輝き、襟元を飾るのはスカーフの様に広がるアスコットタイにそれを止めるシルバーのストックピン。その上にはスウェードのベストにシングルのジャケットと、昼間の正装であるディレクターズスーツを洒脱に着崩したその姿は、そのままでどの様なパーティーにでも通用するであろうほどに完璧な紳士の装いであった。
 しかしながら、社交場にあってはしっくりとして大層見栄えもするであろうその伊達振りもこの様な森の中では違和感をしか与えてこない。おまけにその巨躯をもってしても容易には振るえないのではないかと思わせるほどに巨大な両手持ちの剣を帯びてさえいる。一歩間違えば、いや当然の帰結として失笑が待っているほどの滑稽さであったが、それをそうと思わせないのがこの男の凄いところであった。
 今のリーゼロッテのようにその特異な雰囲気に呑まれるのだとも言える。もはや眠けは遥か遠くに過ぎ去って、それに代わるようにやってきた混乱が踊り狂っている頭で、呆れるべきか感心すべきかと妙なところでしばらく悩み、その後あることを思い出してうんざりしたように首を振り、
「昨晩の人造矮人(ホムンクルス)を叩きのめしてやったと思ったら、一日と間を置かずに次の追っ手とはな。まったく人造矮人と言い、貴様と言い“朔望夜会(シノーディック・ソワレ)”の老人どもは、いいかげんよほどに暇らしいな」
 いささか気取った調子で揶揄(やゆ)をする。だが、
「……人造矮人、かね。どうやら、フロイラインは色々なところに、おもてでいらっしゃるらしい」
 少女のそれを更に上回る気取り具合でもって、それを男は否定する。秀でた体躯に見合う重低音のそれでいて滑舌もハッキリとした、男性的な色気の感じられるバスである。それが、ごくかすかにゲルマン語派系の訛りがあるほかは、いささか古風ではあるが、極めて流暢なフランス語で語りかけてくる。いや下手をするとリーゼロッテたち一般的――果たして彼女の話し方が一般的であるかは甚だ疑問ではあるが――なフランス人のそれよりも、古風である分いっそう正確でさえあるかもしれない。
「……違うのか?」
 自信満々に発した言葉である。それが軽く否定されてしまったわけで、耳の先端には朱の色がうっすらと恥ずかしげにのっている。お堅い連邦軍がこの様な色物紛いの人間を使うとは思えなかったのと、言葉の通りゲオルグの家を訪れる直前に“夜会(ソワレ)”よりの刺客を一人、あるいは一体退けていたので、その後続かと思ったのだった。だが、
「残念ながらその人造矮人というのには心当たりが無いね。“夜会”のご老体たちは確かに私のお得意様ではあるがね、今回は別口だとも」
 あっさりとした声音で否定を重ねてくる。
「………………」
 “夜会”の老人どもではないだと。欺瞞情報か、いや、この様なことで嘘をつく必要性など何もない。ではやはり軍情報部なのか? しかし情報部の連中がこのような任務を外注する筈も無いし……まさか、
「伯爵か!?」
 一人の男の姿が強烈な勢いで脳裡に浮かんできた。動揺に声が震えている。それは少なからず予想外な答えであった。いや、完全に予想外であったとは言うまい。それは無意識的に思惟の外に追いやっていた人物であった。


 リーゼロッテが思いもかけぬ人物の――言葉の上だけのこととは言え、登場に心乱されていた頃。結界の外では分散し監視していた情報部員たちが一所、ノエルの許に集まってきていた。
「……分析完了しました。壺中天(こちゅうてん)奇門遁甲(きもんとんこう)かそれともさらに別の術であるのかまでは解りませんが、少なくとも道家系仙術であるのは確かなようです。絶対強度3、構築精度は5……」
 分析を担当した部下からの報告を聞き、思案する。
「強度3の精度5か……なら解体するよりも破壊した方が早いな。安全性を期すならば解除を選ぶべきなんだが……」
 系統にはさして意味は無い、それは単なる術者の流儀に過ぎない。術者たち本人にとっては重要なのであろうが、自分たちに重要なのは力の強度と、それを用いた術の精度のみである。科学的な分析、エネルギーという観点から見れば、その扱う力それ自体は殆ど同じ物であり、多少の差異こそはあれどもそれは無視できるぐらいに小さなものであった。それが西洋式の典礼魔術であろうと、東洋式の方術であろうと、はたまたアメリカやオーストラリアの新大陸の呪術であろうともだ。
 この種の結界というものは、概念的には天幕の様なものである。より正確には空間を覆い分断するその布の部分。強度が糸の強靭さを、精度が編込みの精緻さを表しているのだと考えて良い。布を切断するか、解きほぐすかである。
 一応この他にも、結界という空間に作用する術の場合はその性質上、基点として要所要所に設置された呪符やパワーストーンといった触媒、建物で言えば柱や土台に相当する部位を取除いてやるという手段も存在するにはするのであるが、いや本当はそれこそが最も穏当かつ正統な解除法であるとも言えるのだが、それには相応の手間がかかる。
「だがまあここは、拙速は巧遅になんとやらだ」
 先ず肝心のその触媒を探り出して――術者は普通それらを巧妙に隠しているものである――から触媒を術者に気付かれないように取除ける状況にして、やっと結界を無効化できる。などといった悠長な手間と時間のかかる作業をしている余裕はないのである。そう判断して指示を下す。
「破術の準備を急げ……他の者は攻撃態勢を、銃の安全装置を解除しておけ、施術後即時突入するぞ」


 驚愕の叫びにしばし我を忘れたかに見えたリーゼロッテであったが、いかんいかんとばかりに首をぶんぶんと振って気を紛らすと、きっと男を見据えてくる。それでどうにか気を取り直したのか、ふてぶてしい態度で挑発的な言葉を男へと投げかける。
「ふん、臭う、臭うな、獣臭い。差し詰めこれは熊の臭いか?」
 ここまで持ち直すまでに九十秒ほどもかかったであろうか、男がその気になれば事を終えられるに充分過ぎる時間である。それを手出ししないとは随分と紳士的な態度である、身なりは伊達ではないと言うことだろう。
……紳士たるもの騙し討ちの如き真似をするわけにはいかないのでね。それはそれとして、
「おや、ちゃんと入浴もクリーニングも欠かさないので臭いなどはしない筈だがね」
 鋭いね。そう思いつつとぼける様に、自分の服の袖を摘まんでくんくんと臭いを嗅ぐ仕草をする男。
「……比喩に決まっているだろうが、阿呆。ここは私の眼力を褒めるところだぞ」
 挑発をお道化た仕草で返されたのが不愉快なのか仏頂面で文句をつけてくる。
 そんな少女の様子を微笑ましそうに男は眺める。素質はあるようだが、経験が圧倒的に足りていないようだね。微笑ましくなってきそうだよ、お嬢さん。けれど笑ってばかりもいられそうにないね、うなじが()()る様な感じがするよ。
「しかし、フロイラ……おっとマドモアゼル。貴女こそ、なにやら物騒な者を飼っているのではありませんか?」
 彼女の国籍に敬意を表してフロイラインではなくマドモアゼルと言い換える。このうなじの(うず)きは傍に危険が潜んでいる合図だ。外の軍人たちはルーファンの術で隔離されているからね、となればお嬢さん、君が何か隠していると判断せざるをえないのだよ。見た感じ隙だらけと言うのも愚かしいほどに己の肉体を制御できていないようだけれど、さて。
「……とっ! 私としたことが迂闊だったね、マドモアゼル・フラメル。貴女の名前は知らされていたのでね、ついつい忘れてしまったけれどご挨拶がまだだったようだ。私の名はマンフレート。レギナント=べーレンブルグの息子、マンフレート=べーレンブルグだ、以後見知りおいて貰えれば幸いだ」
「ご丁寧な挨拶痛み入るよ、まあどうせ短い付き合いに終るだろうがな……ザミエル!」
 今は微かに冷笑の顕れる、その小さく愛らしい口で少女が一つの名前を叫ぶと、その叫びに呼応するように顕現する一つの影。
 昼下がりの森の中、柔らかな木漏れ日の描き出す数多の影の中にあって、小柄なリーゼロッテに相応しい大きさでしかなかった少女の影が物理法則に逆らうようにして急激に膨張をし始める。その影球から伸びる繊維の束のような、石油のような質感を持つ影の糸が絡まりあって徐々に一つの形を織り上げていく。
 だが、大きく、大きく、どこまでも膨張するかと思われたその影の蠢動もやがては緩み始め、終にはある一点を境にして今度は縮み始める。その収縮もマンフレートよりも僅かに小さくなったところで停まると、だんだんと明確な形が現れてくる。リーゼロッテの言葉ではないが、これこそ獣のような姿をしていた。人と獣の形質を半ばずつ備えていた。またそれは見る角度によっては爬虫類とも鳥類とも見えたし、ことによっては植物や鉱物にさえも見えた。
『ウィ、ミレディ』
 影はそう呟くと、未だ蠕動する己の身体を投げ飛ばすようにして、一気にマンフレートへと詰めよった。その研ぎ澄まされた爪でもって眼前の巨漢の身を唐竹に断ち割る。大きく振り被った様は翼を広げる猛禽のようであり、中でも爪を振り下ろす有様は高空より急降下しながら獲物に襲い掛かる大鷲のよう。
……いや、これは!
 その半獣の振り下ろした爪を、からくも鞘――の皮革材を補強する為に打たれた金具――でもって受け止める。悠長に抜いている暇は無く、未だ剣身は鞘に納まったままである。そのままで二度三度と打ち合いながら頃合を見て、勇み足を装ってわざと大振りに鞘を振るうと、一瞬それを受け止めて動きの止まった半獣の肩を蹴り飛ばしざまにその反動で距離をとる。そしてその勢いに任せて抜き放った白刃煌めく大剣を隙無く構えながら、しげしげと己に敵する者を改めて眺める。そうして内心で感嘆の声をあげる。これほどの強者を従えているとはね。だが……(ふくろう)(こうべ)に狼の身体を併せ持つなどと、これで後は下半身を大蛇の尾に変えさえしたら、まさしく悪魔、ソロモンの鬼神七十二柱の一、火の侯爵アモンの形象そのものじゃあないかね!
「口上もなしで飛びかかってくるというのは、少々無作法に過ぎないかい、マドモアゼル。それにしても……ふむ、悪魔召喚士か、はたまた悪魔憑きか。恐ろしいね」
 これこそが、肉体的にはただの少女に過ぎない……どころか幼少より研究に没頭して、ほぼ完全に引きこもりとして運動と無縁に過ごしてきた結果、老婆か幼女の如きさんざんな身体能力を備えるリーゼロッテをして追手を退け、逃亡を可能たらしめている理由であった。が、別に悪魔ではない。
「失礼な、私は錬金術師であって、そのような不埒(ふらち)な邪術の使い手や魔女風情とは違う。一緒くたにはしないで貰いたい、不愉快だ。人造精霊(エレメンタル)だ。ホーエンハイムが言うところの四大のそれではないがな」
 リーゼロッテの言及する、ホーエンハイムとは、十六世の医師にして、最も重要な錬金術師の一人、テオフラトゥス・フィリップス・アウレオールス・ボンバトゥス=フォン・ホーエンハイムのことである。一般的にはホーエンハイムをラテン語化した――あるいは古代ローマの名医ケルススを超越した者(パラ・ケルスス)の謂いともされる――パラケルススの名で知られている彼はアリストテレスの四元素仮説を発展させ、その著『妖精の書』の中で各々の元素に対応する精霊を規定した。空気のシルフ、火のサラマンドラ、土のグノームそして水のニンフあるいはウンディーネである。
「なるほど、さしずめ影の精霊といったところだろうかな、それとも銃弾の精霊かな。彼それとも彼女かな、ザミエル君といったかい、強そうだね」
 踏み込みの速度と手に受けた衝撃から推し量る。平気な顔を繕ってはいるが未だに掌が痺れている。結局は好きで喋っているのだが、一面で肉体と精神とに受けた衝撃からの回復を待つ為でもあった。
『お褒めに預かり恐悦至極(きょうえつしごく)。わたくしには別段に明確な雌雄といったものは存在いたしませんが、されどもミレディがアニムスの影たるこの身なれば、畢竟(ひっきょう)男性人格と申せましょうか。されど、わたくしの名に関しましては……』
「エノクの天使。台風の司掌者・天使ザミエルよりの名付けだが……カール・マリア=フォン・ヴェーバーの悪魔の方も言いえて妙かもしれないな」
 その梟頭に照れたような笑みを浮かべ――梟の笑みなど知らないがマンフレートにはそう感じられた――前屈みに直立した狼のような身体には一級の作法に適った物腰。一流の従者がそうであるように、心得たもので主人が話す素振りを見せるや速やかに口をつぐみ、その後を引き継いだリーゼロッテは“銃弾の精霊”云々がどうやら気に入ったようで、魔弾の射手かと頬を緩める。
 険に満ちた顔も素敵だが、笑い顔はもっと素敵だねお嬢さん。それをどうやろうとも曇らせるに終わるものを君にもたらす我が身としてはだ、罪悪感に胸を裂かれそうだよ、まあどうしようもないのだけれどね、お嬢さん。嗚呼この出会いは、最初から不幸な物であったのだ、諦めておくれお嬢さん、私もどうにか諦めよう。それはそれとして、
「なるほど。しかし驚いたね、君、話せる……のは最初に喋っていたか……それにしても」
 (まず)いなあ、人間ではないから当然なのかもしれないが、身体能力では自分よりも上のようだし、加えてそれに自立的な、それも高度な知性までも備えているのかい。これは……こちらも使うしかないね。
「やあ、マドモアゼルにザミエル君。姫君とそれをお守りする精霊騎士とに敬意を表して、本気でお相手しよう」
 我ながら良く言うけれど、紳士たるもの時にやせ我慢も必要だ、と言うことにしておこうじゃないか。表には出さないが、内心苦笑しながら芝居がかった身振りで眼前の主従を賞賛する。結局は自分が負けるなどとは微塵(みじん)も考えていないがゆえの余裕である。
『騎士などとは、過分なるご評価痛み入ります』
 右手を胸にあてがい、一部のすきも無い返礼を行う。その際にも隙はまるで見出せない。
 やれやれ、怖いね。だが、身体能力で負けるのならば、勝てるようにしてやれば良いだけの話さ。そんな無茶なことを胸中で呟きながらもう半歩半歩とじりじり距離をとると、獣の咆哮の如き声にならぬ叫びを挙げる。まさしく言葉ならぬ野獣の雄叫びとでも称すべきそれは、霊的な圧力を以って聞く者の魂魄(こんぱく)を揺さぶり、その意味するところを叩き込んで行く。

『ヴォータンよ、照覧あれ。
 戦死者の君主……魔術師の王……大いなる偉神ヴォータンよ!
 我が名はマンフレート。マンフレート=ベーレンブルグ、熊の皮衣(かわぎぬ)を纏う者なり!
 この身に宿れ、荒ぶる熊の魂よ……我を満たせよ、狂熱よ!
 我が腕は木々()ぎ払う剛力に充ち、我が脚は大地駆る俊敏さを宿したり……我が身に(くだ)れ、野獣の精髄(せいずい)
 我が身に()ちよ、大熊の力よ!』


 どこかで獣の吠え声が聞こえる。
 まさか熊や狼なんぞ出てこないだろうなと、思わず銃を握る拳の力が増していき、とうとうそれは痛みを越えて痛覚が麻痺するほどに強くなった。左手の痺れに顔をしかめる。あまり現実味の無いことではあるが、生理的に緊張する。自然の色濃い森のただ中にいるということも不安感を増長しているのだろう。ノエルの故郷であるブリテン島の狼が絶滅したのがもう何世紀も昔の事であるのに対し、彼の今いるドイツの森では今もって健在である。
 そして結界の中の様子がまるで判らないことも彼の不安を掻き立てた。無事なんだろうな、お嬢ちゃん。そんな彼にこれまた緊張を漂わせた部下が告げてくる。ただしこちらは満足感をも帯びていた。
「破術式の準備完了。いつでも可能です」
 ようやくか。実際にはせいぜい十数分のことであったろうが何時間も経過しているような気分であった。さっさとこんな陰気な場所からはおさらばしたいもんだと、()きそうになる気分を努めて落着かせながら命じる。
「起動しろ」
「了解。三十秒後に破術実行されます、二十五秒、衝撃が来ますので、班長伏せて下さい。二十秒……十五秒……十秒……九、八、七、六、五、四、三、二、一……破!」
 衝撃が走る。轟音とともに辺りの樹々が薙ぎ倒され、地に伏せたノエルたちの、頭部を庇いかざした腕を、背を、脚をしたたかに打ち据えていく。


 マンフレートは軍神へと捧げる祈りの文言を叫び終えると即座にザミエルへと襲い掛かった。
 その疾さは先ほどのザミエルのそれをも凌ぐもので、二度、三度、四度と間断なく剣を打ち付けてくる。元々この種の両手剣(ツヴァイハンダー)というものは一般に思われている程には重いものではなく、切断専門というわけでもない。その鋭い切先は突き刺すことにも適しているし、肉厚の刃は薙ぎ払ったり防御に用いることも充分に可能である。言うまでも無くそれには相応の膂力(りょりょく)が必要とされるが、この男の場合にはその心配は無用であろう、殊にこのベルゼルケルの狂熱に充たされたこの状態であれば。
 それは狂乱の戦士の名からは想像もできないほどに精妙優美な、それでいて迅速苛烈な数連の刺突であった、斬撃であった。剣術の教本の如き真正面からの一撃を叩き込んで来たかと思うや、いきなり後ろを向いて跳びあがり、その状態から上から下へと落とし込むような回し蹴りを加えてきたりもする。虚実に及んで巧妙な戦いぶり。
 彼らの攻防を眺めるリーゼロッテの目では、剣の軌跡を追うことはおろか残像さえも捉えることが出来なかったが、直前までの圧倒から一転して、ザミエルが防戦一方に追い込まれたようであるのは明白であった。
 マンフレートが両手に握った大剣を左から右へと袈裟懸けに、ブンっと切裂かれ押し退けられた空気が凄まじい音を発するほどの大振りに振り抜く。後方に半歩退き、危なげなくザミエルはそれをかわす。かわしたと思ったそこへ、ダンッと空と地を裂くに終るかと思われた刃が舞い戻って来て襲い掛かる。信じがたいことをする、どうやら慣性に従って流れていく刃をその人間を超越したベルゼルケルの筋力でもって無理矢理に軌道変更をしたものであるらしい。かわしきれずにどうにかその鉱物質の左腕を叩き込んで刃の軌道を逸らせる。金属のぶつかる不快な音が響き、散る(あけ)の華。
……もともと、ザミエルは戦闘用ではなく、私の助手として調整された人造精霊だが……いかに相手がベルゼルケルとは言え、人間相手にこれほど圧倒されるなど……勝算は?
……何とも、いかんせん、このお方のそれは人間の膂力ではありえませんので。ですが、勝算は御座います。戦い疲れたベルゼルケルはたとえそれが戦の最中であろうとも、己が意志とは関わり無くどうしても虚脱状態へと至らざるを得ません。されば、それを待つに勝機があるかと。
 ザミエルはリーゼロッテのアニムス――ユング心理学で言うところの、女性の無意識野に存在する男性的側面のそれそのものではなく、そこから言葉を借りてきたもので、霊魂の普段表れている部分以外をおおざっぱに指している――を基に生み出された錬金術師の護衛、助手、召使をつとめる人造生命、一種の霊的なロボットである。その実体は使役者の脳の中にこそ在って、自由に会話することが出来た。
……解った。私も奴の気を逸らすのにつとめよう。そして後は、外の軍人どもがある程度有能であることを願おう。
「つくづく失礼な男だな貴様は。人の事を悪魔憑きよなんのと言っておきながら、何のことはない、貴様こそ悪霊憑きではないか」
 ベルゼルケルとは北欧の神話や伝承に現れる、熊や狼といった野獣の毛皮をその身に纏うことによって獣の霊威を得たされる戦士たちのことである。その戦士たちは彼らが奉じる軍神ヴォータンの神通力を受け、狂熱に任せて死を恐れずに戦い続けたと言われる。
「おや、熊云々と言っていた時点で気付いていると思っていたのだがね」
 違ったのかい。と、それこそ心外だと言いたげに、眉をひそめて言い返す。その間にもザミエルの攻撃を受け、流し、かわすことは忘れない、どころか痛烈な一撃をさえしばしば加えていく。ところで、ベルゼルケルとは“熊のシャツを着込む者”といった程度の意味であり、同様な者たちに、狼のシャツを着るウールフヘジンが存在するが、彼らの内のある者はその力を身に宿すのみならず、実際に獣へと変じたとさえ伝えられている。恐らくは彼らは一種の霊媒ででもあったのだろう。
「無論だ!」
 何故かその身長相応に薄っぺらい胸を精一杯前に張り出しながら、自信満々に断言する。実際は単に虚勢を張っているだけなのであるが、生来偉そうだというのもまた事実。
『貴方様がベルゼルケルであることに気付いたのはわたくしで御座います。それと、貴方様の接近と結界の発動に気付いたのも。ミレディはお休みでしたので、少々お(なだ)めするのに骨を折りましたが、ですので次回からはどうぞ、夕刻お越し下さいますよう』
「こさせてどうする!」
 思わず思惟による会話ではなく、実際に声を出して突っ込むリーゼロッテ。この人造精霊もどこまで本気で時間を浪費させる気があるのか怪しいものである。奴ではなく、私を撹乱(かくらん)しても仕方が無かろうに、まったく。そして、
「こらそこ、貴様も笑うんじゃない!」
「いや、失礼。しかし……っくっく、マドモアゼル。君たちはコメディエンヌとしてもやっていけそうだが、察するに時間稼ぎかい? 良い手だ、そうだね、あと三分くらいで限界を迎えるだろうね、私は。それと、これでも時間を選んだつもりだったのだがね……シェスタと言うものかい? どうにもラテンの風習には馴染めないものでね気付けなかったよ。あとマドモアゼルが実はセニョリータであったことにも」
 ひどく真面目腐った表情で言ってくる。表情だけを見れば本気で言っているのではないかと錯覚してしまいそうだ。だが、『シニョリーナであるやもしれませんが』このザミエルの一言に、取り繕ったしかめっ面を速やかにかなぐり捨てて豪快に笑い出した時点で冗談以外の何物でもなかったのは明らかであろう。
メルシー・ボクー(どうもありがとう)! そんなスペイン女(セニョリータ)でもイタリア女(シニョリーナ)でも、普通の人間にはどっちだって構わないような素敵なことでそんなに愉快な会話を繰り広げて下さって……黙れ貴様ら、下らなすぎるぞ。耳が腐る、脳が溶ける、私の感性は今しも磨滅しそうだよ、そもそも私は紛うかたなくフランス人であって、ああもう……知ったことか!」
 シェスタとはスペイン語で昼寝の事で、特にスペインやイタリアのようなラテンの国に見られる長い昼寝のことを指すのであるが、正直、そんなことはどうでもよかったので、「どの道、スペイン人もイタリア人も同じようなものだ」と腕組みをした左の二の腕を、苛立たしげに右掌でばしばし叩きながら暴言を吐く。
「おや、怒られてしまったようだね、ザミエル君。それではやり直そうじゃあないかね。……こほん、『良い手だ、そうだね、あと三分くらいで限界を迎えるだろうね、私は』確かこんな感じでよかったと思ったのだが」
『まさしくそうでございましたとも! これはまた、ご親切と見せかけた心理戦を仕掛けてこられるとは存外に人のお悪い……ところで、ミレディも無粋なお方で、ユーモアこそ人の心を豊かにしてくれるものであると言えましょうに!』
……貴様らの言うところのユーモアとやらにはエスプリの欠片も感じられないようだがな! それよりもどういうことだ? 三分で終ると言うのならばそれまで粘ればすむ話だろう。それとも、三分と言うのがブラフ(はったり)で本当はもっと保つと言うことか?
……いえ、その可能性もございましょうが恐らくは真実を告げることによって、怒りと油断とを誘おうとしていらっしゃる、あるいは予断を。まさにミレディ、今の貴女のように。
……怒りに油断はともかく、予断?
……さよう。人間というものはゴールを教えられますとと、確かに奮起もいたしますがしばしばそれを為すのに最低限の力のみを振り分けようといたします。無意識の怠け心ですな、結果、三分を目標とすれば二分五十秒のあたりで失速を見ましょう。あのジョークにしてから――当然ながらご本人の特性もあるのでしょうが――こちらの意気を削ごうとされていたような気も致しますな、時間稼ぎにこちらも有り難く乗らさせて戴きもしましたが。
……そうなのか……しかし、もしもそうだとすればそれはマズイな、私の精神に依存するお前のことだ、迷いがあれば即座に弱体化を見るな。だがな、言っておくが半分方お前が私も萎えさせているということも忘れるなよ。
……それは失礼、お許しを。とまあ流石にそこまではあのお方も見切れてはおりますまいが、そういうことです。加えて、残念ながら私はあと三分は持ちこたえられそうもありません。とは言え、これはある意味で朗報かと、心理戦に持ち込もうとするあたり、あのお方も余裕と見えて実はギリギリなのでしょう。もっとも、それさえも誘いやもしれませんが、そこまで疑っていては暗鬼に取り殺されましょう。それになりふり構わずとまではいっていないようですので、このまま押し切れる可能性もなきにしもあらずでしょうか。
 何せ未だに理性を留めておられますので、と状況を解説しながら、飛び込んで来たマンフレートの刃をはっしと掴み、ぐいと引っ張ってその体勢を崩させようと試みる。一瞬(かし)ぐも残念ながら攻勢に転じられそうなほどの隙は作り出せない。
……なるほどな。中々奥が深いものだな、戦いというものも。単なる殴り合いではすまないのだな。
……いかさま。
 感心した風に歎声(たんせい)し、その拍子に頬が緩む。それを目端にでも捉えたのかマンフレートが怪訝(けげん)そうな顔をしてリーゼロッテを見つめてくる。よくもまあ、このような接近戦の最中に余所に気を配る余裕があるものだとこれまた感心する。ついでに同じく会話と戦闘とを両立しているザミエルをも褒める。
……はい、わたくしは冷静に見えて案外に思慮のお浅いミレディの対なる存在で御座いますれば特性も逆でありましょうゆえに、一度に複数の行動を制御する程度は造作もなきこと。
……何だと!
 沸騰する。一々、この人造精霊は言葉の多い。口調を丁寧に設定してあるせいで、慇懃無礼の見本のようである。
……むっ、これは! ミレディ。
……何だ?
 仏頂面で簡単には誤魔化されんぞ、といった感じの声をあげる。精神に直結している心の声である分だけ、あからさまである。まあ元々腹芸の出来ない直情径行がリーゼロッテなのではあるが。殆ど父親やザミエルのような存在としか接してこなかったので、その種の情緒が未発達なのである。
『ミレディ! 救いとなるか更なる混乱を(もたら)すに終るかは知れませぬが、幸いに方々は存外有能であったようですぞ!』
 主人に、と言うよりもマンフレートに対するように聞こえよがしに声高に告げる。その人造精霊の言葉に人間二人の顔がそれぞれに歪む。一方はやっとかという風に、もう一方は少し驚いた風に。前者はリーゼロッテの後者はマンフレートである。ざわめきに満ちるその場に、高空から硬質な声が降ってくる。
『マンフレート! “箱庭”に穴を開けられました。表の軍人たちの仕業です。数は十三名。撤退を』
 スポーツの行われるドームスタジアムで、天井に設えられたスピーカーから場内に響くかのような感じの女声である。
「ルーファン! 現状ではどれくらい保つ!」
 一気に飛びすさり、大きく距離を開けたマンフレートが語気も強くそのどこから響くとも知れぬ声に尋ねる。
『完全な崩壊まではあと七分といったところでしょうね。けれど、離脱の安全性と“宝具”の再構築、修理の為にも出来るだけ早く閉じてしまいたいの、二分といったところ。それに彼らはこちらの都合なんかとは関係なく直ぐに突入してくる筈です』
 リーゼロッテたちに完全に興味を失ったかととれる調子で会話を続ける男女の声を聞きながら、
……ザミエル! 逃がすな、軍人どもが突入し、こちらを包囲するまで足止めしろ。しかし、殺してはならない。
……御意。まあ、多少動揺したからといって容易に殺されてくださる方でもありませんので、その点は問題ありますまい。
 そう言うと、ザミエルはマンフレートとの己に開いた距離を再び詰めるように(おど)りかかった。


 結論から述べれば、ザミエルは存分にその役割を果たしたと言えよう。少しずつ退きながらも、それを邪魔するザミエルの存在によって完全な離脱の適わないマンフレート。彼らの傍らにはその争いを一歩引いて眺めるリーゼロッテ。そして更にその周りでは彼女たちを取り巻いている集団があった。これは言うまでも無くノエルたちのことである。
 この中心部に至る、一団の軍人が切り拓いてきた道の部分では最早結界は無効化されている。そこに在るのは既に現実の空であり、大地であり、爆風になぎ倒された樹々である。その無残な姿を横目にしながら、如何にも憤懣(ふんまん)やるかたないといった感じに声を震わせマンフレートは非難糾弾する。
「見たまえよ君。これほどの樹々だ、さぞや幾百年、その長き時を生きてきたことであろうものを……それを何だね君は、無粋にして不躾なこと。結界を破壊するにしてもだ、もう少し優雅にやり給え、この失われた樹々が戻ることは二度とないのだよ」
「そいつは悪かったな。結界の精度に比べて強度が弱かったんでな破壊させてもらった。こっちとしても充分な時間があれば、解き解してもよかったんだが……状況を見る限りその判断はあながち間違ってもいなかったんじゃないかい?」
 いつにも増してにやけた顔で、意地の悪いことを言うノエル。マンフレートは凶相とも表現できそうな勢いで顔をしかめる。
「おっと、双方動くなよ。見りゃ判るとは思うが、銃が、それも複数お前さんたちを狙っている。あとは……言わなくても判るだろ?」
 沈黙。巨漢の発する歯軋りの音が高くその場に鳴り響く。諦めた訳ではなかろう、その灼熱する溶岩のように、獲物を見据える猛虎のように爛々と光る眼は力に満ちて、唇を未だ負けじと引き結んでいる。とは言え、周囲を取り巻く軍人に気を向ける余りにリーゼロッテへの感心は大分緩んでいた、随分と前から自身の脱出へと優先順位が書き換わっているのだろう。ノエルの方もまたマンフレートへと気をとられている。だが、もしも、もしもである。男たちがもう少しでも少女に注意を払ってさえいれば、いささかの遅滞もなく気付いたことであろうに。少女が口元に浮かべるその不敵な笑みに。
「ははは」
 ついには声に出して笑い出す始末だ。流石に怪訝そうな顔でリーゼロッテを眺める総勢十四対――もしも、ルーファンと呼ばれた女性が眺めているのであれば、十五対――の瞳。
「いいや、軍人。貴様の選択は大間違いだとも!」
「何だと?」
「ここは何処だ? おっと、結界だなどと愚かしいことは言ってくれるなよ」
 傍らにザミエルを侍らせながら、周囲の、もう半ば以上崩れかけている結界に透けて見える森を指しまわしながら言う。此処はドイツ地区、クロスタッヒェンの街郊外の森の中である。そう、律儀にも返してくるノエルに対してさらに続ける。
「そうだ、そしてシュナイダー社の膝元だな。軍や州警に対しては根回しは済んでいるんだろう、どうせ。だがシュナイダー社に対してはどうだ? 軍にとっての最有力取引相手の一つである、シュナイダー社の本社の傍でドンパチやらかしますので、許してください、などと馬鹿なことは言えたか?」
 図星を指されたのか沈黙するノエル。情報部の中でも規模の小さな彼ら第九課の権限・影響力では、シュナイダー社クラスの大手軍需企業には手出しできない。それにリーゼロッテが看破した理由だけではなく、彼らが少女を追っているのは彼女が持つ技術が一般に流布するのを阻止する為である。シュナイダー社規模の技術力と資金力とを共に備えた営利組織には最も知られてはならなかった。更に言えば、軍の高官や政府高官にさえも。
「だが、それがどうしたって言うんだ?」
 しかしながら、明白な証拠さえ与えなければどうという事は無いと、努めて平静を装った態度で言ってくる。確かに、彼らのとっては証拠の隠滅程度はお手の物だろう。そもそも今現在にして軍服ではなく何処かの一般企業の物らしい制服に偽装している。
「これは、以前に噂話程度に聞いたことなんだが、この街では警察よりもシュナイダー社の警備部の方が影響力も捜査力も持っているらしいな。法治主義の原則からするととんでもない話だが」
 確かにその通りではあるのだが、これはリーゼロッテの認識が甘いと言えた。いや、古いと言うべきだろうか。シュナイダー社とクロスタッヒェンの街はその典型とも言うべき企業城下町であるが、世の都市は多かれ少なかれそうである。彼女の暮らすパリやロンドン、東京に上海、カイロ、サンパウロといった真の意味での大都市をのぞけば、大きな都市ほど企業の影響力が強い。
 かつて近世以前の領主達は独自の警察権、裁判権を有していたものであるが、現代の大企業の力はどこかそれに似たようなところがあった。勿論、法治主義を原則とする新西暦の現代でのこと、法を(わたくし)するまでの力を備えている筈も無いが、そこに暮らす市民にとっては遠い公権力よりも、地域社会を代表する企業の方がより確かな存在感を備えていたのは事実であるし、法令よりも企業の意向が尊重されることも稀ではなかった。
 実を言うと、リーゼロッテがゲオルグを尋ねた理由にはこれもある。彼が北米に居た頃は論外にしても、もしも別の場所に居れば尋ねなかったかもしれない。追手にマンフレートの様な者が現れるのは流石に想像の外のことではあったが、ここを訪ねると決めた当初からシュナイダー社と連邦軍とを噛み合わせる事によって生じる、その均衡の中に自分を置こうと考えていた。いつまでも通用する手ではないが、当面は上手くいったようである。いや、油断はするまいここからだ。
「どうした、じきに現れるぞ、あの爆発から数分は経っている。早く去らないと鉢合わせるぞ。当然私は抵抗させて貰うし、この状況で銃声まで響いたらどんなことになるだろうな。それとも消音装置付きか?」
 横に控えるザミエルの梟頭とも相まって、凛々しい立ち姿はまるでミネルウァのよう。そうパラス・アテナは何者にも侵されないのだ、その身を守るアイギスとは何者にも屈さぬ強靭なる意志。怖れるな、震えるな私の身体、弱みを見せればつけ込まれるぞ。自分自身に暗示をかけるように、己は強いと、奴らは無力だと、懸命に言い聞かせ、抗う勇気を奮い立たせる。
 一対一(本当は二だが、リーゼロッテを戦力に数えるのが元より愚かというものである)、マンフレートのようなタイプであれば、その者が如何に強くともザミエルを信頼して全てを任せきることにより、あまり恐怖は感じないのだが、今のように己に突きつけられる複数の銃口などはたとえようも無く恐ろしかった。物量的に防ぎようが無いというのもあるが、黒光りする銃身の放つ無慈悲さと死の匂いとが恐ろしいのだ。だが、ここでその恐怖心を見抜かれてはお終いだと、怯えて縮こまりたがる心を叱咤して、内心では極めて恐ろしいのであるが、表向き威風堂々として己が勝利を告げる。
 そんな少女の姿に忌々しそうに、それでいてどこか眩しそうに目を細めると、
「……簡単に捕捉できた時点で胡散臭いとは思っちゃいたんだがな、碌でもねぇガキ。……ああくそ、あの野郎もいつの間にか消えてやがるし、胸糞悪い。一旦引くぞ、お前等!」
 マンフレートの姿が無い。あの大きな質量が今の今まで気付かれることなく煙のように消失してしまったらしい。それに舌打ちを一つくれて、「まったく、どいつもこいつも碌でもねぇ」もう一度そう忌々しげに吐き捨てながら、何とも嫌そうな顔をして、やれやれといった感じで左手に握った銃床で肩をぽんぽんと叩く。叩きながらおもむろにリーゼロッテに背を向けると、どうすればよいのだろうかと困惑を顔に貼り付けた(てい)の部下達に退却を命じた。
 しばらく、ぞろぞろと引き上げていく軍人たちの背を眼光鋭く眺めていたリーゼロッテであったが、それもやがて見えなくなった頃、へなへなとへたり込む。正直なところ、完全に分の悪い賭けであった、彼女はその場で射殺されていたとしてもおかしくはなかった。見逃されたのはただ自分の保有する技術を惜しむ心が彼らにあったせいだろう。
 今更ながらにより大きな恐怖が襲ってくる。薄っすらと目尻には激情の名残としての涙が浮かんでいるのが解った。その涙が頬を伝うと共に血の気も引いていく、酷い悪寒もする。がたがたと震える肩を力一杯に抱きしめながら、肩から腕にかけてをゆっくりと撫でさすり撫でさすり懸命に動揺を鎮める。
 その状態でもどこか冷静な部分が命じる。これは爆発による恐怖として誤魔化しに使えるな、と。そこでザミエルに命じる。ゲオルグの家を少しだけ破壊しておけと。可能な限り爆発によった破損に見えるように。
 脚の震えも収まってようやく立ち上がれるようになってきた頃。シュナイダー社警備部の人間がやって来るのが見えた。
……さて、どこまで自分が怪しい存在ではないということを説明できるか。
……ミレディ。怪しくないと言い張るのは流石に厚かましいかと。
 既にリーゼロッテの精神の(うち)へと戻ったザミエルが例によって一言指摘してくるが、今回は怒らない。自分でも怪しくないと言い張るのは厚かましいような気がしていたのである。
……なら、どこまで誤魔化せるかだ。やれやれ今からの話し合いが今日最大の難問になりそうだな、まったく軍人どもや追っ手を相手にしている方がどれぐらい気が楽か。
 この状況を細部には触れずに説明するのには随分と骨が折れそうだ
……御武運を。あいにくとわたくしはお手伝いは出来ませんが。
……ゲオルグにどれくらい早く接触できるかが鍵だな。ああ、それと伯爵か。
 溜息一つ。今まで忘れていたというのも、それくらいに考えたくなかったということであろう。先行きは極めて暗澹(あんたん)としているように思われた。


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