表玄関 |文庫入口

第弐話 

<< 前頁目次 |次頁 >>
2-1 【フラメルの娘‐ラ=アルシミスト】

新西暦186年 7月某日

MSC――イギリス地区スコットランドにオフィスを構える大手警備保障会社メイル・セキュリティー・コーポレーション。
 表向きは企業や施設の警備・管理、交通誘導、イベントの整理など業務とする警備会社となっているが、その実体が民間軍事会社――現代の傭兵団とでもいうべき存在であることは公然の秘密となっている。
 その社屋の内部に特定の用途に用意された区画が存在していた。
 これもまた表向きと裏向きとの役割を与えられた存在であり、MSC社員さえもその殆どがこの部署のことを広報課と認識している筈であるが、その実体はMSCと連邦軍との間で秘密裏に交わされた契約によって提供されている連邦軍の出先機関。
 民間企業に偽装された情報部管轄の一部局であった。
 それは何とも奇妙な組織であったと言えよう、本来存在する筈がない組織なのだと言っても過言ではない。
 旧西暦の国際法の後を受けて成立した連邦法の下では、傭兵は違法行為と明確に規定されている。
 厳密には民間軍事会社は傭兵ではないし、彼らの実質的な最大顧客が連邦軍であるのも周知の事実ではあったが、後方支援の非戦闘員を建前として、しばしばその実態を傭兵的な活動に求める彼らを、連邦政府が心よく思っていないのもまた事実。
 後方任務の委託程度であるならばまだしもここまでの癒着ときては、事が公になれば連邦軍もMSCも共にただでは済むまい。
 現在室内では広報課員。すなわち情報部のスタッフ十数名が各人のデスクに就いて、黙々と事務仕事を片付けている。
 偽装の所為もあるのであろうが、そこは有り体に言って、ごくごくありふれた事務室以外のなにものでもなかった。情報部と聞いて連想されるような秘密めかしたところもなければ、おどろおどろしさなど欠片ほども感じられない。
 彼らの用いるその椅子や机がありふれたスチール製であるというのも一層にその想いを強くして、益々一般企業のオフィスとそこに勤務するサラリーマンとを想わせていた。
 まあ、それも当然と言えば当然なのであるが、軍人と言えどもようは公務員である。おまけに彼ら情報部の通常業務の大半は、ネットワークや新聞、テレビなどに氾濫し垂れ流される情報を収集・分析し、その信憑性の度合いを判断するというデスクワークであり、小説や漫画、映画にドラマといったスパイ・フィクションに登場するような無敵のエージェントなどではあり得ない。
 極々一部の実行部隊を除いて、ろくに運動する機会など存在しないし、軍規によって義務付けられている定期的な訓練以外では銃を握ることも無い、といった者達も結構な数存在する。
 自然、一般の軍人とは纏う空気からして違ってくるものだ。
 そしてその部屋の少し奥まった場所に、周囲に比べれば多少とも立派な事務机が置かれていた。と言っても高が知れた物である。これだとてありふれた物で、所詮は他と比べていささか大きいといった感じの程度問題に過ぎない。
 過ぎないわけであるが、少なくとも机の主の地位を現す程度の役目は充分に果たしていたと言えよう。
 この机を基点にして、男が二人向かい合っている。机の主である中年男性と、彼に対面して立つ青年。ひょうひょうとした面持ちの青年は三十前後の黒髪の西洋人であり、そろそろ腹の出はじめたことに悩む五十がらみの東洋人。
 背後の窓に掛けられたブラインドの隙間から差込む輝く初夏の朝日。それを背に受ける形で椅子に腰掛けている中年男が、この部屋の責任者である、地球連邦軍情報部第九課課長のロベルト=(カオ)中佐である。
 このカオ課長という人間は、短く刈上げた胡麻塩頭にふくぶくしい顔をした、どこか年を喰って狡獪(こうかい)な狐狸じみた怪人物であった。そしてその彼が自分の机の前に立つ部下へと向けて、机の上に裏返しになって置かれた一枚の写真をついと差し出す様は、悪狐が幻戯(めくらまし)ででっち上げた贋金でも渡しているような眉唾物の光景であった。
……それにしてもこのおっさんが俺に任務を言い渡す時はいっつも朝だが、これはあれか、もしかして狙ってるのか?
 写真に左手を添えながら、青年は思う。背面から差し込む光が、常に貼り付けられた温厚そうな笑みにちじれた短髪、恰幅のよい体躯などとと相まって、あたかも後光(ハイロゥ)かなにかのようにも見える。
 カオ課長の正面に立っている部下の青年などは常々、東洋の仏教徒(ブッディスト)たちが崇める聖像のパチモンみたいな胡散臭いオッサンだよなぁと思っていた。何よりもあの笑みが作り物じみて嘘臭い。
 そんな部下の内心を知ってかしらずか、説明を続ける。
「……で、だ。スクルージ。今回のお前さんの任務はこの写真の人物の護衛。あるいは……まあ、拘束だな、ありていに言って」
 スクルージと呼ばれた青年は、その写真を胸の前あたりに持ち上げるとそこでひっくり返し、ちらりと目をやる。
 そこに写っているのは十五歳くらいの欧州系の少女であった。
 白磁の肌に肩にかかる淡い蜂蜜色の絹の髪。黛で画かれたようにくっきりと伸びる綺麗な三日月形のほっそりとした同色の眉、その下には翡翠の様に柔らかい碧の切れ長な瞳が静かに光を湛えている。綺麗な輪郭を描く小さな顔に配されるのは、愛らしいおとがいに形良くすらりと徹った鼻筋、厚すぎもせず薄すぎもしない絶妙な膨らみを備えた桜草の唇。
 人形の様なと言う形容があるが、彼女などは差し詰め旧西暦時代は十九世紀。その技巧が頂点に達したその時代。その中でも選りすぐりの工房の匠によって作られたアンティーク・ドールとでも言えようか。
 長じればスパルタのヘレネもかくやという、ろう長けた美女となるのを約束された完璧な美少女であった。
 ある一点を除いて……
「これはまた、何とも目付きが悪いと言うか何というか、目が完全に据わってるね。折角の美少女っぷりが台無しだ」
 つまりはそういうことだ。その瞳はただ美しいだけではなかった。尋常ならざる力が籠もっている。先ほど人形の様なという形容を入れたが、とても“お人形さん”などとは冗談でも言えそうにない。人によってはそこが意志の強さを表しているという感想を覚えるかもしれないが、青年は寧ろそこに少女の内面の苛烈さを感じ取っていた。
……気の強い女は嫌いじゃないが、おっかない女はどうにもな。
「それ以上に何ですかこれは、アングルからすると盗撮らしいのに、完全に撮影者の方を向いているし」
 撮影者の技量のお粗末さにか、少女のとんでもなさにか、どちらともつかないが、やれ呆れたと青年は続ける。ぷらぷらと写真を振りながら、右手で無精ひげの生える顎を撫でさする青年に、カオ課長は告げる。
「そうだ、それはパリにある彼女の自宅兼工房近辺で撮影された物なのだが、その直後、撮影者が一瞬目を逸らした隙に撒かれてしまった」
「はあ、それはそれは……このお嬢さんはどこかの工作員か何かですかい」
 気の無い返事。あろうことか頬から顎にかけてを痒いのか、右の人差し指で無遠慮にぼりぼり掻いていたりする。
「さて、訓練を受けたという記録はないが、彼女が何者かと言うと錬金術師だ」
「はい?」
 思わずその指もとまる。聞き間違えたのだろうか。新西暦の現代で耳にするとは思いもしなかった単語が飛び込んできたような気がしたが……
「錬金術師……ですか、今時。あー、それともなんだ、つまりそのあれです、それは投機屋かなにかってことですか」
 嫌な予感を覚えて、自分でも信じていないことに一縷の望みを託して聞き返す、しかしそれを押しつぶす無情な一言。
「字義通りにだ」
「……自分はあまり錬金術みたいな、ご都合主義の権化のような考えは嫌いなのですが」
「同感だな」
 熱心なオカルティストや真面目な研究者が聞けば怒り出しそうな、さもなくば苦笑するかしそうなことを言いあう。だが生憎とここにはそれを指摘する者は存在しなかったため、さしたる抵抗もなく、二人して合意を得る。
「しかし異星人だの地球空洞世界人だのが大手を振って出歩くこのご時世だ。錬金術師の一人や二人、可愛いものだとは思わないかね?」
 地球外知性の痕跡が認められたメテオ3が、南太平洋のマーケサズ諸島沖に落下したのはもう何年も前の話で、エアロゲイターと仮称された地球外知的生命の偵察機が飛来するようになって久しい。
 現在失踪中のマコト=アンザイ博士。その行方は(よう)として知れず、情報部でも掴めていない。その彼の率いたロスト・テクノロジー・リサーチ機構――LTR機構がかつて提唱した地球内空洞説。地球の内部、地下に世界が存在するという神話や伝説は、インドのアガルタ伝説など数多く存在する。それらの調査を通じて彼は地球内部の異世界の存在を確信したと言う。
 そしてそれを実証するかのような存在。未確認飛行物体“AGX‐005”と、極東支部所属元PTXチームのイルムガルド=カザハラ中尉とが遭遇した事実も最近のこと。
 この機体は、当初はエアロゲイターの機体だと考えられた為にAGXのコードネームを割り振られたものであるが、現在ではエアロゲイターの機体とは系統が異なる点と、他の幾つかの傍証により地底世界の機体であるという説が有力であり、カオ課長の地底空洞世界人云々というのも、それを踏まえた上での発言であった。
「かもしれませんね」
 いや、おっさん、そういう問題でもないだろう、とは思わなくもなかったのだが、ここで一々反論するのもまた、面倒なことになりそうなので取り敢えず何食わぬ顔をして同意しておく。
「それにもともとウチは異星人なりUMAなりに、魔術に妖術、超能力と……所謂オカルティズムを扱う部署だ、諦めろ」
 事実である。彼らは第九課はそういったゲテモノを扱う部署として認識されてきていた。
 もっとも、異星人にEОTの存在が確かなものとして認識されてからは、異星人関係はEОTI機関や特別審議会直下の情報機関、情報部でも花形の部署が主に担当することになっているので、現状の第九課は結構暇だったりもするのだが。
「はぁ、それでこのお嬢さんがガンマ線照射よりも効率的な黄金の精製法を発明でもしましたか。もしそうなら世界の金相場、ひいては世界経済を守る為にも速やかにその技術を封印して貰わなけりゃなりませんが。それか、いっそのこと、賢者の石でレアメタルでも精製してもらいますか?」
 と、冗談めかした発言だったのだが……
「それならばまだしも良かったのだがね」
 ことは更に深刻であるらしい。
「中世フランスの彼の大哲学者、ニコラ・フラメルの“命の水”。その復元に成功したらしい、そしてそれが情報どおりの代物だとすれば……端的に言う。擬制的な永久機関だ」
 永久機関と来た。ますますもって胡散臭く、流石においそれとは信じられない。
「……それは……マジ話ですか」
「もっとも本当の意味での第一種永久機関ではないらしいがな」
 それ以前に実は“機関”ではないのだが、便宜上“機関”と呼称することにしてあった。
「エネルギーを取り出すには特殊な機材が必要らしいが、推定で五万年程度の期間、一定量のエネルギーが恒常的に取り出せるらしい」
 精製に必要とされるエネルギー、資材、資金を軽く凌ぐということだ。
「それで理論上、充分な量さえ存在すれば半永久的に地球圏全体の電力その他のエネルギーを賄うことも可能だそうだ。もっとも、前提として量産できればの話であるし、現状で精製済みの量、ボトル一瓶程度では中規模の地方都市をどうにか、らしいが」
 それでも充分に大したものだといえる。
「そいつは……石炭、石油に天然ガス、面倒の多いメタンに水素、ウランもプルトニウムも、全部纏めて不要になりますな……」
 現代では世界の軍事・経済・政治は全てエネルギー資源に依存し、それらに連動して成立している。そこに一夜にしてそれらを無意味に無価値に変えかねない永久機関などというものの登場は、現代においては最早単純に歓迎されるものではない。
 かつての人類の夢は、今となってはもはや夢は夢でも悪夢とでもいうべき代物であった。
 世界経済は破綻し、世界規模での盛大な混乱に紛争が頻発することになるだろう。
 ダブル=インパクト。旧西暦の終わりに相次いで落下して、それぞれニューヨークとモスクワを一度灰燼に帰さしめた、メテオ1とメテオ2による大災厄、人類の進歩を一時的に停止させたそれをも凌ぐ壊滅的な災厄が出来するかもしれなかった。
 無論、言うほどのことは何も起こらない可能性も十二分にあったが。
 だからと言って、「大丈夫だろう」、と太平楽に構えているわけにはいかない。
「楽観は悪。最悪に臨んで行動し、たとえ最善はならずとも、せめて次善を導くが、我ら情報部の使命、ですか」
 そう呟くと青年はそれまで緩んでいた表情をきりりと引き締めると、踵を合せ姿勢を正して上司へと敬礼を行った。それは彼が情報部に配属されたばかりの頃に叩き込まれた情報部員としての心得であった。
「任務了解。不肖ながら自分、ジェイムス・ノエル=スクルージ情報部中尉、誠心をもって務めさせていただきます」
 しかしそんな緊張した雰囲気は長くは持たないのか直ぐに、まるで先刻のは幻ででもあったのかというふうに、再び姿勢はだらけ、がらりと表情も緩められる。
「と、そういやぁ、聞くのを忘れていましたが。それで今更なんですがこのお嬢さんの名前はなんていうんですかね」
「ん、ああ。エリーザベト・シャルロッテ=フラメル嬢。詳細はこちらの報告書を読んでくれ」
 机に置かれている書類を指しながら少女の名前を告げる。名前からすると恐らくはドイツ系だろうと思われたが、それ以上に、
「……フラメルってそれこそマジもんですか」
 ニコラ=フラメルの命の水に、錬金術師のフラメルとくれば、これで両者無関係だというのも不自然な話だ。
「さぁてな。本人は、正しくは彼女の曽祖父の代からパリに居住して、近所の住人や同業者へもフラメルの末裔を名乗っているらしいが。ともあれ、そんなことは今更の話で、果たしてそれが事実であれ騙りであれ、どうでもいいんじゃないかね」
 そこで一旦口を閉ざすと、笑いながらこう続けた。
「命の水の、賢者の石の復元に成功したというんだから……まさしく……」
 そこで、更にもったいぶるように間をおいて、ますます笑みを深めながら、室内の他のスタッフが振り返るような大仰な姿勢と声で叫んだ。


 同刻。ドイツ地区中西部ノルトライン=ヴェストファーレン州
 極東などではヴェストファーレン(ウエストファリア)条約の名と、工業地帯として知られたルール工業地帯を擁することで有名な同州は、旧西暦は十九世紀ドイツ帝国の昔から欧州有数の、ひいては世界有数の重工業地帯として製造業の世界に確固たる地位を占めて続けてきた。そしてそれは宇宙開発・月面開発が進み、小惑星資源に無重力化での精密加工を武器とする月面都市やコロニー群の成長してきた現代でも、多少の翳りこそあれども未だに崩れてはいなかった。
 その州都デュッセルドルフに程近い地方都市クロスタッヒェン。
 この街はいわゆる企業城下町である。かつての都市が領主の館や教会堂を中心に成立していたようにこの街は大規模な社屋と複数の研究施設に工場を中心にして発展してきた。
 その中心となる企業シュナイダー社の創立は旧西暦時代、後のダブルインパクトによる北米を中心とした混乱と復興を契機として躍進した老舗の重機・軍需メーカーである。加えて近年は映画、出版、テーマパークなどのアミューズメント業種や服飾、運輸、食品会社などを買収するなどしてコングロマリット化を推し進めていることでも知られている。
 一般に言われているところでは、その直接の契機は数年前の人型機動兵器のトライアルにあり、マオ社のPTに破れ、その他の分野でもイスルギ重工などの同業他社に破れたことにより、将来的に大量のライセンス料を支払う必要が生じた為、その損失補填策も兼ねて脱製造業依存の組織改革を断行しているのだと噂されていた。そしてそれは一面において事実であった。

 そんなクロスタッヒェンの郊外。
 今も昔もドイツというのは森の国、各地に未だ手付かずの森が色濃く残っている。そんな半ば未開拓の黒々とした木々の内に真白い月光に照らされた一軒の木造家屋が建っていた。夜も更けてとうに二時を過ぎているというのに未だ煌々と明かりがついている。現代ではさして珍しい事態ではないが、鬱蒼として仄暗い森という周囲の幻想的な光景とはいささか不釣合いではある。
「ああ、まったく。どうしてこうも上手くいかないものかな!」
 家の中、壮年の男性が一人、何か気に入らないことでもあるのか、ワークステーションのディスプレイを睨みつけ、軽く悪態をつきながら作業に没頭している。
 その部屋は、当たり前といえば当たり前かもしれないが、一見して外から眺めた際に木こりかなにかの家のような印象を与える外観に反して随分と現代的な装いであり、その随所に散見される設備に至ってはどこぞの企業か官庁の研究施設もかくやという近代的な、先端最新の設備が整っている。
 それも道理で、この家の主はシュナイダー社の開発部開発三課の主幹技師であり、シュナイダー社から提供されているこの家は彼の研究室も兼ねていた。
 男の名前はゲオルグ=シュミットと言った。ビアン=ゾルダークやジョナサン=カザハラの様な傑出した天才でこそないが、既存の技術を堅実かつ包括的に発展させる事で著名な特機を専攻する気鋭のロボット工学者である。
 彼はテスラ研より半年程前に、個人の裁量で研究を行えて、それに必要とされるスタッフや設備を可能な限り融通するという破格の条件でヘッドハントされてきたのだった。付け加えるに、彼のほかにも同様の条件で引き抜かれてきた研究者が数名存在する。それは他社に遅れをとった人型機動兵器に関する基礎技術の蓄積と開発の為である。
 そしてゲオルグは現在一つの特機を開発中であった。
 グルンガストでもダブルGでもない彼独自の思想によって設計される機体、軍の都合という掣肘もATXやSRXという各種プロジェクトの理念という制限も無い自由な環境で、潤沢な予算に優秀なスタッフが用意されている。
 カザハラ博士やロバートたちテスラ研の研究者たちのことは尊敬し好意を懐いていたが、反面その才能に嫉妬しなかったと言えば嘘になる。自分では彼らの助手や共同研究者にはなれるだろうが一人で設計から担当することは出来なかっただろう。
 プロジェクトTDの実現の為にEOTI機関のビアン博士の下へと走ったかつての同僚、フィリオ=プレスティの気持ちが今なら自分にも少し解る気がした。
 そして、この環境とコンディションで開発の意気が上がらぬ筈も無く、彼一流のコンセプトの下、急ピッチで開発は進められてきた。八割がた完成したと言えるところまでは順調に進んだ。しかしながら、ここに来て、思いがけず開発は難航し、頭を抱えるゲオルグの姿が日増しに多く見られるようになっていた。
 フレームに武装、テスラドライブなどの“箱”はほぼ完成していたし、OSもアルファ版とは言え半ば以上構築済みである。にもかかわらず機関部がほぼ手付かずの状態で残っていた。
 機体のデザインに関しては専門であってもエンジン周りに関しては門外漢の彼はグルンガストシリーズなどにも使用されているエンジンに大型ジェネレーターと、そのままで流用したのであるが、フレームとの相性が悪いのか、はたまた武装との相性が悪いのか出力がどうしても不足するのである。
 ただ機体を動かすだけならば充分に足りるのだが、エネルギー射出系の武装を完全な状態で使用するには足らなかった。より高出力のジェネレータ、零式に用いられていたような宇宙巡洋艦級のそれを用いようにも、今度はフレームサイズが邪魔をする。
 いっそ目標とする出力を下げようか、はたまたフレームの設計から再度やりなおそうかなどとも考えた。しかしながら、ここで安易に妥協してしまっては、折角これほどに恵まれた環境を与えられた甲斐が無く、それのみならずシュナイダー社の求めるレベルを大きく割り込むこととなる。そうなれば、今後の契約のあり方にも多大な悪影響を及ぼすことが容易に想像された。
 それで彼は今宵も頭を悩ませている。エンジンはEOT未使用の既存の技術上では最高水準の物であるし、ジェネレータの効率もこの規模の物としては最高水準の物を使用している。こうなっては少しでもジェネレーターの発電効率を上げるしかなく、プロジェクト外部からジェネレータの専門家の助言を求めたり、関連した論文を手当たり次第に読んでみたりしていた。
 ふと、彼がディスプレイに向かって、出力系のパラメータを色々と変更するなどして機体バランスの調整作業を行っていると、「コン、コン」と誰かが家の外で扉のノッカーを叩く音が響く。今晩の来客の予定はない。それ以前にこのような真夜中に人が訪ねてくるということ事態が、明らかな異常事態の一つとも言えたのだが、
「誰かね。ガブリエラかね、それともゴヤスレイかい。こんな時間にどうしたのかね、せめて連絡を……」
 気楽にスタッフの名前を口にしながら無用心にも扉を開ける。するとそこには、部下の誰でもない見慣れぬ少女が一人、眼光も鋭く立っていた。彼にそんなことが判ろう筈も無かったが、それはまさしく写真の少女であった。
 写真ではその鋭すぎる眼光も作用してか、身長にまでは眼が回らなかったのであるが、意外にもと言うべきか、実物のリーゼロッテという少女は、一般的なこの年頃の少女としても随分と小柄である。150cmに僅かに足らないと言ったところか。
「……? あー、君はぁ、誰だったかな」
 戸惑ったように誰何(すいか)する。本当に見覚えが無かった。だが逆にどこかで見たような気もしていた。それも本人を、ではなく似た雰囲気、容貌を持った人物を、だ。
「お忘れだろうかゲオルグ。七年前に一度父の工房でお会いしたのだが」
「工房? ……いや、待ちたまえ! その顔、フランス訛りのドイツ語、もしや君はリーゼロッテ。リヒャルト=フラメルの娘のエリーザベト・シャルロッテ=フラメルかね」
 纏う雰囲気は父親に、そのアンティーク・ドールの様に見目麗しい容姿は母親に瓜二つであった。
「はい」
「やはり! 大きくなったね、いやそれとも美しくなったと言うべきか。お父上が亡くなった事はお聞きした。……しかしこのような夜更けに突然どうしたのかね?」
 そんな感じに、如何にかつての親友の愛娘とは言え、常識的に考えれば少女は今もって不審人物である。それを如何にも呑気に話をしている時点でもう、お人よしに過ぎるのではあるが、流石にそこは気にはなった。ただそれは、不審がどうこうと言うよりも真夜中にこの年頃の少女の一人歩きは危険だろうにと言うものであったが。
「……語るべきか、それ以前に訪ねるべきかを私も少しならずに悩んだのだが。……少し、貴方にご迷惑を掛けに来た……先に謝っておく、許してもらいたいとは言わないが、貴方の生活にゴタゴタを持ち込むことだろう、申し訳ない。……ただ、父と親交のあった人物と言うと貴方しか思い浮かばなかった」
 あまりこの年代の少女に似つかわしいとは思われない、語尾をはっきりと発声する無骨な口調である。文字に喩えれば金釘流かサンセリフ(ゴシック)体か。その調子で申し訳無さそうに、悲痛な風を帯びながら、だがどこまでも淡々と語る。
「何について言っているのかは判らないが、深刻な話かね」
「……多少とも」
「判った。とりあえず中に入りなさい。初夏とはいえ夜中はまだ冷える」
「感謝する」
 ゲオルグが少女に自分の家の中へと入るように促して、少女もまた謝意を告げながら入っていく。


 ゲオルグはリビングのソファに腰掛けると、温めた赤ワインで満たされたカップを、対座する少女に手渡した。
「安物で悪いが暖まるよ。ところで君は今年で十六だったかな」
 ドイツ地区やフランス地区では共にワインの法定飲酒年齢は十六歳だ。
「いいや、十五歳だ。だから本当ならばこのヴァン・ショーもいただくわけにはいかないのだが。……美味しい」
 ヴァン・ショーとは温めたワインに蜂蜜やシナモンを入れた飲み物。ようはホットワインのフランス語系である。それを既に飲みながら、そんなことをしゃあしゃあとのたまうのだから、なかなかに良い根性をしている。
「ああ、まあいいだろう。一歳かそこらは大したことじゃあるまいさ」
 自分の分として冷蔵庫から取り出した缶ビールのプルタブを開けながら言う。
 その後、ぽつりぽつりと少女の父親であるリヒャルトの、故人のことで話し合う二人であったが、ころあいを見てゲオルグが本題を切り出した。
「……それでもう一度聞くが突然どうしたのかね」
「その前に念のために聞いておきたいのだが、ゲオルグ。貴方は私の一族が、父が研究していたことをご存知だろうか」
 慎重を期したかった。工房に遊びに来るほど父と親しかった彼ならば知っている筈だとは思うのだが、これで彼がまるで知らないようならば、そのまま去る気だった。
「……錬金術。特にフラメルの錬金術を研究していると聞いていたが」
 僅かに躊躇いがちに答える。己の記憶に自信が持てなかったというよりも、大真面目に錬金術を語るのが少し恥ずかしかったのかもしれない。ともあれやはり知っていたらしいと、リーゼロッテは安堵する。
「そうだ。これを見てもらいたい」
 そう言うと、抱えていた袋の中から保存容器を、更にそこから緩衝材に包まれた硝子製のボトル、ありていに言ってワインボトルを取り出すとテーブルの上に置いた。その容器は、それ自体が輝くように鮮やかな、真紅の濁りひとつないほどに澄んだ液体で充たされていた。
「ロゼ? ……いや、そんなわけはないな何かの薬品かね」
 容器に使われている物や、少女の手許の赤ワインのせいもあって、一瞬もしかしてロゼワインかとも思ったのだが、よもやそれはあるまいと思いなおす。
「ええ。“命の水”、紅き物質、完全なる触媒、賢者の石を以ってのみ精製される……万物に生命力を賦活する万能の霊水だ」
 淡々と、しかし明らかにそれと判るような自負をにじませる。
「……それは、おめでとうと言うべきなのだろうか」
 流石に驚く。彼も欧州系の知識人(インテリゲンチュア)の常として隠秘学(オカルティズム)の触りくらいは知っている。それによれば“賢者の石”も“命の水”もどちらも錬金術師が生涯を掛けて追い求めると言う秘法中の秘法であった記憶している。
 それをこの目の前いる年端も行かない少女が完成させたと言うのだろうか。
「ありがとう。貴方にそう言ってもらえれば父も喜んだだろう」
 実際に完成させたのはリーゼロッテであるが、理論を構築してきたのは彼女の父親を含むフラメル家代々の錬金術師たちである。幾百年に及んだ偉大なる作業の完遂である、その感慨もひとしおである。我知らず瞳を閉じ、かつてへと思いを馳せる。
「ああ。それで迷惑というのは?」
「……私は追われている。複数の勢力に、この“命の水”を持つが故にだ」
 理不尽ではあるが、軽く陶酔に浸っていたところを邪魔されて、いささかムッとする。
「……なに、あ、いや確かに伝説のとおりであれば何をしてでも手に入れたいと思う者は後を絶たないかもしれないね」
 “命の水”、それは永遠の生命を人にもたらすとされる。そしてまた、同じく伝説が語るところではニコラ・フラメルとその夫人ペルネルの遺体は棺より消えていたと言い、それは彼らがその後数百年の時を行き続けているからだと続く。
「いいや、これにそんな力は無い」
 しかし、そんな伝承をリーゼロッテは否定する。
「どういうことかね。私も無論永遠の生命など信じてはいないが、そういうことならば追っ手にその旨の説明をすればそれで……」
「人は自分の信じたいことを信じるよ、ゲオルグ」
 要は説明しても無駄だと言いたいのだろう。
「それに、彼らが私を追っているのは永遠の命などと言う、まだしも夢のある……夢と言うより妄執かもしれないが、おとぎ話ではないよ。それは恒常的かつ莫大なエネルギーであり、それの生み出す富。あるいは“水”の生み出す災厄の可能性を摘む為にだ」
「エネルギーに富に災厄、かね?」
 そこでリーゼロッテは改めて“命の水”が出力が入力を上回るという奇怪な性質を有していること、保存容器と入出力装置の整備をさえ行えば実質的な半永久機関と成り得ることを説明する。
「一度、起爆剤としてある特定波長の電流を“子宮”内の“水”に与えると化学変化が始まる。そして後はその際に発生する熱量自体を用いて連鎖的爆発的に変化が進行し続ける。……実を言うとこれこそがホーエンハイムの言う“第一質料”(イリアステル)への変成過程であり、取り出せる電気エネルギーなどというのは単なる副次的な産物に過ぎないわけだが、今を生きる者にとっては推定で五万年は掛かる結果などよりも取り出せるエネルギーの方が魅力的なのだろうな、やはり」
「信じ難いが……それはつまり、逆に言うと、これが、街ひとつの電力を五万年間賄えるというのだね。そして、それを奪う為に君を追っている集団が存在すると」
 一瞬、これを用いれば特機のエネルギー問題は解決するのではないかと考えて、慌ててそれを頭から追いやる。
……いや、流石にそれではあまりにも外道な行いというものだ。そんなことをすれば匿うのを盾に要求しているようなもので、彼女を追っているという者達となんら変わらないじゃないか。
「リーゼロッテ。警察……では頼りないか、連邦軍なり連邦政府なりに保護を求めてみてはどうだろうか」
 そう提案してみる。しかし、彼女はかぶりを振る。
「心配してくれてありがとう。しかしながらそうはいかないのだ、残念なことに。私を追っている集団の中には確かにその連邦軍の一部が存在する」
「……そうかね、私としては君を匿うのはやぶさかではないが、長くはもたないぞ」
 彼女の置かれた状況はますますもって最悪に近いものであるように思われた。
「解っている。暫らくでいい、とるものもとりあえず大慌てて逃げ出してきたのでな、一息つきたかったのだ。恥ずかしい話だが私にも父にもろくに友人と呼べる存在がいなくてな、死ぬ前に父もなにかあれば貴方を頼れと言っていた。それを思い出した」
「ああっ。確かに、リヒャルトの奴は偏く……コホン、いや……」
 さもありなん、と頷きかけて、慌てて言葉をさがす男の姿に、笑みを含む眼差しで眺めながら。
「いいさ、ゲオルグ。確かにあの男は結構な偏屈親父だった、残念ながらそれは私にも色濃く受け継がれているのだが、ね」
「そうかい」
 冗談めかして答えたリーゼロッテの物言いに思わず苦笑し、やがてうっすらと顔をまぶしそうに歪める。この辺はリヒャルトにはなかったところだ、年頃の娘らしいお茶目さか、……それともオルガに似たのかな。それから一転して深刻な顔で、
「しかし、暫らくということはやがては一人で出て行くと言うんだね」
「ああ。迷惑を掛けると解った上で、既に貴方を巻き込んだ身でこのようなことを言うのも自分勝手な話だが、これ以上迷惑を掛けるわけにもいかないのでな」
 そう、リーゼロッテが告げると、語気も強く、主張する。
「なにを言うんだ! 君のような年端もいかない少女を、それも危険が待っていると判っていれば放り出すわけにはいかないに決まっているだろう。それに、君のお父さん、リヒャルトは私を頼るように言い残したのだろう。それを見捨てたとあっては奴に顔向けできない。どうか、私を卑怯者にしないでおくれ」
 何故だろうか、そのゲオルグの言葉を聞いて、益々辛そうに少女はその顔を歪める。
「……済まない、本当に済まない、ゲオルグ……。貴方ならそう言ってくれるだろうと私は判っていたんだ、それなのに来てしまった。……私は貴方の厚意に、父との友情につけ込もうとしている。私のほうこそ、見下げ果てた! 臆病な! 卑怯者だ!!」
 そう叫ぶと、感極まったように泣きじゃくり始める。早くに親を亡くして生きてきた為に、歳に比べて理性的で優れた知性と能力を持った少女であるが、やはり未だ十五歳である。無理をしている部分があったのだ。
 そんな泣きじゃくる少女を優しく抱きしめながら、男は囁く。
「いいんだ。リーゼロッテ、君は卑怯なことなんて何にもしていないさ。子供は大人を頼ってもいいんだよ、きっとそれをリヒャルトもオルガ……君のお母さんも望んでいるさ。それに……」
 そう言いながら、少し躊躇いがちに冗談めかして続ける。
「それにだ、実は私にだって何の利益もないわけじゃない、“命の水”には一研究者として興味がある。そら、お相子だ。……だからね、いつまでも居てくれてもいいんだよ。なに、心配は無用、これで結構高給取りだ、それに私には妻も子供もいないからね。一人や二人養う分には問題ないんだよ」
 その言葉が本心からのものでは無いと判っている。だが、その心遣いが節くれ立った心に優しい。それで、少女は少しだけ微笑むと、小さな声で、しかしはっきりと呟いた。「ありがとう」と。


 しばらくして、多少とも落ち着いた少女が口を開く。
「改めてありがとう、しかしやはりあまり長くは居られないよ。私は逃亡者だ、逃亡者があまり長い期間、一つところに留まるわけにはいかない。それが一族を除いては父とほぼ唯一親交のあった人物の許などでは尚更に」
「むう、上手くいかないものだな。私も付き添ってあげたいが、責任ある社会人としては契約と職場を放り出すわけにもいかない」
 彼にとっても今はまさに正念場であったし、スタッフの皆も大切である。
「いいや、その気持ちだけでとても助けられた」
「君がここに留まっている間だけでもせめて寛げるように、私に出来ることならばなんでもしよう」
 暫らく考え込んでいたリーゼロッテであったが、ここは甘えることにしたらしい。
「……それならば、早速で悪いが此処に入っている設計図通りの装置を造って貰えないだろうか」
 僅かな手荷物の詰め込まれたちっぽけな旅行鞄。それぐらいしか持ち出せなかったのだ。その内から右手の親指と人差し指の間に挟んだスティック状の記憶装置をゲオルグへと手渡す。あたかも注意を喚起するようにゆらゆらと振りながら。
「なんだいそれは」
「入出力装置」
 それを右手で受け取りながらたずねるゲオルグに簡潔に答えるリーゼロッテ。
「……入…出力そぅ……! いいのかね。秘密を知る者は少しでも少ないほうが……」
 何のことやらと、戸惑う、一瞬の疑問の後にハッとする。これはその“命の水”からエネルギーを取り出す為のものなのだ。
「構わない。別に私も父も、知識や技術を後生大事に秘法だとして抱え込みたいわけではないし、公共の為に利用されるのにもやぶさかではない。これは単純に一族の誇りの問題だ、一部の人間の利権の為に利用されたり、社会を滅ぼす片棒を担いだりするのが我慢出来ない。……かといって、危険だからと言って封印する気にもなれない」
 別に名声が欲しいとは言わないが、数百年を自分達はそれに費やしたのだ。
「……だが、これはただの我侭だ」
「わかった。最優先で造らせよう」
 製作を請負うと、労わりの言葉をかける。
「……それが危険だと解っていても作り出してしまうのは研究者の宿痾(しゅくあ)というものだろう、それを残したい、公表したいと考えるのも。身贔屓の安易な自己肯定かもしれないが、それを解っているのならば君が気にすることではないよ」
 彼女達フラメル家の数百年という重みを完全に理解できるなどと自惚れる気は無いが、やはり彼自身研究者である。少しはその気持ちがゲオルグにも解る様な気がした。
「そうだろうか」
「そうだよ。それに君のそれは、アルベルト=アインシュタインの研究とマンハッタン計画とを直接結びつけるようなものじゃないかね? それはその延長線上に確かに災厄の種を孕んでいるのかもしれないが、何も君がもたらすわけではなし」
「だが、彼は生涯それを悔い続けた、ロバート=オッペンハイマーもだ。……不毛な議論だな、止めよう」
 相対性理論に原子爆弾。どちらも今から数百年も前に亡くなった偉大な研究者である。今を生きる自分達に彼らが何を思っていたかなど判ろうはずもない。
「そうだね、今は休むべき時であって、議論するべき時ではない。だからもう眠りなさい、といってももう朝なわけだが」
 壁に掛けられたアンティーク調の機械式掛時計とその傍の両開きの窓から見える早朝の白けた空を眺めながら、苦笑を湛えるその口で言う。
「それとも食事にするかね? そろそろ部下がやってくる頃合なんでミーティングの前に食べておきたいんだが」
 そう言う男に対して少女は呆れた様に答えた。
「……いいか、ゲオルグ。就寝直前の飲食は肥満の素なのだぞ。女性に勧めるものじゃあない。常識だろう」
 つまりは食べないということだ。
「君くらいの年頃ならあまり影響はないと思うんだがなぁ……はふぅ」
 ソファから立ち上がると、伸びをすると共に軽く欠伸をして台所へと歩き出す。そこで冷蔵庫から牛乳とヨーグルトにハムを、戸棚から蜂蜜とチーズ、黒パンを取り出し、それらを持ってソファへと戻ってくる。
「本当にいらないのかい?」
「しつこい」
 ナイフで裂いたパンにハムを挟みながら、未練がましくたずねるゲオルグに、リーゼロッテはにべもなく拒絶すると「本来ならば、最低でも一時には眠りたかったのだが」とぶつぶつと呟く。
 新陳代謝が活発化に行われるのは午後十時から午前二時ごろと考えられている。
……だがそれも逃亡者としては望むべくも無いことか、嘆かわしい。
 いかんな、と頭を振ってそんな浮かんできた後ろ向きな思いを追い払う。
「ではな、ありがたく休ませてもらう」
「お休み。ああそうだ、私は午後二時から六時くらいまで本社の方に行っている筈だから、もし私が居なくても冷蔵庫とか戸棚に入っているものは好きに食べておいてくれて構わないよ」
「解った」


 ゲオルグが食後の珈琲を飲んでいると。此処暫らくは連日開催されている例会へと参加する部下たちが訪れる。食事の開始からおおよそで三十分ぐらいが経過していた。
「いい朝だ、ボス。もっともアナタは例によって徹夜明けらしいからな、もしかすると悪い朝なのかもしれないが」
「おはようございます、主任」
 一人はネイティブアメリカンの青年でジョージ・ゴヤスレイ=リンドバーグ、もう一人はヒスパニック系の女性でガブリエラ=ペレイラという。どちらも優秀な技術者であり、人間としても好感がもてるということがこの半年の付き合いで判っていた。それでゲオルグも彼らを信頼している。
「おはよう、二人とも。いやいや、そんなことはないさゴヤスレイ。私にとっても今日という日はとても良い朝だとも、いろいろとね」
「はい、何ですって」
「いや、なんでもない。こちらの話だよ」
 そう言葉を濁すと、話題を変える。
「それより二人もミーティングの前に珈琲はいかがかね、残念なことにインスタントしかないが」
 ゲオルグは珈琲に限らず振舞いたがりであった。それを部下達も弁えていて、ありがたく「いただきます」となる。逆に断ると人の良いこの男は少し落ち込むのだ。それと、結構しつこいので、折々に「どうだい、どうだい」と聞いてくる。さっさと頂いておくのが上策であると、ガブリエラたちもこの半年で学習していた。
「なーに、俺の貧乏舌にはモカもブルーマウンテンも獣の糞だって、インスタントと変わりませんよ」
 実際に珈琲豆を食べた動物の糞から採取する珈琲が存在するにはする。だが、
「かなり、違うんだがなぁ」
 そんな部下のセリフに思わず呟きながら、ゲオルグは手ずから淹れた珈琲を二人の為にと用意したカップへと注ぐ。彼らに珈琲を振舞い終えると、自身もまたテーブルの椅子に腰掛けた。そしておもむろに語り始める。
「ミーティングを始める前に言って置きたいことがあるんだ」
「なんです?」
「知人にとある機材の製作に関して相談をされてね、それでそれなら私の部下に製作を行わせよう、という話になってね。私としては少々行き詰っている現状では良い気分転換になるのじゃないだろうかと思ったんだが構わないかね?」
 詳細に関しては誤魔化しておくことにした。
「それは構いませんが、機材ですか? その分野によるとは思いますが」
「ああ、化学の実験装置だそうだよ」
 リーゼロッテより託された小型記録媒体をテーブルの上に置かれたモバイルに差込んで、設計図のファイルを開く。仕事場にも持っていくつもりなのでワークステーションを用いる事はしない。仕事ではなく、私的なこととの思いもあったかもしれない。
 そうしてディスプレイに表示された図面を興味深そうに眺めながら、
「中央の硝子容器には何か液体を入れるのかね」
「変圧器らしき部品も合わせて考えると、電流を加えて、反応を起こさせるのかしら……それにしては入力部よりも出力部の方が重要そうなのが謎だけれど」
 その装置の意図するものを掴みかねて、ガブリエラやゴヤスレイは意見を述べる。
「本当に何なんです、コイツは。“子宮”なんて意味深な名前が付けられてますが……化学ってよりも錬金術とかニューエイジとかいったオカルト染みた臭いがプンプンとしてきやがるんですが」
 粗雑な口調に反して意外と鋭い、教養もあるのだろう。
「ただの比喩じゃないのかねぇ」
「「主任/ボス」」
 とぼけようとするゲオルグに半眼で詰め寄る部下二人。
「ああ…もう。そうだよ、そう、錬金術だよ錬金術! 怪しいかい、止めておくかい」
「別にやらないとは言っていません」
「……へっ、いいのかい?」
 思わずおかしな声が出る。
「今時、錬金術だーなんてもんを研究しようと、それも最新技術をぶちこんでやろうとしてる奴がいるなんざ面白い話じゃないですか」
 本当に愉快そうに笑う。嘲笑といった風ではない。
「主任はもう、製作すると確約なさったのでしょう。それならば、ここで我々が造らなければ、シュナイダー社が一度引き受けた依頼をキャンセルしたなどという不名誉な噂が立ちかねません。そんなことになってはシュナイダー社全体の損失ですので」
 理由はそれぞれにつけているが、実際のところなんやかんやで二人とも人が良いのだろう。
 その後、小一時間ほどジェネレータの問題点について話し合う。それが終って、部下二人は先にそれぞれの受け持ちへと移動することになった。そして、玄関口に立ちながら、
「それで、ボス。昨夜はお楽しみでしたか、なにやら嗅ぎ慣れない女物の香水の匂いがしますが」
 などと、にやにやと、品の無い笑みを浮かべながらさも今気づいたかのように下世話なことをことを聞くゴヤスレイ。そしてそれを軽く叩きながら、ガブリエラも一言。
「下品よ。さておき、こういう華やかなのは若いお嬢さんが好むものですね。……未成年者への淫行は犯罪でしてよ、主任」
 くらり、と寝不足も相まってか本当に目の前が真っ白になったような気がして、頭を押さえながらゲオルグは叫ぶ。
「君達! 少しは上司の人格を信用したまえ!」
 もとより双方どちらも冗談事である。なごやかに笑い合いながら去っていく部下二人を、これまた口元を笑いの形に歪めながら見送るシュナイダー社の開発主任。もっとも、あいにくとこちらは、どうにも洒落っ気の強い奴らにもどうしたもんかねぇという、決して迷惑ではないのだが困ったようなくすぐったいようななんとも微妙な苦味を伴ったものではあったのだが。


 その頃、今まさにカオ課長の叫びが情報九課事務室に響こうとしていた。
「命の水の、賢者の石の復元に成功したというんだから……まさしく……まさしく彼女こそが……」
「『フラメルの娘』というものじゃないかね!」
 そうしてこう続けた。
「ジェイムズ・ノエル=スクルージ中尉。現時刻より、マドモワゼル・フラメルのエスコートを命じる」
 その顔は笑みの形に固定されている。だが、よくよく見れば気付くだろう。その眼光は一片たりとも笑みの成分を含んでいないことに。
「……なお、状況の推移如何によっては……殺害をも許可する」
 淡々と述べる。それを受けて、ノエルは再び顔を引き締めると今一度敬礼をして、踵を返して室外へと出て行った。
 後にはただただ、スタッフたちの弾くキーボートの音と、用紙を吐き出し続けるプリンターの音が響くばかりであった。


<< 前頁目次 |次頁 >>