【 ピノキオなきぶん。 】
「無茶な事をする。……しかし、ヨナ?」
まさか《WUEM》の体内に進んで飛び込むなどとという非常識の極みというべき行動に及ぶなどとは考えもしていなかった。意想外の行動に、流石の鉄面皮も崩れる。スーラは半ば呆れ、半ば驚愕の表情を作った。そして同時に首を傾げた。
はて、ヨナとはなんだったか。
確かにどこかで聞いた覚えがするのだが、それがいつ、どこであったのかを忘れてしまった。すぐそこまで出掛かっているのだが、それが思い出せない。そんなに重要なことでもなかったはずだという気はするので、別に無理に思いだす必要もないのだが、思い出せないという事実が無性に苛立たしい。喉に刺さった小骨や靴に隔てられた足の痒みの様なものだ。
「むう」
記憶力を含む知性全般に自信があるからこそ、いったん引っ掛かりを覚えた時の不快感は絶大なものがある。
「ヨナは、旧約聖書の一篇『ヨナ書』の主人公ですよ、確か。怪魚に飲み込まれるんです。神のご加護で最終的には出られるんですけれどね」
ヨナ、ヨナとうめく姿を見かねた部下の一人が言った。
「ああ」
それで思い出した。確か若い頃に読んだSF小説の中に、それに材を採った物があったのだ。それでボンヤリと覚えていた。そうでなければ、タイ人の大方に漏れず仏教――南方上座部の信徒であるスーラが、比較的有名だとは言え、聖書の中の説話を知ってはいなかっただろう。
ただ、それは正確な理解とは言えない。より正確には預言者ヨナが大魚に飲み込まれるのは、説話の中のさらに一挿話に過ぎず、そもそも『ヨナ書』の趣旨はそこではない。
そもそもは、イスラエルの預言者ヨナに対して、神が命じたことから話は始まる。
アッシリアの首都ニネヴェへと赴き「ニネヴェの民が、犯す悪行によって四十日で滅ぼされる」という預言を伝えよ、と。
だが当時アッシリアはイスラエルの敵対国であった。敵国の首都へと赴くことに怖気づいたヨナは正反対の方向へと船に乗って逃がれようとした。神は怒り、海は荒れ、ヨナの事情を聞いた船乗りたちは、神の怒りを恐れ、涜神の輩としてヨナを糾弾し、四肢を掴んで海の中へと投げ込んだ。海へと落ちたヨナは、神の使わした巨大な魚に飲み込まれる。
大魚に飲み込まれたヨナは、神を恐れ、神に祈り、三日三晩を怪魚の腹の中で過ごした。やがてその祈りは神へと通じ、ヨナは再び陸地へと吐き出される。
そして、今一度神の命に従って急ぎニネヴェへと達した。
ああ、だがなんとしたことか、ニネヴェの民はヨナの携え来た神の言葉を素直に受け入れた。悔い改め、悪行を止め、指導者の断食の呼掛けに応じて、断食を実行したのだ。
寛仁なる神はそれを見て再考し、滅びを思いとどまった。ヨナは怒った。主よ、何ゆえに一度定め、宣言された滅びを取り消されるのか、と。それに対して神は言う「お前は怒るが、その怒りは正当なものであるのか」と。
怒りに任せてヨナはニネヴェを離れ、街の東の外れへと建てた草庵に過ごし、ニネヴェの民の行く末を見届けようとした。
陽射しは過酷で、慈悲深き神はヨナの為に、庵を覆うトウゴマ――蓖麻の木を芽生えさせた。木はひとときで高く伸び行き、瞬く間にヨナの背を越すほどに高くなった。心地よい影に、ヨナは怒りを忘れ、不満も忘れた。
だが、翌日の明け方。神は今度は虫に命じて幹から葉から木を食い荒らさせ、トウゴマを枯らしてしまう。加えて、暑い東風を吹かせ、太陽を燃やした。暑気にやられ、ぐったりとしたヨナが怒りに任せて死を望むと、神は彼に問いかけた。
「お前は自分が育てたわけでもないトウゴマのことで怒るが、それは果たして正しいことか?」
もちろんだ、と応じるヨナに神は告げる。
「お前がトウゴマを惜しむのが正しいならば、どうして私が幾十万の民と家畜の暮らす大都ニネヴェを惜しまないでいられるだろうか」
それに対してヨナがどう反応したかは伝わっていない。
さて、この説話中において、終始、神に対して誠実であったのはイスラエルの民――小預言者たるヨナではなく、異邦人たるニネヴェの民の方である。これは神の愛がユダヤ人以外にも及ぶ事を述べている。それゆえ、普遍宗教となる過程の初期キリスト教では、布教活動における精神的な側面で、特に重んじられたも言われている。
だが、その数ある聖典の中でも特に異様な話の筋立てによって有名になった節があるのは否めない。
スーラもそういう話だと誤解していた。
そして、ただ大魚に飲み込まれる話と理解するならば、
「なるほど。まさしくこの状況に相応しい引用ですね」
改めて、納得したと笑いながら頷く。ただし、こちらは自主的に飛び込んでいるという違いはあったが。
※
怪魚の腹のうち、ヨナならぬ軍人たちは、困惑していた。
飛びこんだ《WUEM》の体内には、奇妙に広大な空間が広がっていた。曖昧模糊として茫漠。外から見当をつけていたよりも《WUEM》の実際の内部面積は大きかった。と言うよりも明らかに外の空間よりも中の方が大きい。どころか地球よりも広いのではないか、とさえティモシーには思われた。
さて、広大と言ったが、また同時に狭隘でもあった。
距離感がまるで掴めない。狭いと思えばどこまでも狭くなったし、逆に広いと考えれば果てしなく広くなった。実際に果てがないということはないのだろうが、距離の概念が曖昧だった。縦、横、高さ、加えて時間の概念もおかしい。色彩もおかしい。とにかく何もかもが奇妙で、おかしくて、変だった。
「ヘンなところっすね」
わかりきったことを、ミーチャが言った。
「元から、《WUEM》って奴らが変なんだ。一々気にしていても始まらないだろ。取り敢えず受け入れておけ、そんなもんだと」
「そういうもんっすかね」
何かが違うような気がするのだが、特に反論する材料もみつからないまま、上空に視線を移した。
空――という呼び方が果たして妥当なのかは解からないが、上方には無数の星が瞬いていた。ただし、本当の星であるかは不明だ。恐らく違うのではないだろうか。だが、見た目は夜空に浮かぶ星に似ていたので、ひとまずは星としておこう。
そう言えば、体外にいた時、あれ程苦しめられた熱線を発する瞳――喉に浮かぶ十七の奇怪な瞳が、口蓋をくぐり、口の中へと飛び込んだ途端、ふっと見えなくなっていた。
飛び込む為に、牽制の意味も兼ねてミサイルを一発お見舞いしてやったのは確かであるが、それだけで全て吹き込んだとも考えがたい。なおかつ、ふっと気付けば、飛び込んできた入り口――怪魚の口の穴も消え去っていた。
きらりと星が煌めく。じっと見つめていると、唐突にぎろりとにらみつけられた様な悪寒が走った。
まさかな……。第一、数が合わないじゃあないか。
一瞬脳裏をかすめた不吉な予感を、ティモシーは振り払う。そして、上官の微かな不安が伝染したものか、ミーチャもまた不安げな表情を作る。彼らは星をじっと見つめた。
星の数ほどという喩えがあるが、それこそ十七個どころか数えるのも莫迦らしいほど無数の星が、妖しい光を放っている。
だが、これは最初、ティモシーには見えなかったのだ。
「見て下さい、少尉。星が浮いているっすよ」
ティモシーの主観としては、そんなミーチャの言葉と同時に、星が瞬き始めたのだ。ミーチャにはもっと早くから見えていたようなのだが、ティモシーには見えていなかった。
目の良し悪しではあるまいし、ましてや注意力の有無でもないだろう。
唐突だった。本当にパッと輝きだしたのだ。
対して、
「広いな」
と感じたのはティモシーだった。
地平線や水平線の類が見えない。明らかに地球上では、と言うよりもある程度以上の尺を持つ天体である限りは、必ず目に入ってくるはずの、大地、水面、世界の果てと言うものがそもそも見えない。
遠すぎたり小さすぎたりで、ぼやけて曖昧になっている、というわけでもない。
本当に存在しないのだ。
そう言うと、ミーチャは驚いた様に言った。
「え、そんなハズはないっすよ、確かにアレが果てじゃないっすか」
指差す。
ティモシーがいぶかしみ、顔を顰める。ミーチャの人差し指が指示す先に、いくら目を凝らしてみても、彼にはそんなものは見えなかった。この空間はあまりにもうさんくさい。
そう告げると、途端にミーチャが呟いた。
「あれぇっ?」
莫迦みたいに口を半開きにして、目も大きく見開かれている。
それは驚いて、思わず口からこぼれたと言った感じであった。彼独特の、いつもの過剰な動作が封じられ、抑えられている。驚愕が過ぎて、かえって他の感情が薄められ、行動が平坦になっている様子だった。
「今度はどうした」
「……え、ああ、いや、そのー」
どう言えば良いのか悩む。答えあぐねている様子だった。
「混乱しているのは良ーっく解かった」
だから落ち着け。そう言うのだが、まるで落ち着く様子が見えない。言葉では埒が明かないと判断する。仕方がないので、軽く後頭部をはたいて、どうにか落ち着かせる。
「上手に話そうとかするな。お前はそんなに頭は良くない。解かるな?」
随分な言い草ではあるが、ミーチャも反論しない。自覚しているのと、混乱しているのと。
「言いたいことが、巧くまとまらなくっても構わねーから、とにかく口に出してみろ。話しているうちにまとまるかもしれねぇし、少なくとも話を聞けば、コッチであたりをつけることだって出来るからな」
「はあ。さっき、オレ、この空間の果てが見えるって言ったっすよね」
「ああ」
「それがですね。今さっきもういっぺん見てみると、少尉が言うみたいに――オレがちょっと前まで見ていた、果てらしきもんが、見えないんすよ」
出口も、入り口も、どちらも見えない。果てし無く、ただ虚空が広がっていた。
幻覚か、脳が沸いたか、眼腐れか、どうであれ困った話だ。
「あん?」
二人は顔を見合わせた。
「受け入れろとは言ったが……やっぱりワケがわからねー」
ミーチャにはそう言ってみたが、やはりそれが簡単なことではないと改めて気付く。
「そうっすよ。なんだって見た目が変わっちまうんすか。それも少尉が言った様に」
「アホ。俺だけじゃねぇよ。空なんかはお前が言った様に変わっている。俺には最初、星なんか見えなかったからな」
言い合い。理解しかねると困惑し、二人は頭を抱えてボヤいた。
その時だった、
「それはね。お兄さんの認識が、そちらの背の高い方のお兄さんの認識と争って敗れたからだよ」
突如。それまで聞いたこともない声が機内に響いた。甲高い、子供の様な声だった。
「だっ誰っすか! ってか、むしろ何っすか!」
大慌てで誰何の声を発する。
少女が、十代前半と見える小さな『少女』が機首の先に立っていた。東洋系――具体的には東北アジアの薄い黄色の肌に黒系統の髪をした少女だった。人種といい、語りかけて来た言語が日本語であったことといい、日本人である可能性が高い。ただし、そもそも人間ならばの話だが。
「へロー。あと、プリヴェーット……で良かったよね、プリヴェット、ロシア語で『こんにちわ』っていうの」
そんなことを、推定日本人少女は、極めて平板な、まるっきりの棒読みで言う。
「んなっ!」
ここまで殆ど驚きらしいものを見せなかったティモシーも、流石に驚いた様子であった。瞳の大きさが二割り増しくらいになっている。
「あっ、美少女、美少女っすよ、少尉」
対照的に、珍しくも特に動揺する様子も見せず――別の意味での動揺は見せていたようだが――嬉しそうにミーチャがはしゃいだ声を出した。
「……今、俺はお前を見直したよ、あるいは一層に見損なったのか――」
疲れたような声で妙なことを呟いた。
「なんすか、それ?」
「いや、なんでもない。気にするな」
「そんな風に言われたら余計に気になるっすよー」
「それよりも、だ。……アンタ誰だ?」
気力で驚愕や混乱、理不尽をねじ伏せたような声でたずねる。
「あ、やっと尋ねてくれた。ボク待ってたんだよ」
ちょっとの間ではあるが、放っておかれた間、律儀にも挨拶をしたままの姿勢でじっと待っていたらしい。少しすねた様子で文句を言った。
「そいつは悪かったな」
とりあえず、抗ってみても面倒そうなので、心無い謝罪をしておく。
「むー、好い加減な気のこもってない謝罪ーー。ボク傷ついたよー」
「ボクっ娘っすよ……!」
阿呆な事を言いながらはしゃぐミーチャの後頭部は、とりあえず叩いておく。実際の戦闘機ならばこうはいかないが、シミュレーター、それも間に合わせの代物である為に、こういう所ではちょっと好い加減だった。
「あー、悪かった、悪かった。ついでに名乗りもしなかったのも、失礼だったな、俺はティモシー・スプリングフィールドだ。こいつは……おい、ミーチャ、お前の本名なんだったけか?」
「ドミトリー・ヴァディモヴィチ・ベリーイェフっす」
覚えていてくれ、と言いたげなちょっと不満げな様子だった。
「あ、これはこれはご丁寧に」
先に自ら名乗った二人に、少女は軽く虚を突かれた様子で一瞬小さな戸惑いを見せた。そしてなぜか深々としたお辞儀を一つ。妙な沈黙が降りた。誰もが次の行動を取りあぐね、話の糸口を探っていた。
「……これは、お見合いってやつっすね」
ミーチャが微妙な日本理解の発言をした。まあ、間違ってはいないが、無論正しいわけもない。それを切っ掛けに空気は緩んだ。「俺たちは名乗ったんだから、お前も名乗れ」とティモシーが目に籠めた力で語り、うながした。
「はーい。綾小路晶。ちょっとおしゃまな、でも本当はとってもナイーブな十三歳。あと、小粋な軍事マニアです」
これが昔の少女漫画なら、背景に花か星でも背負っていそうな雰囲気だった。
「……そーかい」
著しく緊張感を削がれた様子で、あるいは先ほどまでの緊張状態の反動か、再びあのだらけ切った状態に戻りかけていた。
「まあ、いいや。で、アンタは人間かい?」
疑わしげにティモシーはたずねた。また、もし人間であってもこの様な場所に平然と立っている時点で常人ではない。
「人間だよぅ」
心外そうに口をへの字に曲げる。
「あ、でもね――」
「でも、なんだ」
「ココに立っているボクは人間じゃないよ」
人間だと言いながら、同時に人間ではないと言う。明らかな矛盾を自明のことだと言う。
「そいつは日本人の好きな禅問答ってやつか?」
「公案――禅問答じゃないよ。単なる事実」
首を振って否定する。
「それに、大方の日本人は別にそんな好きじゃないし。好きなのはむしろ、『ZEN』とか言ってるお兄さんたち欧米の人たちでしょ?」
「最近じゃあ、結構深いところまで理解は進んでいるんだぜ」
晶の思わぬ返しに苦笑しながら言った。
「うーん、そうだね。一言で言うと、ボクっていう意識の本体は別のところにあるの。それで、そこから意識の一部――いわゆる使い魔の一種を飛ばして、お兄さんたちと接触しているんだ。これが今現在ココにあるボク。あ、ファミリアーって解かる?」
可愛らしく小首を傾げて確認する。
「……まあ、なんとなく一応はな。確たる理解ってよりは情緒的な了解の段階だが。つーとお嬢ちゃんは魔女か何かか?」
「魔女! ばっ、ヤガー婆さんとかそんなんすか! お、オレは食っても美味くはないっすよ、その、食ったことないからわかんないっすけど」
それまで単純に可愛いっすね、などと言っていたミーチャだったが、急に顔色を変えて、椅子に座っているからには下がれないものを、無理に下がろうとする。ティモシーよりも自分の方が魔女(?)に近いので恐怖は一層に。
「うーん。魔女のお姉さま方とは違うよ」
「……なら、魔法少女っすか? セーラー○ーンとかヤクーツクでも放送されてたっすよ。オレもそれとか日本のアニメが直接の切っ掛けで日本語を覚えたんすよ」
「いや、それはどうかと」
ちょっと違うと言いたげだった。
「……アンタも小粋な軍事マニアとか言っている時点で大して変わんないからな」
自分はヒコーキバカだが、と前置きしつつ言った。
「そうだね、まあ、魔女じゃないし、魔法少女ではもっとないよ――第一致命的な問題が……ああっと、こっちの話。そうだね、敢えて区分すれば魔術師かな」
考え、考え、「この違いを一般人に説明するのは難しいんだけれど」と言葉を選びながら言った。
「あ、それとロシア人のお兄さん、アメリカ人のお兄さんも聞いておいて。魔女のお姉さま方に対して、お婆さんや小母さんなんて不用意に言うと、最悪呪い殺されるから注意してよね。ただでさえ、今こうして話していることで、お兄さんたちとボクの間には魔術的な繋がりが発生しているんだし」
下手をすると、ボクまで巻き添えをくっちゃうから、と晶は見た目には無邪気な愛らしい表情で告げた。
「……了解。覚えておけば覚えておくよ」
魔術的な繋がり云々は、正確には理解できなかったが、ともあれ呪い殺されてはかなわない。
「あはは、なにそれー、おっかしーの」
「で、だ。自己紹介は終ったな、お互い……つーか、魔術師のお嬢ちゃんがどうして俺らがアメリカ人とロシア人だと知っているのかまでは解からんが」
「……うーん。発音と、バーバ・ヤガーって言葉から、ってことにしておいてよ」
「しておいて、ね。まあ良い。そこに拘っていると話が進まん。つか、なんで自己紹介するだけでこんな時間をかけにゃならねぇんだか」
やれやれ、と肩をすくめて溜息をつく。
それ以前に、最初から英語とロシア語の単語で挨拶をしてきている。アクセントは完全に日本人のそれだったが。
そして使っている言語自体、日本人として日本語を用いている様だったか、それとても二人が日本語を解すると最初から確信している様子だった。
それも日本語がどこでも通じるだなんて幼稚な理解――より正確には無理解か――ではない。キッチリと解かっている様だった。ティモシーとミーチャの共通言語が日本語だと。
「少尉も結構、茶々いれてたじゃないっすか」
そうだそうだー、お兄さん横暴ー、と晶も尻馬に乗っかって囃し立てる。
「へーへー、仰せのままに、お姫さま」
飛行機を操縦していない時の、あのやるきのない口ぶりで、でたらめに応じた。
「で、だ。最初の話に戻るんだがな」
「うん」
「俺の認識がミーチャの認識に勝ったってのはどういう意味だ?」
なんとなく、見当はつく気もしたが、確信は持てていない。
「ちょっと、少尉、こっそり主体がオレから少尉に代わってるじゃないっすか」
なんとなく、内定していたはずの主役の座を大物俳優に横からかっさらわれた新人の気分でミーチャは言った。まあ、そんな状況に置かれたことはないので、適当にそんな気がしただけだが。
「それって、どっちでも同じじゃない?」
「違うっす、違うっすよ。この差は大きいっす」
「ふーん」
「わーった、わーった。言い直すよ。改めて、コイツが俺に負けたってのはどういう意味だ?」
「しょうい〜」
ある意味で、更なる変換が行われた様な気がしないでもない。
「あははっ。うーんとね。ココは独立した一つの世界なんだ。昔から、えーっと、そうそう。『ひとたび壺の口をぐぐいっとくぐればそこには天地が広がっている』もので、それは魚の口でも変わらない。口を、穴を、門を、扉をくぐれば新しい世界が広がっているっていうのはごくごく有り触れた現象なんだよ」
まるで有り触れている様には思えなかったが、とりあえずそういうものかと聞き手の二人は頷いた。
「科学的に見ればまた違った意見が出るんだろうけれど、少なくともボクが学んだ魔術流派の常識に照らし合わせれば、《WUEM》っていうのは一つの世界なんだ。世界と世界がぶつかり合って、侵蝕しあっているの。わかる?」
「……うーん。二方向から突っ走て来た自動車が衝突したみたいなもんすか?」
「当たらずとも遠からず。本当は結構違うけれど、イメージとしては、あながち間違ってもいないんじゃないかなぁ」
「並行世界から来ているんじゃなくて、並行世界そのものがこっち側に来ているってか?」
「うん。あ、でもね、無数の並行世界が浮かんでいる『超並行世界』みたいなものがあるんじゃないかって言う意見もあるんだ」
「ふーん」
この辺に来ると、いやそれ以前に、かなり前からミーチャは既に置いてきぼりである。そもそも相槌を打つティモシーにしてから完全に理解できているのか、我が事ながら疑問だった。
「もしかすると、ボクたちの地球――宇宙も、外から見たら《WUEM》の一つなのかもしれないんだよね」
「っ……ソイツは流石に予想外の意見だな」
顔を強ばらせる。あの様な化物の中に、自分たちが住んでいるというのは想像するだにおぞましかった。
「あ、でもね、あくまでもそういう説もあるってだけで、実際に何なのかは解かっていないんだ」
顔色を変えたティモシーに、弁解する様に慌てて言った。
「それで、話を戻すと。ココは一つの世界なんだけれど、観測者がいないんだ。正確には、ボクたちと同じ次元に存在している観測者が、お兄さんたちを除いていないの」
「……観測者。世界や現象は、観測するものがいて初めて成り立つって例のアレか?」
「そう」
「……なるほどな」
やっぱりそうなのか、と頷く。
「どっどういうことっすか?」
「あー、つまりな」
つまり、と言ってしばらく黙る。巧く説明する自信がなかったのだ。だが、放っておくわけにもいかず、一度口に出したからには下手でも説明しないわけにはいかないだろう。そう、覚悟を決める。
「……一ヶ月前、お前、俺のことを知っていたか?」
「知るわけがないじゃないっすか」
「俺も知らなかった」
当然だ。出会っていない、どころか名前さえ聞いていない。
「つまり、それまで俺はお前の世界の中にはいなかったし、お前も俺の世界にはいなかった。ここまで、わかるか?」
「なんとなく」
「もっと言えば、現在、お前は俺と知り合った。お前の世界に俺が生まれたわけだ。だが、それは本当か? 実体か? お前は俺と話しているつもりだろうが、もしかするとお前がそう言う風に観測しているから俺という実体がある様に思えるんであって、本当はお前の脳味噌が見せてる幻想かもしれないわけだ。どうよ?」
「ワケがわからないっす……!」
いっそ、すがすがしいくらいに言い切った。
「……しかたがねぇヤツだな。まあ、俺の説明も巧いとはいえないんだが。まあ、とり合えず、ココは俺らが思ったようになるってこった」
「夢みたいなもんすか?」
「まあ、そんな都合よくはいかないんだけどね。無意識よりも更に下の部分で観測していることだから」
晶が補足する。
だから、
「ココは無垢の世界なんだ。元始の混沌。そこにお兄さんたちが闖入した。世界が固まり始めたんだね、お兄さんたちの意志に従って」
そう、
「全ては見る者の意志の持ちよう。主観次第なんだ」
晶は言った。この場合はティモシーとミーチャの主観だ。どちらの主観が適用されるかは意志――思い込みの強い方が勝つ。
「だが、まてよ?」
そこに晶の主観は含まれないのか。そうティモシーが問うと、晶はあっけらかんとした態度で応じた。
「あ、それはないよ。だって、ボクってば本当にココにいるわけじゃないからね、さっきも言ったように、外から使い魔――意識の一部をココ、既にお兄さんたちによって観測された世界に送り込んでいるだけだから影響は与えないんだ。本体とは一応繋がっているけれど、基本的にスタンド・アローンだってこともあるしね。それと、ボク以外にも何人か、のぞき趣味のある人たちがいるみたいだけれど、その人たちも同じこと」
「そーかい」
聞き捨てならない単語があった。のぞき趣味。誰がのぞいているのかまでは解かるはずもなかったが、シミュレーターの無断使用に、IDの偽造その他諸々が露顕したのだろうと見当をつける。
だが、今は現状をどうにかするのが先である。ここを切り抜けられなければ、懲罰も何もない。
「……ええ、まずいっすよ。少尉、そんなノンキな――」
どうしましょう、とミーチャはティモシーの方へと振向いた。
「って、あれ? なんで、ソッチにいるんす――」
先ほどまで確かに機首に立っていた晶が、ティモシーの傍らに浮かんでいた。
「おまけに、なんか小さくなってないっすか?」
晶は縮んでいた。本来の身長の五分の一程度。ご丁寧に服も身体に合わせて縮んでいる。目算で25センチメートル前後と少女用の着せ替え人形にも見える。
「ここからは、機首に立っていると邪魔になるから、操縦席に移ったの。あと、大きいままだと狭くて、それこそ邪魔になるから縮んだ」
特別なことをしたといった感慨も持たず、誇る風でもなく当たり前のことの様に言った。
「……なるほど、確かに、あんな所に立たれてちゃ邪魔だったな」
何かに気付いた様子だった。呟く口許と眼に笑みと力が戻っていく。
「え?」
「まあ、あれだ、飛び込んだ瞬間に蒸発する可能性だってあったんだ」
「ええっ! ちょっ、そんなことオレ聞いてないっすよ!」
「言ってないからな」
それで話は終わりだと言わんばかりの口ぶりだった。それに、もはや聞いていない。計器とモニターに目をやりながら勘を働かせ、次にやってくるだろうものに備えていた。
「おいでなすったぞ」
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