【 えっ?! でんのうせかいのかいじゅう、なの! 】
シンガポール。
正式名称をシンガポール共和国という。赤道直下の東南アジア。マレー半島南端対岸に隣接する小島シンガポールを領土とする都市国家である。都市経済の中心地には、慢性的な土地不足と改築に継ぐ改築、建て増しに継ぐ建て増しを経た結果、様々な建築法による彩り豊かな高層建築の群れが林のていをなしていた。
鉄筋と硝子、コンクリートで構成される樹林は、そこだけ周囲に比べて極端に背高である。しかし、摩天楼と言うよりはどこかブロックで組んだオモチャの様にも見えた。
「別に高いからと言って何かが偉かったりするわけでもないけれど、ちょっと見劣りするかしら」
というのは某女性自衛官の言である。この街には280メートルの高度制限があるため、隣国マレーシアの双塔建築や、500メートルを越す台湾の台北101と比べれば高度で劣る。
「まあ、それでも充分高いけれど。ほんとう、どこの世界でもヒトって生物は高みから見下ろすのが好きだこと」
それは誰に向けた皮肉だったのだろう。思いつくままに指折り数える。
「《天上とバビロンの基たる大塔》に《礼拝告知の光塔》、《仏舎利を納める塔墓》に《時を知らせる大鐘楼》。そして、あの異邦人たち。《天空に浮かぶ象牙の都》が現実に存在するこの状況をスウィフトだったらどう風刺したかしらね」
高所から見下ろした時、あるいは生活する土地に高層建築が存在する時、往々にして人は自分が偉くなった様に感じるものである。それは錯覚である。しかし、確かに感じることも事実である。
かつてそれらは信仰と結びついていた。
「そして、今ではそれは科学技術への信仰が表に顕われたものなのだ……といったところかしらね」
信仰は壮麗な大伽藍を求めるものだ。理論が教義であり、実験こそが日々の勤行、摩天楼が大伽藍である。
建築技術というものは国家・組織の実力をはかる指標である。大規模高層建築を実現するには複数科を横断する広範な技術を結集する必要があり、また莫大な富を必要とする。対外的な国力の誇示や国威発揚に用いられる。
あるいはまた『ランドマーク』と言う言葉がある様に、大きな建築物は都市、ひいては国家の顔であろうか。そうであるならば極めて現代的な高層建築のすぐ傍らに、いわゆるコロニアル建築――植民地時代以来の英国式建築物が甍を並べて建っている都市景観は、少なくとも、国土の狭い多層的民族国家――各民族独自の共同体が隣り合って、しかしけして交じり合わずに並存しているシンガポールの有り様を象徴するかのような景観ではあった。
金融都市らしく英語や各種方言を含む漢語その他の雑多な言語が飛び交う都市の一角に建つ国連施設。別に高層建築ではない、と言うよりもそもそも高くする必要もないわけだが、それでも与えられた重要性から考えると、随分とこじんまりとした印象を与える建物だった。
その一室。奥行き二十メートルほどの空間に長楕円形のテーブルが置かれた会議室。要所要所に活けられた生花や工芸品が柔らかい光を受けて鮮やかに輝いていた。素っ気ない外観とは一変して、陰謀密談の行われる場所とは思えぬ華やかな一室だった。
列席者は全部で四十人ほど。彼らは関係各国政府から派遣されている各国の意見代弁者である官僚、政治家たちと国連平和維持軍の軍高官たちで、制服組と背広組が半々といったところだった。
議題は様々だった。供出金の各国負担率の確認や、計画を通じて得られた技術と知識が生み出す利権を巡る生臭い腹の探り合い。あるいは清廉な理想に燃える者もいただろう。
そして、やがて議題が、彼らの共通の敵である《WUEM》についてへと移っていったのは自然な流れだった。
基本的な知識の確認と研究調査活動を通じて得られた新たな知見の報告や意見交換が行われる中、三十過ぎのディレクターズスーツ姿の男が起立する。理知的な面差しをした東洋人だった。浅黒く隆起の少ない端整な顔は男が温暖な気候に適応した民族の末裔である事を示唆していた。
姓名をスーラ・サムチョン。タイ人である。情報工学を専門とする優秀な研究者で、現在は軍属で佐官相当の文官である。
「では、続きましては《ディサイド》に関する報告に移らせていただきます」
「「《ディサイド》?」」
さんざめく出席者。聞き慣れない単語に口々に疑問を呈する。
「はい、《ディサイド》。言うなれば……《電脳種WUEM》と称すべきモノです」
「ふむ、サムチョン――中佐相当官だったか。キミ、その『電脳』と言うのは『電子頭脳』の文脈上での『電脳』のことかね? それとも、脳に電極なり回路なりを埋め込んで情報端末とする一種の『自動制御学』か」
仕立ての良い灰色のスーツをキッチリと着込んだ、六十がらみの黒人政治家がそう問いかける。
「前者の意味が近いでしょうか」
「ふむ。《WUEM》は世界を食い散らかす化物だが、とするとコンピュータプログラムを食い荒らす化物かね? おっと、ああ、いや、すまんね、先走ったようだ。まずは報告を続けてくれたまえ」
「はい。……前もって述べれば、プログラムと言うよりは情報を食らう、でしょうか。さて、かねてから我々は情報工学の立場から《WUEM》に対するアプローチを続けておりました」
スーラは報告を再開する。
「まず確認すべき前提として、《WUEM》は我々の世界とは階梯を異にする次元――いわゆる異世界からの訪問者であるということです。これに関しては皆様既に先刻ご承知のことであるかとは思われますが」
出席者たちは皆、異口同音に「その通りだ」と頷く。
「では、異次元、異世界というものは我々の世界と物理法則を同じくするものなのでしょうか? あるいは同じであったとして、様相まで同じものなのでしょうか? いいえ、それは考えがたいことです。《WUEM》の生態――アレらが生物であったとしてですが、それは全く我々とはかけ離れたものです。あの不可解な特質は、地球上、あるいは太陽系内と言い換えても良いでしょう。そんな心地よい常識の住まう既知の世界に発生しうるものではありません」
一旦言葉を切り、発言の意味を皆が理解するまで間を置く。
「ですが、少なくとも二つ。あるいは究極的には一つだけでしょうか、既知世界の中で彼らが発生しうる余地のある世界が存在します。それは――」
「それは何かね?」
「我々の脳の中とシミュレーション――想像すること、仮定すること、すなわち推論と論理の世界です」
ざわめきが広がる。
「待ちたまえ、中佐相当官!」
戸惑う声を代表して制服組の軍人の一人が、苛立ち、じれた様に遮った。階級章は男が少将の位にあることを示していた。
「君が言っていることは『奴らは空想の中の怪物です』と言っている様なものだぞ、解っているのかね」
「それは誤解というものです、閣下。それに、閣下は一つ重大な見落としておられます」
「なに?」
「先ほど、私は言ったはずです。《WUEM》が所属する世界を律する理が我々の世界と同じであるはずが無い、と。脳の中から、想像が実体化したものではないと何故言い切れるのです? それに、そんなことは言っておりません」
不遜とさえ感じさせる怜悧な声で応じる。言外に、貴様はバカかと言っていた。
「むう」
「推論の世界、仮定の世界、思考実験の世界と言い換えても良い。あるいはそれは純粋数学や純粋物理の世界にも似ています。純粋論理。ただ『合理』のみが支配する世界。かくも不条理にして、結局のところ理論一辺倒にはなりえない我々人間から見ると、破綻しているようにしか見えない究極に合理的な世界!」
言うほどに昂揚してきたのか、口調は徐々に熱を帯びていく。
「ふざけているのかね?」
一瞬、気圧された様にうめいた将官は、学者風情に怯んだことを不快として、振り切る様に反駁する。
「まさか! 私は極めてマジメですとも……こほん。申し訳ございません、少々脱線してしまいました」
大声で断言し、それから熱狂を恥じ、照れ隠しに謝罪する。
「『電子頭脳』とは『電子計算機』のことです。それは結局、零と一を延々計算しているだけであり、各種のプログラムも同じこと。どれほど複雑に見えても結局は零と一の総量が増えているだけで、やっていることは変わらない。
バグは――単なる"p"と"q"を取り違えたような些細な誤記から自家撞着の論理矛盾までの幅はあれ、結局はプログラムを打った人間が打ち損ねるから発生するものであり、1861年、ルイ・パストゥールの『自然発生説の検討』によって、生物界における自然発生説が完全否定された様に、電脳界に置いてもバグやウィルスは自動的に発生するものではありえない――」
「前振りは良い、結論を」
名調子を冷淡に遮られ、スーラは一瞬不満そうに顔をしかめたが、それもすぐに常の冷淡さの中に収められた。
「グレムリン」
「グレムリン?」
「我々はそう呼んでいます」
「グレムリン・エフェクトのことかね」
コンピュータや機械装置が原因不明の動作不良を起こす事をそう呼ぶ。
「趣旨を同じくするものではありますが、より正確には現象そのものではなく『真実正体不明のコンピュータ・ウィルス』および『ありえざるバグ』のことです」
「それがどうかしたのかね?」
「おおありですとも!」
どうしてここまで言って解からないのか、情けない、と言いたげに、両手を広げながら叫ぶ。
「コンピュータは人間に――物質世界にと言ったほうが良いのかもしれませんが、ともあれ製作者であり使用者である人間に隷属するものです。安手のSFにありがちなコンピュータの叛乱などというものはありえません。どれほど複雑怪奇に見えたとしても、事態の根源は使い手、人間の側にあるのです。いや、なければならないのです。物理的に!」
「つまり?」
「しかしながら。それでも、どう考えても、人間の不手際以外の要因が絡んでいるとしか考えがたい一種の超常現象が存在するのは紛う方なき事実。それら一連の超常現象こそがグレムリン・エフェクトであり、それを引き起こす存在がグレムリンなのです」
ある意味ではそれは、事態の最初に戻ったとも言える。
「あるいは、グレムリンの再定義か」
誰かが呟いた。その声を耳聡く聞きつけ、
「はい。しかしグレムリンなど存在しえません。いいえ、通常世界にあって機械に動作不良を起こさせる『妖精』としてのグレムリンならば存在しえるでしょう。特定の種族がどうというわけではなくて、その種の悪戯を好む『魔術的存在』の総称として。また、呪術的に強化されたコンピュータ・ウィルスなども既に存在しますが、それらは例外です。第一、それらは正体が明らかですので」
「そう言えば、二度の大戦中に発生したとされるグレムリンの多くは、両陣営によるお互いに対する呪詛の結果だったのだったか」
「おお、そう言えば。何でも近ごろは機械の内部構造が複雑になりすぎて、思ったような破壊活動が出来ないそうじゃないか、魔術では」
所々でその様な話題が語られる。単純に壊すだけならば、容易いのだが、どこをいじれば良いのか見等もつかない為に、狙った誤作動を起こすことが出来ない。
「こほん。ふむ、それでその『グレムリン』が報告の最初に言及された《電脳種》なのかね?」
私語の飛び交う小中学の教室を鎮めようと努める老教師の様な風情で咳払いを一つ。神経質そうな細い鼻梁に銀縁の眼鏡を乗せた、痩せぎすの白人議員がそうたずねた。
「全てが等号で結べるわけではありませんが、多くはそうであると考えられます」
「ふぅむ。しかし解せんな」
了解したと頷いて、改めて腑に落ちないと言った。
「現実世界に顕現する《WUEM》であれば、直接に間接に物的、人的な物理的被害という形でその脅威が理解できるが、聞けばコンピュータ・ウィルスやバグの様なものなのだろう。それならば常に一定数が存在するものであるし、ことさらに騒ぎ立てる必要があるのかね?」
「現状に於いては不要であると私たちも判断しております」
「それなら――」
この種の反応は折り込みづみである。落ち着いて対処した。みなまで言わせない。
「が、あくまでも現状に於いてはの話です。コンピュータ及びにネットワークの発達の速度は他の諸分野に於けるそれの比ではありません。恐らく数年中には甚大な災禍を撒き散らすことになるものと推測されます」
一部の者は、スーラの言わんとする事を理解したようで顔を顰めた。
「現状、目だった被害が存在しないのは、これまでは我々の世界のコンピュータの性能とネットワークの複雑度がまだまだ低いレベルにあったからに過ぎません。そう、譬えれば――」
言って手元の端末装置を指差す。
「これは金魚鉢です。プランクトンや小さな金魚は充分に収めることが可能ですが、マグロやサメ、クジラといった巨大な魚や海生生物が泳ぐには不十分です。しかし――」
ぐるりと指差し。伸ばした人差し指で円卓の上の端末を一つ一つ指差していく。
「皆さんのお持ちである端末を繋ぎますと、そう、プール一個分くらいにはなるでしょうか。これなら金魚と言わず、アロワナくらいは飼えますな。あいにくと観賞にも食用にも堪えませんが。
さらに、世界には大量のコンピュータが存在します。おまけに、全力で稼動している物はごくわずかで、その大半は処理能力と容量を眠らせている様な有り様です。また、往時に比べれば一段落ついた感はありますが、ますますネットワークはその深度を深めていくでしょう。人類の電子網への依存の度合いも」
ざわめきが大きくなる。
「ですが、まあ、ご安心ください。現状程度のネットワーク規模ですと、そう、先ほどの譬えの流れでいけば、そこを泳げる魚は手持ちの網、つまりは現行のファイヤーウォールで一網打尽に充分出来る程度の――」
そこまでスーラが言ったところで、一人の研究者風の若者が会議室内に飛び込んできた。
「主任! た、タイヘン、大変です。こっこれを見て下さい……!」
「なんだ、騒騒し――んぅなっ!」
泡を食って室内に駆け込んできた部下の無作法をたしなめようとして、差し出された端末のディスプレイを一目見て、奇声を上げて硬直する。
「――そんな莫迦な! ありえない、ありえない、ありえない――いや、しかし、現にこうして――」
愕然と叫び、思考に没頭する。そして時折「そうなのか」だの「もしかして」だのと呟く。
「どういうことだね?」
「いえ、実を言えば、私にも正確なところは解かりかねるのですが、つい今しがた説明いたしました、と言うよりも説明中の《電脳種》の実在が、ここにきていきなり実証されてしまったと申しましょうか――」
当初は軽い動揺を示していたスーラだったが、話すほどに落ち着きを取り戻していく。どころか最後の方では興味深いと言いたげに、いつも通りの冷徹なほどに冷静な眼差しを、手許のディスプレイに送っていた。
「実証だと?」
「はい。言い忘れました――と言うよりも敢えて語らなかったのですが、実のところ先ほどまで語っておりましたのはあくまでも状況証拠からの推論であったのですが――これをご覧下さい」
言いながら、自分は端末を操作し、飛び込んできた部下に指示を出して端末を会議室に展開されていた大型スクリーンへと接続させる。
「これは?」
「《WUEM》戦の記録映像ではないのか」
その言葉の通り、一機の戦闘機と巨大な化物が空中戦を繰り広げている。
「いや、良く見ろ、これは良く出来てはいるがCGだ」
「なんだ、シミュレーターじゃあないか」
「これが一体どうしたというのか」
口々に己が見た物を言い合う。
「確かに、確かに。これはシミュレーターによるCGです。ですが、この型のフライトシュミレーターには現在この戦闘機が戦っているような《WUEM》のデータは入力されておりません。もっと言えば2004年現在この様な種類の《WUEM》はいかなる戦場、いかなる観測部隊においても、いまだ観測されておりません」
「なんだって」
「ですから、この《WUEM》は全くの新種であると言っております」
「まて、それはデータに手を加えたと言うわけでは――ないのだろうな、やはり」
「無論です。その様なことを行っては資料としての科学的正当性を失い、訓練装置としても役に立ちませんので、可能な限りの精度で再現するように努めています。と言ってもまあ、設計したのは私ではありませんが」
「ではこれは」
「本物ですよ。シミュレーターのモデル――《擬似WUEM》とも言うべきデータを苗床にして、プログラムを侵蝕し、我々の目に見える形で《電脳界》に顕現化した情報体――」
それ以前のざわめきが凍った空間に、男の声はよく響いた。
「『WUEMと同定される情報宇宙内貪滅存在/Devourer of Cyber-space Identified with W.U.E.M』すなわち《電脳種》です」
※
「何だ、コイツら?」
ティモシー操縦の戦闘機は無数の異形に取り囲まれていた。
基本的に、設定された『敵』は《WUEM》であるから、それが異形であるのは最初からだと言えば最初からではあるのだが、それらは見たこともない形態をしていた。
眉をひそめ、皮肉げに笑い捨てたティモシーの言葉を借りれば「小エビだかゴキブリだかよく解からない奴ら」だった。
地球上の生物で言えば『甲殻類』に似ている。その中でも特に小型の、水中を流れに任せて漂っている類の微小甲殻類、もっと言えば橈脚類――カイアシの類が近いだろう。カイアシ類と言うのが一体どういった生物であるかと言うと、まあ、詳細な説明はこの際どうでもよい。一言で言えば最も多く見られる一群の動物プランクトンの総称だ。
ケンミジンコやソコミジンコなどが代表格である。
しかし、なんたらミジンコと言っても、名前の似ている、いわゆるミジンコの、まるで胴体の肥大したヒヨコのような姿とは見た目に違う。楕円形の胴体に『橈脚』の名前どおり、何対かのたわんだ櫂の様な足と、触覚が生えた虫の様な姿をしている。
ただし、近いといっても比較的見た目が近いだけで、全くの別物である。
まず大きさが違う。顕微鏡を通して見る分には愛嬌もあるのだろうが、一体一体が全長二十メートル弱の戦闘機が小さく感じられる大きさを備えるとなると、もはや恐怖と嫌悪感しか感じさせない。
自力での遊泳能力は備えていないらしく、風に――ティモシーの馴れ親しんだ北海道の気象データに基づいて構築された風のエフェクトに任せて漂っている。その点でも水中を漂うプランクトンを思わせる。
半透明の内部構造が透けて見える棒状楕円の胴体前方から、胴すべての長さよりも長い一対の触覚が伸びている。甲羅に覆われた尻の先からは尾が生え、腹部からは鞭毛とも付属肢ともとれる無数の足が生えていた。
また、泳ぐほどの能力は持たないが、その足を動かして向きを変える程度の動きは可能なようで、漂うに任せて近づいた先にある物体に手当たり次第に触手を伸ばしている。己等よりも小さな戦闘機など格好の獲物であるらしかった。ティモシー目掛けて盛んに襲い掛かってくる。
だが結局、これら『プランクトン』たちは単純に漂っているだけである。自在に動くことの出来る戦闘機の敵ではなかった。
機体を完全に支配したティモシーは、アフターバーナーを吹かすまでもなく、上下左右への巧みな制動で容易く群れの矛先から機体を逃れさせる。そのまま最少の軌道で進行方向を転じると、襲撃の余勢で一箇所に固まっている『プランクトン』へと狙いを定める。
口を開けた腹の主兵器倉から搭載されたミサイルが射出される。ミサイル発射後、戦闘機は反撃に備えて位置を変える。撃ち出され、制御を離れたミサイルは、自律的に標的に向う。いわゆる『撃ちっ放し』という奴だ。天を貫くその姿は、安定翼や繰舵翼を見直し、小型軽量化が図られた結果、比較的細身で、繊細でさえある。しかしその威力は、既存の他のミサイルと比べても何ら遜色なく、絶大な物があった。
向ってくるミサイルの存在に気付いていたのかどうか、そのまま漂っていた『プランクトン』へと叩き込まれたミサイルは、固まりの中心で爆発し、爆風に過半数が吹き飛ばされる。
「やったっすね」
シミュレーターの前席に座ったミーチャが喜ばしげに叫ぶ。本来は複座式機体をシミュレートする時に用いるのだが、現在はただ各種データを制御する為に座っているだけである。それ以前に陸軍兵士のミーチャに戦闘機の操縦は出来ないので無用と言えば無用の機構だった。
その叫び通り、確かに勝負は着いたかと思われた。
「油断すんな。ピリピリ、ピリピリきやがんぜ、首筋がよ。イヤーな予感がしやがりまくる。それも猛烈にだ。コイツはまだまだ終っちゃいないぞ!」
しかし、いつになく緊張した声でティモシーが叱咤する。言葉とは裏腹に、緊張の中にも濃厚な愉快さを二酸化炭素と一緒に吐き出している。
「へ?」
慌ててミーチャが視線を向けた先の空間が突如歪んだ。薄れ行く爆煙の中、何も無いところにスッと二本の線が走り、ソレがゆっくりと巨大な二つの口を開いた。差渡し四十メートルほどもあった。手当たり次第に、ミサイルの破片も、煙も、『プランクトン』もお構いなしに食らいこんだ。
理不尽に咀嚼しながら、二つの口が空間からせり出してくる。一個の存在に備わった二つの口だった。喉の奥の突起、口蓋垂――いわゆる喉ちんこに空いた無数の洞に浮かぶ、瞼のない十七個の眼球がぎろりと戦闘機をにらみつける。次なる獲物と見定めたのだろうか。
「コイツは――」
それまでのどこか気だるげに茫洋としていた瞳に力が宿る。唇は碇の爪の様につりあがり、獣じみて獰猛な笑みを形づくる。
「《WUEM》か!」
叫ぶ。いつしかティモシーは高空を舞い、獲物を狙う猛禽の空気を纏っていた。
「それもマジ物! 良いね、良いね、ステキだな、おい。お前は素晴らしいぜ、そうとも、ヒコーキってのは強いがよ。同時に脆弱なもんなんだ、当たれば落ちる、落ちたら死ぬ、だっ……!」
言いながら、最後の方は言葉にならず、笑い声と化していた。
「――はっ、はははははははははははははは!」
「しょ。少尉?」
「そうとも、そうとも、落ちたら、死ぬんだ、俺も、お前も、アイツも、だっ」
にやにやと笑う。
「はっはー、別にな、命のやり取りが好きなわけじゃねーんだ。地上での銃と銃での、剣と剣とで決闘を、ってのは勘弁だ――」
「お、オレだってイヤッスよ」
「だがな、憶えとけ、空ってのは普通に飛んでるだけで命がけなんだよ」
そこがシミュレーターには存在しない。些細な、むしろ操縦者の気分の次元に存在する違和感だった。
「で、でも、これはシミュレーターっすからダイジョーブ、大丈夫っすよね、よね!?」
ただ事ではないティモシーの、ある種常軌を逸した振舞いに怖気づいた様子でミーチャが確認する。
「さーてな。マトモに考えりゃ、そうなんだろうが、えっ、この状態がマトモって言えるかねぇ、おい」
異界の存在である《WUEM》に人間の常識など通用しない。ある意味で「何でもアリ」なのが《WUEM》の特質である。
「そ、そんな」
「それとな、オレの勘が告げるのさ。コイツはやばい。マジでやばいってなっ――!」
「な、なら、い、今すぐ、シミュレーターを止めるべきっすよ」
慌てて進言する。ティモシーに言われるまでもなく、彼も凄まじく嫌な予感がしていた。
「そうさな。止めたきゃ止めろ」
意外なほど簡単に許可する。
「だがな、たーぶん、無駄だと思うぜぇ」
ひひひ、と根性の悪そうな笑い声を上げる。
「え……な、なんでっすか」
ティモシーの予言の通り、電源を落とそうとしてもウンともスンとも反応しない。ミーチャは混乱した。慌てて外に出ようと筐体の扉に手を掛ける。万が一の事故に備えて、内部から簡単に開けられるようになっている。
だが、
「あ、開かないっ!」
愕然と叫ぶ。シミュレーターの筐体内部に、すっかり閉じ込められていた。
「まあ、悪いがな、諦めて付き合ってくれや」
悪い、の部分には付き合わす他にもう一つ、二重の意味が込められていた。
実のところ、ティモシーはコンセントプラグを抜くなり、ケーブルをぶった切るなりすれば問題は解決するだろうという予感も同時にしていたのだが、それをミーチャには黙っていることに対する謝罪。
この怪物と勝負するという単純だが強烈な欲求。それは食欲に――いや、美食への誘惑に似ていた。洗礼を受けたキリスト教においては、ただ悪戯に舌を楽しませる為だけを目的とした食事は奢侈と暴食の二つの合わさった悪徳である。だが、ティモシーは誘惑に抗えなかった。
「――と言うか、こんな単純なことに気付かない方が悪いんだしな」
責任転嫁。あるいは開き直り。呟きには軽い呆れもまじっていただろう。
それに、そもそも抗う気も無かったわけで、加えて、ティモシーはプロテスタントだ。清貧は必ずしも美徳ではない――だからと言って奢侈が美徳であるはずもなく、こんな隣人への不誠実は変わらぬ悪徳であるが。
「単純ってなんすか?」
呟きを聞きとがめたミーチャの言葉は「何でもない」と軽く流しておく。今はそれよりも、
「そうだ、お前は『魂を喰らう怪物』。お前に負けたら――肉体は問題ないだろうが、精神――魂の方がぶっ壊れるんだろ、おい」
蠢きながら、半ばまで這い出してきた怪物に対峙して、パーティーへと遅れてやって来た友人に対する時の様な、軽い揶揄と親しみの宿った笑みを向ける。
言葉に根拠はまるで無い。ただ、その様な感じがしただけだ。だが、ティモシーはそれを信じた。そして、根拠が無いなどと知るよしも無く、それを聞いたミーチャもまた信じた。
「や、やっぱり、ぜ、前線の方がマシだったっす、少なくともアッチには化物は――」
「出るぞ」
ミーチャの泣き言を、一言で切って捨てる。何を今更言うのやら、《化物》こそが地球人類の敵であろうに。愉快そうに笑いながら、細かい補足などは一言も無く、それがますますミーチャを怖ろしがらせた。
空間が反転する。此岸の物質と彼岸の物質が、素粒子の段階から置換されていく。気体から個体へ、タンパク質やキチン質による《物質界》――より正確にはそれを模倣中の《電脳界》用の肉体、仮初の器が構成されていく。
その勢いは最初緩やかであり、ある一点を越えた時点から爆発的な勢いを得て、空間の性質を書き変えていく。
「おっと、とうとう顕現してきやがったな。へー、コイツが平行転移現象ってヤツか。ふぅん……記録映像とはちいとばかし違うようだな……まあ、現実世界と電脳世界の違いってヤツだろうさ。それに――」
思いついた悪戯を実行する子供の様に、他者に対する配慮など欠片も無い、理不尽な邪気に溢れた笑顔を浮かべていた。
「どっちだろうと、構いやしねぇんだ」
「か、構って下さいっすよ」
ミーチャの苦情などもはや聞いてはいなかった。
「さあて、お嬢さん。僕と踊ってくれますかってなもんだ。お空のダンスとしゃれ込もうや。愉快だな、おい!!」
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