【 へいたいさんのおしごとは、すっごくたいへんなのです。 】
ティモシー・スプリングフィールドがヤクーツク駐屯地へと左遷されて来てから、早くも二週間が経過していた。
もう十日ほどもすれば聖誕祭である。
ただしそれはグレゴリオ暦、いわゆる西暦での話だ。ロシア正教では一月七日がクリスマスとなる。これは同日が、祭礼の決定に用いられるユリウス暦の十二月二十五日に当たるからである。
街中も駐屯地内も祭りの空気は未だ遠い、通常業務の日々だった。
ティモシーの配属先である、サハ共和国の首都ヤクーツクに駐屯する『国連平和維持軍・極東次元界面観測師団・第七八連隊〔通称:サハ連隊〕』の任務は、観測師団の名称が示す様に、次元界面を観測することである。
次元界面とは「地球が存在する次元」と「それ以外の次元」とが接触する場所――あるいは現象のことで、ソコ、あるいはソレを観測し、何らかの異変、ないしその予兆の有無を調べることである。
異変とは、主として《WUEM》あるいは異世界人の来訪――平行移動現象である。
しかしながら、二十世紀最後の年2000年に発生した『極・大規模転移』以来目立った異変は観測されていない。
付け加えれば、北海道千歳の『グラッジ・オブ・インテルフェズ』――観測装置の親玉が告げる『御託宣』によれば、2005年まで大規模な転移現象は発生しないと言われている。
そんなわけで案外暇である。閑職。左遷。島流しと言われているくらいに何もすることがない。仕事らしい仕事と言えば、近所にある石油基地防衛隊の補助ならびに石油輸送の手伝いくらいのものだった。
「週休二日。朝九時に出勤して、夕方五時には宿舎に帰れる。おいおい、一体ここはどこのオフィスだ?」
何度目とも知れない呆れ、あるいは嘆きの言葉。しかも、比喩として持ち出した一般企業の方が余程に長く働いている。
急遽ヤクーツク駐屯地に配属されたティモシーに与えられた役職は『観測資料室室長』というものであった。観測師団に属する連隊であるから本業と言えば本業であったが、これは虚位散官というもので、実際に仕事らしい仕事はなかった。
サハ連隊は、隊員二百名ほどと最小限度の連隊である。士官はティモシーを含めて八人しかいない。そう、仮にもティモシーは少尉、すなわち軍の幹部たる士官である。兵卒や下士官が行うような雑事を行うわけにもいかず、かと言って本当に重要な書類などは磐埜司令たち駐屯地の最高幹部連の段階で処理されるべきものであった。
そんなこんなで本当に仕事が無かった。することと言えば来る日も来る日もさして意味のあるとも思えない報告書を作成し、上から下から、卒然としてやってくる書類にサインをする。
それくらいであった。
純然たるデスクワーク。それも暇な。
娯楽らしい娯楽もない土地ではなおさらに退屈は際立つ。
気分としては「もう何でも良いから身体を動かさせろ、鈍ってへたって仕方がない」というところだった。
ティモシーとて別に仕事が好きなわけではないが、「日々是安閑」と窓際部署でのほほんとしていられるほどに老成していなかった。往々にして若者は若さと情熱を持て余しがちである。
スケジュールの押している計画に合わせて前倒しされた、航空学校の異常なまでに濃密な、昼も夜も無いハードなカリキュラムに先日まで身をおいていたティモシーにはなおさらに。
加えて、猫宮空将補の宣言通りに、飛行機に触れない……どころか目にする機会さえロクに持ち得ないことが、飛行機オタクの苛立ちに拍車をかけた。
苛立ちは天に達する噴煙となり、ジリジリと行き場のない焦燥感に身を焦がす。
だが、この駐屯地に漂うお気楽な空気は、怒れる男をして、その苛立ちや惑い、大元である憤怒の念でさえも持続させることを困難にしてしまうのだった。
強ばり、凍りついた気持ちも日ごと溶け行き、後には、ただぬるい退屈だけが残った。
ただまあ、一歩退いて眺めれば、娯楽に関して言えば、日本やアメリカの都市部には娯楽が溢れすぎているのだと言えるのかもしれないが。
自己と周囲に考察を入れる。
だが、理解する事と納得する事とはまるきり別の問題である。
退屈で退屈で死にそうだった。有史以来、実際に退屈で死んだ者は――自殺者を除いて――恐らくいないが、退屈は精神を殺す。今ならば、ホッケーマスクに手斧を持った金曜日の殺人鬼すら心から歓迎できそうだった。
「うーわー」
おかしな声でうめく。
本日の仕事は午前中で終っていた。現在時刻は二時十五分。手持ち無沙汰に二時間半を過ごし、これから業務終了までも二時間半。言動に比して、意外と生真面目なところのあるティモシーには、勤務時間中に駐屯地の外に遊びに行くような度胸はなかった。度胸というよりも矜持の問題か。しかし、この状態が続けばある日我慢しかねて飛び出すだろうと思われた。
猫宮空将補の思惑通りであるのだろうが、このままでは本気で腐りそうだった。
「暇だ」
かすれるような音量でささやく。
「マージーでー暇だー」
その眼は半ば、腐った魚。
「どんだけ暇かってーと、神よっ艱難辛苦を我に与えよ! とかなんとかアホなことを言っちまいそうなくらいに暇だ」
「そうっすか? オレなんかは週五日でも充分忙しいと思うんすけれどね」
近くの机でカチャカチャとキーボードを叩き、マウスを動かしていた――仕事ではない。ネットに繋いでエロ画像を見ているのだ。狙う獲物は無修正。嗜好としてはアジア系の少女が好みだ――ミーチャことドミトリー上等兵が大げさに嘆いてみせた。
栗色の髪をした団子っ鼻の小柄な少年兵である。彼はティモシーの直属として付けられている上等兵で、年齢は上官よりも一つ下の十八歳。実年齢でいえばもう青年と言っても良い――だから厳密には少年兵の定義からは外れるのだが、見た目といい、性格といい、妙に子供っぽいところがあった。
群を抜いて陽気な性格で、ひっきりなしに冗談を言っては、おどけた仕草をしてみせる彼の快闊さは、ティモシーの中のロシア人に対するイメージ――常に仏頂面で、無口に酔いどれている熊の如き大男〔あながち間違いでもないが、イメージと言うかただの偏見である〕――に修正を加えさせた。
「別にな、俺はぶっちゃけると週休二日だろうが、年休二日だろうが、飛行機に触れるんなら、空が飛べるんなら休日なんて『休み、なにそれ?』で構わないんだよ」
愚痴である。裏返すと、飛べなければ三百六十六日〔閏日込み〕休めたって満たされないわけだ。ティモシーの様などこまでも高く、なによりも速く飛ぶことに、大空に取り憑かれた変態は。
「あー、ヘリは空挺隊の持ち物っすからね〜っと、おぉっ!」
上司の憂鬱もなんのその、気のない返事を返しつつ、気に入った画像があったらしく、歓声を上げて、いそいそと保存する。
「別に触れたってヘリじゃ嬉しく――ないわけじゃあないが、飛行機には敵わないぞ」
「……うちはイナカの陸軍駐屯地っすから、戦闘機は難しいすっよ」
「わーってるよ。ヘリしかないのは最初の二、三日で思い知った。それにそもそも滑走路とかないだろ、ここの駐屯地には」
都市の中にある駐屯地で、あまり敷地は広くない。ヘリポートのみで、戦闘機の離着陸に適う飛行場は持たなかった。
「あれっすよ、今時分は冬でしょう、川とか湖とかキレーに凍ってるっすからね、そこを滑走路代わりに使うんすよ、ウチの基地では」
「へー、そうなのかっ……て、そんなワケねーだろ。冬戦争じゃねーんだぞ」
あながち冗談でもなさそうだったが、流石にそれはどうかと薄っぺらで気の入っていない笑いで突っ込む。やってやれないことはないだろうが、それくらいなら街にある空港を借りて使うだろう。
「……まあ、学生の頃にはヒコーキに、いくら好きだとはいえ、戦闘機にマジに乗ることになるなんざ、これっぱかしも考えてもいなかったんだから、ただその頃に戻ったって言えばその通りなんだが――」
でもなあ、と苦々しげにうめく。そんな、半分眼の死んだ上官を哀れに思ったものか、部下が暇つぶしの話題を提供する。
「そう言えば、少尉って軍人になる前は学生だったんすよね」
「おう」
「なんだってわざわざ大学辞めて入隊したんすか。卒業したらどうせいつかは入隊しなけりゃならないのに?」
不思議そうにたずねる。ロシアでは、男子は十八歳になると兵役に服する義務がある。連邦政府は以前から志願制への移行を試みているのだが、内外に抱える種々の問題が足を引っ張り、上手く行っていない。補則事項として大学入学者は延期され、既婚者は免除される。
それについて言っているようだが、どうやらミーチャは少し勘違いをしている。
と言うのも、アメリカ合衆国は徴兵制を採用していない。彼はそのことを知らないか、あるいは忘れるかしているようだった。
「……別に入りたくて入ったんじゃねぇよ。適性検査に引っ掛かって、半分……いや、それ以上だったな、強制的に航空学校に放り込まれたんだ。そういう意味じゃ徴兵されたみたいなもんだが合衆国は、英国とか日本とかもそうだが志願制だ。そういや、フランスでも三年前に廃止されたんだったか」
とりあえず訂正しておく。正しくは2004年現在でも法制度としての徴兵制は残っているのだが、ヴェトナム戦争撤退以来停止中で実質志願制となっている。
なっているのだが、訂正しながらも、そう言う自分には志願した憶えはまるでなかったわけで、
「思えば、あれがケチのつきはじめか?」
思案する様に、右眉の出っ張りを、人差し指でトントンと叩きながら苦笑する。
「はー、そうなんすか」
二重の意味での、そうなんですか。
「自分の場合は……ほら、オレってば大学入れるほど頭良くなかったし、それ以上に貧乏だったもんで大学なんて無縁の世界っした。あと、結婚するには相手がいなかったんで兵役に引っ張ってこられたんす」
「ふーん。お前も苦労してんのね」
同情するというのも変な話だったが、他になんと言うべきかとっさに思い浮かばなかった。
「別に苦労ってほどじゃあないっすよ。それが当たり前なんすから。それに、前線に派遣されるのに比べればココは天国っす」
あっけらかんと言ってのける。ティモシーはそれを変な生物を見るような表情で、しげしげと眺める。
「そういうもんかね」
「そういうもんっす。それで、航空学校ってどんなところだったんすかね。いちおー自分らも選抜試験は受けさせられたんすよ、かすりもしなかったっすが」
だから、少し興味があるというミーチャに、ティモシーは航空学校での生活を振り返る。
「……あー、そうさな。基本は航空機――機密に触れるんで、俺も詳しいことは言えないんだが、新種の航空兵器だ。それに対する操縦技術の習熟と格闘訓練、戦術・戦略の概論に、戦史から文学までの色々な教養課目を含む諸学科、特に数学と物理、工学が中心だったな。ぶっちゃけ、俺が中退した大学よりレベルは高かった気もするが――」
まだ一月も経っていないのに、もう遥か昔、何年も前のことの様に思われた。そのことが奇妙におかしく、同時に少し寂しくもあった。
「……後は、給料が支給されるくらいか?」
説明にあきた風を装って、昔話はそれでお終いと、冗談めいた口ぶりで話を打ち切った。
唐突に襲った鼻頭を熱くさせる郷愁めいた寂寥感を振り払う様に、末尾を冗談で誤魔化した。そうしなければ、胸をつく感情の大波に堤は突き破られ泣き出してしまいそうだった。
ティモシーは、発作的な弱気を上手く隠し通した。
「エリートっす、エリートすよ。ステキッすね、格好良いっす、憧れるっす」
気付いた様子もなく囃し立てる。幸いだった。弱音を吐いた姿を見せるのは趣味ではない。
「っても、卒業式の最中にポカやって、今や左遷されてこんなドイナカ……っと悪ィ、この基地で益体もない書類に日がな一日サインしているだけだけれどな。つか、なんで空軍属の俺が陸軍基地に配属されてるのか、そこからして謎だろ」
ガシガシと頭を掻きむしりながらぼやく。
「まあ、謎ってか、考えるまでもなくあのババアの嫌がらせだろうがな」
「ババアってネコミヤ副師団長のコトっすか、コトっすね。マズイっす、マズイっすよ、聞こえたら飛ばされるっすよ」
「ってか、既に飛ばされて来たんだがなぁ、ここには。それで、ここ以上に飛ばされるところなんてあんのか?」
「ヤクーツクはまだ都会っす」
えへんと胸を張る。実際、仮にも人口二十万を越える一国の首都だ。明らかに都市であって町村ではない。日米の基準で見てしまうと霞んで見えるが。しかし、トーキョーやサッポロ、ニューヨークにボストンの様な大都市群こそ世界的に見れば異常な部類である。
そんな話をしているところへ、一人の中年男性が入ってきた。
「少尉。少尉。ご依頼のブツが完成しましたぜ」
「おお! 早かったな、恩にきるぜリュトフのおっさん!」
軍曹相当官の軍属である整備士のゲオルギー・マクシモーヴィチ・リュトフ。白に近い金髪のサンタクロースの様なヒゲを生やした厳つい大男で、加えてアル中すれすれの酒好きと、ロシア人と聞いて外国人が連想するイメージに近い男だった。
しかしシロクマじみた粗野で無骨な外見とは裏腹に、結構なインテリで、ドイツ語やフランス語、英語にも堪能な男だった。
言葉が通じるというのは大きい。一番最初に意気投合した相手だった。ミーチャなどとも会話はできるが、お互いの共通言語は日本語である。どちらにとっても母語ではなく、訛りのきつい日本語では細かなニュアンスまでは通じ合わない。
「なに、構いませんて、約束の品さえもらえれば」
「おう、もう用意はできてる。持って行ってくれ」
そう言って、ティモシーが事務机の引き出しから取り出したのは、一本のウィスキーだった。ボディのカッティングも美しいボトルには、砂糖楓の糖蜜を思わせる柔らかな琥珀色の液体が満ちている。
一本が数百ドルはする高級ウィスキーだ。
あまり多くもない給料の中から捻出し、大枚をはたいて購入した見返りの品だった。
「や、どうも、どうも」
受け取って、厳つい顔を嬉しげにほころばせる。そうすると怖ろしげな顔つきがどこか愛嬌を感じさせるものになる。
「あたしゃ、ウィスキーに目が無くてねえ。それじゃ、あたしはこれで。また、なんかあったら言って下さいな」
「ありがとさん。っても、そんな、何度も何度も頼んでいたら俺が干上がっちまうよ」
「違いない」
英語で笑いあう。ミーチャも首を傾げつつ、何を言っているのかまでは解からないまでも冗談か何かだと思ったものか、一緒になって笑っていた。
※
「撃破八、被害無し、総所要時間1分17秒。スゴイっすよ、いつもながら、おみごとっす」
興奮した声でミーチャが叫んでいる。
整備士リュトフ曰くの『ご依頼のブツ』とはフライトシュミレーターのことだった。実物に触れないならば、せめてシュミレーターで飛ぼうと考えたのだ。
しかし、陸軍の施設であるヤクーツク駐屯地には、まがりなりにもフライトシミュレーターと呼び得るものは、隊員のPCに入っているフライトゲームくらいしかなかった。
それで満足できるならば最初から苦労はない。
蛇の道は蛇。整備士であるリュトフはそれをどうにかした。各地の知り合いに打診して集めた予備部品を用いて、ちゃんと動くシミュレーターを、一基キッチリでっち上げたのだ。
「それに、どんどん精度が上がっているっすよ、これは1分切るのも間近っすね!」
「……そうだな」
対照的に面白く無さそうなティモシー。
「どうしたんすか?」
怪訝そうにたずねる。
「なんもしねーよ」
無論、何でもない訳はなかった。シミュレーターの完成した直後は嬉々として飛んでいたが、やはりシミュレーターはシミュレーターである。本物とは違う。最近では、シミュレーターで好成績をあげればあげるほど、実際との些細な違いが気になって、気が滅入ってくる始末だった。
それでも、やはり、シミュレーターでもなんでも飛行機に触っていないと落ち着かない。
もはや、ある種の中毒と禁断症状である。
頭を振り、不愉快な考えを追い出し、設定を変更して、再度プログラムを立ち上げる。
「あ、もう一回やるんすね。って、うひゃー、少尉、この条件は無茶っすよ」
ミーチャが大げさにうろたえる。
「レコードによると、今のところ、一人しかクリアーしてないっすよ」
「なら、俺が二人目になってやるよ」
「マズイっすよ、そんな目立つ真似したら、ただでさえ今でもギリギリのところで綱渡りしているってのに、今度こそバレるっす」
実のところ、このシミュレーターは正規のものではない。当然である。リュトフが予備部品から組上げた物なのだから。もっと言えば、端末に過ぎない。軍のネット上に無断で構築したルートを通して師団本部にあるシミュレータ本体に不正規取得のパスワードと偽造IDで割り込みをかけ、本体の余剰処理能力をこれまた無断で使用している。
「そうだな――」
「そうだな、ってそんな呑気な」
危惧するのも当然か。言うまでもなく、事が露顕すれば厳罰ものである。
「だが、俺はそれでもする。空が、偽者でも空がそこにあるからだ」
「うっす、バカみたいっすけど、カッコ良いっす」
「へっ、今更だな。俺はヒコーキバカだからな。そして、バカは昔っから格好良いって決まってるんだよ」
ヒコーキバカが啖呵を切り、流線型の航空機が大空を飛んで行く。
なんだかんだと言いはするが、ティモシーも飛んでいる最中には違和感を感じることはほぼなかった。偽者の、データのみの空だが、そうとは感じさせない鮮やかな大空だった。
そこは確かに彼の愛した大空だった。
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