後書きと言うよりも、ある種の解題。

 舞台は西暦1913年初頭の英国ロンドン。それは作中の『ギーターンジャリ』及びその著者タゴールへの言及によって明らかとなる。
 ぶっちゃけると、前後の詳細は知らないのだが、くだんのイェイツによる序文が1912年9月に書かれているので、また調べた範囲では、それは『ポエトリ』と言う雑誌(実はロンドンではなく、シカゴの雑誌なのだが)の同年12月号に掲載されたらしく、なおかつ1913年中にタゴールはノーベル文学賞を受賞しているので、その辺になるのではないかと。
 まあ、それはそれ、実のところ、時代背景はあまり関係ない。
 自分の才能に絶望した詩人の話なので、千年前でも、百年後でも、ストーリーそのものは成立しえる。
 で、話に虚実入り乱れているので、(嘘の方が多いが)虚と実を分けてみると。
 シェイクスピアに関しては言うまでもないが、言及されている他の三人の詩人(「ブレイク」「イェイツ」「タゴール」)もまた実在の詩人である。しかし、主人公リチャードとイーノス卿は架空の人物である。
 また、ニネヴェ図書館、あるいはアッシュールバニパルの図書館と、出土した楔形文字の刻まれた粘土板(25357点)も史実として、1845年にヘンリー・レイヤード卿により発掘されたが、『ナブ・アヘ・エリバ文書』なんてものは(多分)実在しない。
 ナブ・アヘ・エリバとは、中島敦の短編『文字禍』の主人公である老碩学の名前。
 時に、先ほど二人が架空の人物であると書いたが、架空とはいえモデルがいる、いると言ってそれも架空の人物であるのだが。
 気付いた人もいるかも知れないが、同じく中島敦の『山月記』、隴西の李徴と監察御史の袁サン(字が出ない)。
 驕慢な詩人と、その友人で温厚な高官。
『山月記』と中島敦は教科書に(多分、今でも)しばしば載せられている作家と作品なわけで、私の場合はこれと『名人伝』とがそうだった。
 だから名前も『山月記』からとってきている。
――隴西の隴には丘という意味がある。丘の西で(ウェストヒル)。李微は音で(リチョウ→リチャード)
――監察御史→御史台→蘭台寺→ランド・チャーチ→チャーチランド。袁サン(EnSan→Enos)

 そもそもの執筆の動機、あるいはネタを思いついた背景は、作中に引用しているブレイクの「TYGER」を個人的に和訳したことによる。
 和訳し終えてから、したはしたが、これを一体どうするか、となやむことしばし、とりあえずブログに上げてみたりもしたのだが、そうこうするうち、ふいに、虎つながりなのか『山月記』とこれが結びついて、ネタの原型が出来上がった。
 高慢ゆえ貧窮した詩人が、やがて……。
 高慢さの象徴としての、東洋人への蔑視。認められない宗主国の詩人と、植民地出身のやがてはノーベル賞を受賞する大詩人との対比。それゆえのベンガルトラだったりもする。ああ、それに言葉と文字で、中島敦つながりで『文字禍』もありだなぁ。と、いった感じで。

 作中に引用している、ブレイクの"TYGER"の和訳は、筆者によるものであり、筆者なりの解釈である。
 もっと優れた名訳が幾つも存在するにもかかわらず、これを用いたのは、色々と思うところあってのものではあるのだが、決め手となったのはやはり、この和訳作業こそが、執筆動機であったということを明らかな形で残すためだろうか。


   以下、あまり役に立たない極めて恣意的かつ主観的な註釈。
   具体的になにがどう役に立たないかと言うと、本編とほとんど関係ないことの解説に終始しているため。


1.W.ブレイク(William Blake,1757年11月28日-1827年8月12日)
 英国の画家・詩人。スヴェーデンボリの影響を強く受けた〈幻視者〉の異名を取る神秘主義的な作風の持ち主で、唯理神ユリゼンやティリエル、ザゼルの兄弟、オルクらのデーモンなど独自のブレイク神学を構築したのだそうな……あまり詳しくないので突っ込んでくれるな。
 某SF小説の影響(?)でか、詩の中では"THE TYGER(虎よ! 虎よ!)"がわりあいによく知られている。

2.W.B.イェイツ(William Butler Yeats,1865年6月13日-1939年1月28日)
 アイルランドの詩人・劇作家。1923年度ノーベル文学賞受賞者にして魔術師(冗談ではなく)。
 アイルランド文芸復興運動の初期の推進者、ケルト神話・妖精譚の収集者。多分、日本国内でまとまって読めるケルトの民話・妖精関連本としては、彼の『ケルト妖精物語』(並びに『ケルト幻想物語』『ケルトの薄明』。全て井村君江の編訳によりちくま文庫に収録されている)あたりが入手が容易であり質的にも高いのではないかと。
 また作中、主人公リチャードは時代遅れと酷評されているが、この頃のイェイツもまた友人であり秘書であるエズラ・パウンドからその古文調を批判されており、自身も詩の現代化を試行錯誤している。当時の時代性として、モダニズムが吹き荒れていたってのがある。
 なお、名高い英国の魔術結社「黄金の夜明け団(GD団、ゴールデン・ドーン、The Hermetic Order of the Golden Dawn)」の一員だったりする。どころか、メイザース追放後の混乱期には一時、指導者にさえなっている(実効力はほぼ皆無だったらしいが)。
 神秘主義者としては、友人と地元ダブリンに「ヘルメス協会」なる秘教結社を組織してみたり、ブラヴァッキーの神智学協会に入会したりしている。協会を退会後、GD団に参入したわけだが、そっちの才能はあまりなかったらしく、さほど重んじられていた気配が無い。と言うより教団内での彼の立場は親交のあったマグレガー・メイザースやフローレンス・ファーら首領の権威を後ろ盾に成立してたらしいね、どうも。

 M.メイザース(MacGregor Mathers,1854年1月8日-1918年11月21日)
 本名:サミュエル・リデル・メイザース(M,Samuel Liddel)。マクレガー・マサースとも。
 一言で言うと、変なオッサン。二言で言うと、近代魔術の確立者の一人たる儀式魔術の天才。
 1888年に師匠であるウェストコットやウッドマンらと共にGD団を創設するも、その後の独断専行が過ぎて、1900年同団の嫌われ者アレイスター・クロウリーもろともイェイツらによって追放されている。その後大方の予想通り順調に、クロウリーとの仲もほどなく破綻。
 もちろん魔術師としても優れていたのだろうが、その本領はむしろ『ゾハール(光輝の書)』『ソロモンの大鍵』『ゲーティア』と言った幻想小説とRPGのネタ本、もとい多くのグリモア(奥義書・魔術書の意)の翻訳・編集者としてこそ発揮された感がある。
 幻想水滸伝2の大魔術師メイザースのモデルなわけだが、現実では逆に彼の方がクロウリーの師匠にあたるんよ。
 二十世紀最大の魔術師などとも呼ばれたりするクロウリーは――マスター・テリオンって言った方が通りが良いかもしれないが――あの御仁のモデルになった稀代のロクデナシ。筆者は以前よりこの人物の著した名高い奇書『ムーンチャイルド』(創元推理文庫)を探しているのだが未だに巡り合えない。まあ、地元の県立図書館に行けばあるみたいなんだけれどね、めんどくさがって行っていないだけで。
 漏れ聞くところによると、美化されまくった著者クロウリーの化身たる魔術師シリル・グレイが「月の子」と呼ばれるホムンクルスを巡って、悪の魔術結社ブラックロッジと対決するという筋立ての、爆笑のコミック・ホラーらしいのだが。

3.R.タゴール(Rabindranath Tagore,1861年5月7日 - 1941年8月7日)
 英領インド、分割統治以前のベンガル州カルカッタ(現在の西ベンガル州の州都コルカタ)出身の詩人・思想家・教育者。
 1913年にアジア人として初めてノーベル文学賞を受賞。厳密に言えばこの賞は一つの作品にではなく作家の業績全てに対して与えられるものであるが『ギーターンジャリ』によって英米に知られるようになったわけだ。そういう記念碑的作品。
 詩集はタゴール本人によって英語で書かれた(翻訳された)わけだが、作中のリチャードが行ったようないわれなき中傷・疑念(イェイツなどイギリスの詩人による加筆修正がなされたのではないか)を現実に受けていたようである。英国のみならずインドでさえ。
 まあ、優れた人物が往々にして受ける小物どもの嫉妬だね。「へっ負け犬の遠吠えが心地よい」とタゴールが言ったかどうかは知らないが、多分言っていないだろう。それで勝手に加筆者扱いされたブレイクは激怒しているがそれも当然。双方に対する侮辱だからね。
     『ギタンジャリ』……日本語。青空文庫
     "GITANJALI"……英語。グーテンベルクプロジェクト(Project Gutenberg)


4.中島 敦(なかじま あつし、1909年5月5日 - 1942年12月4日)
 1942年「文学界」掲載の『古譚(『山月記』と『文字禍』の総称)』にてデビュー。次いで発表した『光と風と夢』(原題『ツシタラの死』)も好評を博すが、持病の喘息の悪化により同年12月三十三歳にて夭折。『李陵』など多くの作品は死後に発表された遺稿である。
 何十年も前に死んだ人物をどうこう言っても仕方がないのだが、そのわずかに一年足らずと言う早すぎる死が惜しまれる、本当に。
 ちなみに筆者は個人的に『悟浄出世』『悟浄歎異』が好きだが、それは別にどうでも良い。
 なお、中島敦の作品は、ほぼ全てが「青空文庫」で読めるので興味があれば是非読もう。

5.パルソローン族のトァン
 ケルト神話の語り部トァン・マッカレル(Toan MacKarel/マッカラルとも)のこと。
 その彼が語ったという体裁をとる『侵略の書』という物があり、これにはアイルランドにどのような種族がやってきたかが記されている。
 侵入してきた種族は五つ。パルソローン(Partholan)、ニュヴズ(Nemed)、フィル・ボルグ(FirBolgs)、トゥアハ・デ・ダナン(TuathaDeDanann)、マイリージャ(Milesians)の順で、最後のマイリージャの頃から人間の時代(英雄の時代)に入っていく。
 侵略の書と呼ばれるのは、各種族がアイルランドの外からやって来て、フォモール族など先住の種族と戦って征服したため。
 彼は最初に西方からアイルランドにやってきた神々パルソローン族(Partholan/パーソロン、パーホロンとも。実はパーソロンが一番普及しているのだが、筆者は個人的にパルソローンの方が好きなのでこれで通す)の一員であった。
 ある時、疫病によってトァンを残してパルソローンの一族は滅び、その頃、身体に変化が起きてトァンは牡鹿に生まれ変わった。
 そんなある日、新たな種族ニュブズの一族がやって来て繁栄する。しかし不思議なことに三家族を残して皆海にのまれて死に絶えてしまう。残った三家族はそれぞれブリテン島の王、フィル・ボルグ族、ダーナ神族となった。
 その頃また身体に変化が起きたトァンが、今度は猪の王に生まれ変わってしばらくした頃、また新しい種族がやってきた。
 動物の皮袋の船に乗ってやってきたフィル・ボルグの一族で、彼らはアイルランドを五つの地域(アルスター、コナート、ミース、レンスター、ミュンスター)に分割して生活した。その頃、トァンは海鷲に生まれ変わっていた。
 女神ダヌより産まれた一族トゥアハ・デ・ダナン(ダーナの一族)が雲に乗ってやってきて、二度に亘るマー・トゥーラ大戦の結果フィル・ボルグ族とフォモール族を打ち倒したダーナの一族がアイルランドを支配した。
 ある時、マイリージャ族のイスがアイルランドを訪れるも、いきちがいから殺されてしまう。それを知って怒り狂ったマイリージャ族は復讐を誓い、ティルタウンの平原での戦いの結果、アイルランドを征服した。そして逃げ延びたダーナの一族は地下に住むこととなって、その国をティル・ナ・ノーグ(Tir na n'Og/常若の国)と言い、彼らこそ眼に見えぬ妖精(シー)の正体である。
 その頃、また身体に変化の起きたトァンは今度は鮭に生まれ変わり、漁師の網にかかってマイリージャ族のカレルの妻カラルに食べられてしまった。そしてカラルの子宮に落ちたトァンは、カレルの息子のトァン(トァン・マッカレル)となって再び生まれ変わり、アイルランドの歴史を語ったものが『侵略の書』の全貌で、この頃をダーナ神話と呼ぶようだ。
 ク・ホリン(「ホリンの猛犬」の意。クー・フーリンの方が通りが良いようだがやはり筆者はこっちのが好きなのさ)の時代はアルスター神話。フィン・マックールの時代はフィアナ神話とそれぞれ呼ばれるみたい。アルスターは地名に由来するわけだが、フィアナの方はフィン・マックールが率いたフィアナ騎士団から名前をとって呼ばれるようだ。この辺まで来ると神話ではなく英雄物語だけれど。
 それにしてもなんだろうね、筆者は別に自分ではマイナー好きな自覚はないのだけれど、結果的にあまり有名ではない方に魅力を感じている自分を発見することが多々ある。この場合も、ク・ホリンに比べるとよりマイナーなフィンの方が好きなのだよ。

6.アッシュールバニパル王(Ashurbanipal,在位:紀元前668年-紀元前627年頃)
 新アッシリア王国(全オリエントを支配したアッシリア帝国)最盛期の王。
 教養深い好学の人であったようで、アッシリア全土に書記を派遣してありとあらゆる書物(この時代は粘土板)を集めさせ、蔵書家にはその蔵書を供出させて写本をつくり、王国の首都ニネヴェに大図書館を建設した。
 ちなみにその集められた原本はその後、無理矢理集めるだけ集めて返却されなかったらしい。読書人にありがちな自分さえよければそれで良いの典型。筆者としてもその気持ちは充分に理解し共感出来てしまうのだが、ともかく傍迷惑な王様だこと。

7.「塵に過ぎない我々は、ただ再び塵に返るばかり」
 いわゆる「灰は灰に、塵は塵に、土は土に」と同じくらいの意味。左記は葬式の際に用いられる説教の決まり文句。
 この"Ashes to Ashes"の形での出典はいまいちよく解からないのだが、灰はどっから出てきたのだ? あっ死体の意味か。で、まあ恐らく大元は『旧約聖書』中「創世記」第3章「蛇の誘惑(失楽園)」19節「お前は顔に汗を流してパンを得る土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る」(新共同訳聖書より)だろうと思われ、筆者もそれを念頭においてリチャードに言わせている。

8.ジュリエット
 言わずもがな、ウィリアム・シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』
 これは有名な話なのだが、色男ロミオは十五歳でジュリエットにいたってはあと二週間で十四歳になる娘――つまり十三歳なわけよ。そして全てはわずか四日ないし五日間の出来事だったりする。……ちっ、これだから血の気の有り余ってやがるラテンのイタ公はっ!(暴言)
 この作品においてシェイクスピアは、個人の性格による悲劇をではなく周囲の状況による逃れがたい運命を描いたのだってな説もあるのだが、個々の事象を抜き出して見れば状況判断の出来ていないキレ易い若者とワガママな小娘が出会い、雰囲気に酔ってバーっと盛り上がった後、相互の連絡の不行き届きの結果としての当然の自滅の物語ってのが実際。
 筆者は断然、ジュリエットに袖にされたパリスに同情的である。
 いわゆる「傷物」な花嫁をあてがわれそうになったかと思えば、その花嫁はさもあてつけのように悲劇の主人公ぶって自殺してくれるのだから、本人は何も悪いことしていないのに貴族階級の男性としての面目は丸つぶれ。貴族の社会、社交界だなんて噂話の支配する世界でこんな醜聞は命取りになりかねない。あまつさえ二人の死でロミオのモンタギュー家とジュリエットのキャピレット家は和解するときた。
 いわれなき白眼視を受けただろうし、本人も別に悪くないのに良心の呵責を覚えずにはいられなかったのではないか?
 だがしかし喜べパリスよ。こう考えれば何も悪いことは無いのだ。貴族としての義務をまるっきり理解していなかったお馬鹿さんなジュリエットを妻に迎えていては、いつかお家の大事をきたしかねなかったのだから。

※訂正。終盤でパリスはロミオに斬りかかり、反撃で死亡するので、良心の呵責も何もない。少し、勘違いがあった模様。

9.エウテルペ(Euterpe)
 その名は「喜ばしい女」を意味する、ギリシア神話の文芸の女神ムーサイの一柱で音楽と抒情詩を司るムーサ。ムーサの複数形がムーサイでミューズはその英語読み。ムジカ(ミュージック)やミュージアムなどはこの女神たちにちなむ。
 記憶の女神ムネーモシュネーとゼウスの間に生まれた娘とするのはヘシオドスの『神統記』。異伝多く、ハルモニアやガイアの娘とするものもある。九柱にまとめたのもヘシオドスである。各女神が司る領域と名前については自分で事典を引きましょう。
 決して、面倒くさいわけではないよ、自分で調べなければ身に付くものじゃないからですよ、いえ、本当に。

10.ソドミー(Sodmy)
 いわゆるソドムの罪だね。
 一般的には男色のことだが、これは要するに(ユダヤ・キリスト教的に見て)異常性愛全般、「自然に反する罪」を指すわけだ。だから、獣姦やらレズビアン、近親相姦も含みうるわけだが、この自然・異常ってのが曲者でね。何を基準に正常異常を分かつのかって問題がある。
 正常といえば連想されるのは正常位だろうが、これは英語だと「宣教師の体位(missionary position)」と呼ばれる。キリスト教会は元来この体位しか認めていなかったらしいのよ。その理由は本当のところは不明だが、動物の多くが後背位を取るのに対して人間は向かい合うのが自然な体勢なのだ、と言う思想があったのは確からしい。そうなってくると、人間に知恵を与え堕落させた蛇などの爬虫類も向かい合って性交することがあるってのは中々皮肉が利いていて面白いと思うのは筆者だけだろうか?
 それとして自然。父親ユダの命令で未亡人の兄嫁を抱かされるも、義姉が孕んだとしてもその子供が自分の子供とはならないと知っていたのでいじけちまったオナンは反抗して避妊したもんだから、哀れオナンがズンバラリと殺される顛末を記す、創世記第38章6‐10節を見ても解かるように、生殖に結びつかない結合は全部禁忌ってな具合だから手だの足だの口だの胸だの尻穴だのはもう完全にアウト。不自然に道具を使ってみたり、更なる快楽を求めて四十八手がどうたら言うのは言語道断なわけだ。
 欧米諸国でたびたび話題になる同性同士の結婚を許可するか否か、避妊や中絶に関するスタンスが政治家の去就を決めるのの根っこもこれ。日本人である筆者なんかはしたい人がいるなら個人の自由でさしてやりゃ良いのにとか思ってしまうのだがそう簡単なことでもないらしい。なんせ未だにコンドームの使用を罪悪と考える人もいるくらいだし。
 あ、ちなみにコンドームの語源は異説あって真相は不明なのだが、二大潮流としてチャールズ2世だったかの典医ドクター・コンドームからってのと、フランスのコンドン村で作られていたからってのがある。なお、日本製が一番品質が良いのだそうだ……ってありゃ?
 話を戻すと、「汝姦淫するなかれ」はモーゼの十戒にも出てくる基本中の基本だが――仏教にも在家信徒の守るべき五戒の一つに「不邪淫戒(伴侶以外の異性と交わるな)」がある。と言うか、古今東西人間が人間としてある世界では戒律以前の普遍的な考え方だと思うのだが如何に? ――レビ記に依拠すりゃこうなる。
 第20章13節「女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる」ことで、同16節「いかなる動物とであれ、これに近づいて交わる女と動物を殺さねばならない。彼らは必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる」んだそうな。現代人の筆者なんかは一緒に殺される動物こそいい迷惑だと思うんだが、筆者たち現代日本人の倫理観ってなものは、いくつもある考え方の中の一つに過ぎないからね、それでもって過去や異集団を批判・断罪してはいけないのよ。
 ちなみに、ソドムとゴモラの罪は色々とあるわけだが、色欲ではなく異邦人に対する非寛容こそが真の罪ではなかったか、てな説もある。
 つまり、自己中心的にただただ己の欲望を追求していった結果、他者に対する寛容を失っていたことこそが罪なのであって、過剰な淫行、性的欲求の追及はその一つの象徴に過ぎないとする立場。
 これなんかは、蘇民将来の説話とどこか似ているような気もするね。



2006.7.22

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