黒い、どこまでも
私の無能を指摘し、
「確かに、優れた詩だ。格調高く、
黒衣の、稲光の逆光に
男とも女とも、若いとも老いたるとも知れない奇妙な声。全体としては、籠もった風、澱んだ水が濁ってぬめるように
不覚にも自分はその言葉に、一瞬浮かれてしまうのだ。
何度も、何度でも、聞くたびに、繰り返し。
なんという愚か者だ! その後に続く言葉を幾度聞いたとも知れないというのに。
「
それはありふれた接続詞。だが効果は絶大だ。その後を、声の調子を変えることもせず、淡々と男は続ける。
「それだけだ。それくらいの人間は、才能の
私は、凍りつき、そして
この、俺を、凡百の、詩人
私は怒り、衝動に任せて男を打ちのめし、罵倒する。
殴り、殴って、己にの拳が割れるのにも構わず、莫迦のように殴り続ける。
元より眼に見えなかったその顔を、造作それ自体の段階からそもそも判然としない肉の塊に、
暴力は興奮をもたらし、興奮の熱狂は私の心を慰める。
暴力、興奮、熱狂……そして、快楽!
歓喜の内に哄笑し、喜悦の果てに
だが、それは……嘘だ!
空虚の中、私は
虚偽、偽り、自己欺瞞。
仕方がないではないか……。私は明日の食事を恐れたのだ。俺は
自分の卑屈な自尊心への嫌悪にか、男への憎悪にか、背筋から全身に冷たい
にわかに天は
「そう……」
そして男は、特に嘲笑するでもなく淡々と最後に止めの言葉を告げる。
「こんなチープな、ありふれた心象風景の描写にこそ、貴方の
――虎よ!
どんな死なざる者の手が、
悪夢の余韻の中を、売れない詩人リチャード・ウェストヒルは静かに眼を覚ます。
この悪夢はいつものことで、ヤケッパチの安酒と、その持ち越しの
当たり前のこと過ぎて、その苦しみも鈍くなってしまった今、悪夢にはもはや私を飛び起きさせる力もないほどに。
ヘドの詰まった胃袋と、アルコール漬けの脳味噌は、うっすら靄がかった精神を酷使し、ぼんやりと考える。
結局のところ、男の批評は間違っていない。
そしてあれは、黒衣の男は新聞社の編集者ではない。
編集者であって編集者でなく、評論家であり、同業者であり、読者であって、また同時にそれはそのどれでもない。
夢を見るのは自分自身。認められないことに対する憤りと自分の才能を信じきれない生半可な覚悟の見せる幻影、
私の作る詩は、技巧ばかりで心が籠もっていないらしい。
そして、どれもこれも時代遅れで、読者の求めるものを外している。時流に合致していないのだそうだ。
そして、あろうことか、
「そう、ミスタ・ウェストヒル。知っていますか、最近の英国の文壇にて持て
そう言って、一冊の詩集を私に手渡してくれた。
なんて、あり難い話だろうか!
貧乏人には詩集を
馬のぶっとい
それで、そのうざったらしい口を塞いで、どうかお喋りを止めてくれ!
大上段から見下ろした、憐憫も不要だ……。
解かってるんだよ、アンタがたに、言われるまでも無く。
……ああ、素晴らしい詩だったとも、純粋な詩だ、あんなものは俺には書けない。
だが、ああ、だがっ!
「……あんなものが、インディアンに書けるものか。大方をイェイツが加筆修正したに決まっている!」
ああ、そうとも、書けてたまるか、アジアの植民地の、英国の属国の人間にあんなものが!
糞!
糞っ!
糞っ!!
私は寝台を、力一杯にただただ叩きつづけた。ぎしぎしと揺れる寝台の上。
ああ、解かっている。解かっているさ、こんなものはただの負け惜しみだ。
「〜〜〜〜〜〜〜〜!」
ぼうっとした眩暈と強烈なえずき。獣の様に大きく叫んで、そして、突発的な、しかし同時に慢性的でもある
生暖かい湯気の立つそれを、無感動に眺める。強烈なすえた匂いに頭がはっきりとしてくる。
例によって、昨晩の乱行は記憶に無いが、どうやら兎を食ったらしい。
だが、何だ、毛の束、兎の毛か?
どうして、そんなものが自分の胃の中に入っているのやら。
謎だ。まるで、兎を生で、毛の生えたままの生きた兎を丸呑みにでもしたような。
いや、それとも、本当にそうなのか?
だったら笑えるな、酔っ払ってそこまでやるようになったか。
はっは、美味かったかよ、おい、俺の胃袋、俺の舌!
「……ケダモノかよ」
――いずくかの遠きわだつみに、大空に、汝の眼の
造化の神は、いかなる翼を駆って、天翔けたのか?
敢えて、汝の焔を掴みし手はどんなものか?
ケダモノは嫌いだ。
臭くて、汚らしくて、
どうしてこんなものを、ありがたがって見に来たがるのかが解からない。
その解からない自分が動物園に居るのが滑稽だった。
リージェント・パークの北東に存在する
ロンドン最古――それは世界最古ということでもある、動物園。
本当を言うと、入園料を支払うのも辛いのだが、父親としての精一杯の見栄だ。
詩業拙く、何の義務も果たしていない、甲斐性なしの言えた義理ではないが。
それで、半日付き合って実感させられるのは、子供こそまさしく、動物だと言うことだ。
騒々しくて、疲れを知らない。くたびれた中年男は、ただ、ただ、振り回されるばかり。
サイだ、ゴリラだ、キリンだと北へ南へせわしなく、連れまわされるさなか、私は彼女と出会った。
一頭の
アジアは、遠くインドから連れてこられた虎だ。
その姿は、ブレイクが詠ったように、恐ろしいまでの均整美。
その畏怖すべき美に、私はたちまち魅了され、取り込まれた。
子供たちも、虎だ、格好良い、と興奮し騒ぐ。だがそれも「お父さん、次のところへ早く!」すぐに興味は別のところに移る。
ああ、まったく、急かす、ガキどもが煩わしい。
黙れ、この美しい獣を観賞する……いいや鑑賞の、この子羊を創った神が、敢えて創られた芸術品を愛でることの邪魔をするな。
そんなに別のところが見に行きたければ、自分たちで勝手に行け。
虫を払うように、子供たちをあしらう。
とうとう、泣き出してしまったが、それさえも気にならず、私はじぃっと虎を見つめ続けた。
初めて恋をした少年のように、うかされる熱病患者の風情で、大麻常習者が、悪寒と隣り合わせの恍惚の内に幻覚を凝視するように。
「美しい獣よ。私はお前を形容する言葉を持たない」
見つけられないもどかしさと、不可能性の歓喜。
手がかりを求めて、虎舎に掲示された説明文を読む。
「そうか、虎よ、お前はベンガルから来たのか……」
ベンガル?
そうい言えば、あのタゴールとか言う詩人もベンガルの人間だったか?
………………………………。
………………………………………………。
一気に醒めた。
虎への憧れはそのままに、不愉快だった、ただ嫌な気分だった。
まったく、美しいものは、全てアジアに産するようだ。
詩人しかり、獣しかり、香辛料も、茶もそうだ。なんとも素晴らしいことだな。
「帰るぞ!」
未だ泣く子供たちの手を無理矢理にひっぱる。
「泣くな。もう充分に見たはずだぞ!」
そんなはずはないだろう。だが、私はもはや此処には一秒だって居たくなかったのだ。
引きずって、妻の愛人の家へと子供たちを送り届ける。
子供の正直な瞳、不満そうな顔が眼に痛かった。
妻の皮肉も耳に痛い。
だが、私にはどうしたって耐えられなかったのだ!
――そして、いかなる肩、いかなる業が、汝の心の臓の筋を捻り得たのか?
そして、汝の心臓が脈打ち始めた時には、どんな恐るべき手、恐るべき足が用いられたのか?
「……どうしたって言うんだ、リチャード。その顔は、確かに君はもともと痩せぎすだったが、それではまるで……」
不吉だとして
知性の光る柔和な瞳に不安の影をきざすサー=イーノス・チャーチランド。大英帝国の
その
確かに私はやつれていた。元より筋肉は薄く、脂肪をため込めるような豊かな食生活とは無縁の私だ。骨と皮ばかり、
虎に対する憧れと忌避感。愛憎半ばする想いは私の中でいや増すばかり。
夜の床のうちで見る、悪夢が増えた。
変わらぬ黒い男の夢に、虎となって疾駆する夢だ。
夢の中で、私はどこまでも続く亜熱帯の密林の中を駆け巡るのだ。
昂揚感、安らぎ、そして、歓喜!
それらを脈動する心臓の音に感じる。
虎と化した私は、兎を狩る。この圧倒的な力、なんという瑞々しい律動感!
嬉々として臓物を掻きいだし、血を
それは果てしなく鮮明に、起きている状態でも、喜悦の残り火が胸に
美しく、心地よい悪夢、いつまでも夢の中、おぞましい喜悦に
だが、容赦なく目覚めは訪れる。
起き出した私は、あいかわらずただのしょぼくれた三十男だ、もう四十から数えた方が早い。
日雇いの労働も日に日に厳しくなる、それでもうしばらく行ってさえいない。
妬ましさすらも覚えている。それこそあさましい話だが。
「しばらく、外に出ていないからな。働いてもいないわけだから、食べる物、飲む物に事欠いている。そのせいだろう」
自嘲する。
「笑い事ではないぞ、リチャード、それは。せめて何かを食べなければ」
「金もないのにか? 靴や椅子を食うわけにはいかんだろう、ペンと紙はなおさらに」
私は詩人だから。
「冗談を言っている場合か」
「冗談、冗談か……はっは、冗談なものか!」
かっとなって、私は息を継ぐことも忘れて叫び散らした。
「……冗談なものか、冗談なものか、冗談なものか! お前に何が解かる、何が解かるって言うんだ!」
「リチャード……」
私は、年甲斐も無く涙をぼろぼろと零しながら、叫び続けた。
「えっ、自分は法律書ではなく詩集をこそ選ぶ? 詩業でこの身を立てていく、だって? くそぅっ現実を知らない
差しのべられたイーノスの手を振り払う。
「……リチャード」
「……済まん。出て行ってくれ。今は、誰にも会いたくないんだ」
うなだれる私をしばらく無言で眺め、何かを言いさしてやめ、それから敢えて何も言わず、イーノスは私の部屋を去った。
後に、数日は食べられる額の金を置いて。
屈辱と喜びのない交ぜになった感情。
無音。撃鉄の乾いた音もあっけなく、後にはなんにもない。血も脳漿も音さえも飛び散らず、部屋を汚すことはない。
「はっ……ははっ……ははははっ…………」
当然だ。銃弾が籠められていないのだから!
自分を殺す勇気などないし、他人を殺す勇気はもっとない。
元より護身用の
それでも、もしかすると入っているのではないか、という幻想にとらわれたのだ。そんなはずはないのに。
死は肉体の滅び、魂の
「ただし私は最後にだって、二度と
そう呟き、乾いた声で笑いながら、私は声なく泣いて、うめき続けた。ただ、ひたすらに。
そしていつのまにか眠って、また夢を見た。
虎は、風を従へ、月の下、独り、大地を、ひた奔る。
――鎚はどうか、鎖はどうか。
いかなる炉の内にて、汝の脳髄は
いかなる金床が、恐るべき膂力が、その死を懐かせる
そう言えば、以前にこんな物を読んだことがある。そう、あれは大英博物館でのことだ。
最近は妙に昔の事を思い出す。
古代アッシリアの粘土板。
そのアッシュールバニパル王の粘土板群の一つに『ナブ・アヘ・エリバ文書』という物がある。
それは〈文字の精霊〉について、悪疾の如く文字の霊がもたらす禍についてを王に奏上したものだ。
私が読んだのは、その完全かどうかも知れない解読の為された、英語の写本でのことだが。
驚嘆する。まったく、卓見から導かれる至言と言うべきことだ。
文字があるから人は苦しむのだ、詩人は相応しい文字を追い求め、そして果たせない。
ただの言葉、思いの段階で済むのならば、ここまで苦しみはしないのだ。
この感情を持て余す。
「美しい」
この一言ですむものに、何故これほどまで苦しまなければならないのか。
それはあの姿を、美を、活きた虎を表現できれば何かが救われる気がするからだ。
ただの錯覚だろう。
それでもしないではいられない。
虎は"TIGER"である。あるいはブレイクの
口に出せば同じ音に、文字の段階で囚われる。
「名前って何? バラと呼んでいる花を、別の名前にしてみても、美しい香りはそのまま」
シェイクスピアのジュリエットはそう語った。
だが、虎は虎なのである。決して、人ではあり得ない。
――星々がその星芒の槍を投げ下ろし、天を
神はその創造物たる汝を見て、果たして微笑まれたのか?
子羊を創りし神が、汝をもまた創ったというのか?
私は、再び虎の前に立った。
イーノスの置いていった……恵んでもらった金を、私は食事に使うことも無く、それで入園料を購った。
二週間ぶりに見る虎は、少し痩せたような気がする。
それとも勘違いだろうか、自己投影から来る思い込み?
今更どっちだって良い、私は気付いた。
「お前は、俺と同じだ」
囁く。
一流の建築家の設計になる、ロンドン・ズーの虎舎。囲い込まれた、大ロンドン。
虚栄の中に独りだ。
こんな所で飼育されるということは、結局、お前は人間に捕まったのだ。
お前は、虎の中では、一流ではなかったのだ。
俺もそうだ。文壇に、一流の詩人になれなかった。
黒衣は未だに自分を苛むが、不思議と以前ほどに苦痛と感じない。
絶望と諦観はどこか似ている。
私は私の、俺の才能を今でも信じているが、一流ではなかった、お前と出会ってそれを認めたとき少し楽になった。
俺は、お前の中に何を見たのだろうか?
均整のとれた美しさをではなくて、自己投影の自己憐憫だったのか? それとも弱さか?
ああ、もはやどうでも構うまい、確かにお前は美しいのだから。
やはり私はお前を言い表すに相応しい言葉を一つしか持てなかったよ。
人が詩を書くのではない。詩が人をして自らを書かしむるのだ。
虎よ、確かに天上には、お前の美を称える
虎よ、確かに天上には、お前の恐ろしさを言い表した
天には、
それでもなお、出てこないのは、
俺は、結局、詩人になれなかったのだ。
――虎よ! 烏羽玉の夜の森の内に、赫々と燃ゆる虎よ!
どんな死なざる者の手が、眼が、敢えて造ったのか、汝の恐るべき均整を?
ベンガルの大地。
歓喜と絶望の中を私はひた走る。
場面が変わる。
真昼のロンドン。石畳の大都会。
私はそれを不思議だとも不自然だとも思わない。
ただ、ただ、変わらず走り続ける。
人の叫び声、紳士淑女然とした人々の恐怖に引き
別になんとも思わない。
もっと嬉しいかと思ったが、嬉しくも無ければつまらなくもない。
全てがどこか遠い。
全てを当然の事として受け入れる。
ああ、それよりも何故、人は虎を恐れるのだ。
檻の中、柵の中にある虎を、猛獣をあれほど嬉々として眺めるというのに。
ああ、それにどうして人は、詩をあざ笑うのだ。
文字にならなかった詩を、一度時代遅れと宣言された詩を、どうしてそうも簡単に捨て去り、あざ笑えるのだ?
………………………………。
………………………………………………。
虎よ。
ああ、そうだとも、今は私こそが虎なのだ。
名も知らぬ、
私という虎は、その意識を
一発の銃声。
金切り声を押さえるその轟音と、彼女への思いを最後の記憶として、私の意識は闇へと沈んだ。
そして、もはや二度と浮上してくることは無かった。
名も知らぬ君よ、君ならば……判…るの、だ……か?
虎よ!
どんな死なざる者の手が、
いずくかの遠きわだつみに、大空に、汝の眼の
そして、いかなる肩、いかなる
そして、汝の心臓が脈打ち始めた時には、どんな恐るべき手、恐るべき足が用いられたのか
鎚はどうか、鎖はどうか。
いかなる炉の内にて、汝の脳髄は
いかなる金床が、恐るべき
星々がその星芒の槍を投げ下ろし、天を
神はその創造物たる汝を見て、果たして
虎よ! 烏羽玉の夜の森の内に、赫々と燃ゆる虎よ
どんな死なざる者の手が、眼が、敢えて造ったのか、汝の恐るべき均整を