悪夢は、一人の男の姿をとって現れる。
 黒い、どこまでもくろく、そしてうすぐらい男だ。
 私の無能を指摘し、糾弾きゅうだんし、嘲笑あざわらう悪意の化身。悪魔あるいはただの人間。
「確かに、優れた詩だ。格調高く、韻律いんりつも優雅にして美しい。作者の才能が一級であることを、光るものを感じさせる」
 黒衣の、稲光の逆光に顔貌かおかたちの判然としない男は、薄い笑みを浮かべながら――何故だ! 認識不可能なみえないのに、何故俺は男が笑っていると判るのか。しかしそれでも確かに笑っているのだ――常にそう切り出す。  
 男とも女とも、若いとも老いたるとも知れない奇妙な声。全体としては、籠もった風、澱んだ水が濁ってぬめるように曖昧模糊あいまいもことして、遠くから聞こえるような明瞭としない声であるのに、妙に感じるほど鮮明に発せられた言葉が理解出来る。出来てしまう。  
 不覚にも自分はその言葉に、一瞬浮かれてしまうのだ。  
 何度も、何度でも、聞くたびに、繰り返し。  
 なんという愚か者だ! その後に続く言葉を幾度聞いたとも知れないというのに。  
けれどもthough
 それはありふれた接続詞。だが効果は絶大だ。その後を、声の調子を変えることもせず、淡々と男は続ける。  
「それだけだ。それくらいの人間は、才能の片鱗へんりんを覗かせてくれる詩人志望、作家志望の人間など他に幾らでも、テムズの流れをせき止め、埋め立てられるくらい存在する」  
 私は、凍りつき、そして沸騰ふっとうする。
 この、俺を、凡百の、詩人もどき、作家まがいどもと同列に扱うと言うのか……!
 私は怒り、衝動に任せて男を打ちのめし、罵倒する。  
 殴り、殴って、己にの拳が割れるのにも構わず、莫迦のように殴り続ける。  
 元より眼に見えなかったその顔を、造作それ自体の段階からそもそも判然としない肉の塊に、挽肉ミンチにして、獣に食らわせるのだ。
 暴力は興奮をもたらし、興奮の熱狂は私の心を慰める。  
 暴力、興奮、熱狂……そして、快楽!  
 歓喜の内に哄笑し、喜悦の果てにオーガズムに達するいってしまう
 だが、それは……嘘だ!  
 空虚の中、私は項垂うなだれる。それは、自己を偽る虚しい嘘だから。
 虚偽、偽り、自己欺瞞。  
  現実の俺は、ただ、男の言葉に、あやふやな笑みを浮かべるばかり、作品の品評に対する礼をさえも述べて、すごすごと尻尾を巻いて引き返したのだ……畜生ダム
 仕方がないではないか……。私は明日の食事を恐れたのだ。俺はいさかうことを恐れたのだ。金に屈し、それを心の表では恥じながら、奥底では耐えたことにほっと安堵していたのだ。  
 自分の卑屈な自尊心への嫌悪にか、男への憎悪にか、背筋から全身に冷たい怖気おぞけが奔る。
  現実の、忘れようもなく、細部が薄れるに従って逆に、印象ばかり強くなる、過去に実際にあったそれは、よく晴れた春の日のことであったはずだが、夢の中ではいつも不気味な悪天候だ。  
 にわかに天は掻き曇かきくもり、見る者を不安にさせる暗雲、雷鳴と雷光が、ひょうを伴って鳴り響き、そして降りしきる。
「そう……」  
 そして男は、特に嘲笑するでもなく淡々と最後に止めの言葉を告げる。  
「こんなチープな、ありふれた心象風景の描写にこそ、貴方の独創性オリジナリティーの無さ、想像力の貧困さが現れているように思えますが」

――虎よ! 烏羽玉うばたまの夜の森の内に、赫々あかあかと燃ゆる虎よ!
    どんな死なざる者の手が、まなこが、造り得たのか、汝の恐るべき均整を?

 悪夢の余韻の中を、売れない詩人リチャード・ウェストヒルは静かに眼を覚ます。
  売れない詩人。つまり自分のことだ。たまに新聞や雑誌に掲載される詩と(不本意ながら)散文の原稿料、そしてそれ以上の大半を日雇い労働の賃金によって生活する……いいや、生活出来ていない詩人。  
 この悪夢はいつものことで、ヤケッパチの安酒と、その持ち越しの宿酔ふつかよいがまたそうであるように、今では見なかった朝のほうが寝覚めが悪いくらいに、私の生活と一体になっている。  
 当たり前のこと過ぎて、その苦しみも鈍くなってしまった今、悪夢にはもはや私を飛び起きさせる力もないほどに。  
 ヘドの詰まった胃袋と、アルコール漬けの脳味噌は、うっすら靄がかった精神を酷使し、ぼんやりと考える。  
 結局のところ、男の批評は間違っていない。  
  ただ才能があるだけでは認められないのだ、それをちゃんとした作品に昇華して始めて、作品は認められ、うずもれた才能とやらにも立つ瀬がある。無論、これはそもそも才能があればの話だが。  
 そしてあれは、黒衣の男は新聞社の編集者ではない。  
 編集者であって編集者でなく、評論家であり、同業者であり、読者であって、また同時にそれはそのどれでもない。  
 夢を見るのは自分自身。認められないことに対する憤りと自分の才能を信じきれない生半可な覚悟の見せる幻影、自己憐憫じこれんびんが形を変えた、自己を苛む下らない自己嫌悪だ。  
  近ごろ、新聞社との関係が眼に見えて上手くいっていない。干されかけている。つまり、仕事を回してもらえず、たとえ詩を書いたとしても、新聞雑誌どこにも掲載してもらえないのだ。  
 私の作る詩は、技巧ばかりで心が籠もっていないらしい。  
 そして、どれもこれも時代遅れで、読者の求めるものを外している。時流に合致していないのだそうだ。  
 そして、あろうことか、  
「そう、ミスタ・ウェストヒル。知っていますか、最近の英国の文壇にて持てはやされている、一冊の詩集の存在を?」
 そう言って、一冊の詩集を私に手渡してくれた。  
 なんて、あり難い話だろうか!  
 貧乏人には詩集をあがなう金も無いと……ああ、くそっ、慈悲深くも慎み深い、男色ソドミー)の獣姦野郎!
 馬のぶっとい一物いちもつ、盛大に咥え込んで、レロレロ、レロレロ、口唇愛撫フェラティオをしくさって、馬の陰茎いんけい喉に詰めやがれ!
 それで、そのうざったらしい口を塞いで、どうかお喋りを止めてくれ!  
 大上段から見下ろした、憐憫も不要だ……。  
 解かってるんだよ、アンタがたに、言われるまでも無く。  
  だから当然、貸してくれるまでもない、既に読んだとも、あのウィリアム・バトラー・イェイツが序文を献じている『ギーターンジャリ』とやらに、ラビンドラナート・タゴールとか言う、聞いたことも無いインド人インディアン
……ああ、素晴らしい詩だったとも、純粋な詩だ、あんなものは俺には書けない。  
 だが、ああ、だがっ!  
「……あんなものが、インディアンに書けるものか。大方をイェイツが加筆修正したに決まっている!」  
 ああ、そうとも、書けてたまるか、アジアの植民地の、英国の属国の人間にあんなものが!  
 糞!  
  糞っ!  
   糞っ!!  
 私は寝台を、力一杯にただただ叩きつづけた。ぎしぎしと揺れる寝台の上。  
 ああ、解かっている。解かっているさ、こんなものはただの負け惜しみだ。  
「〜〜〜〜〜〜〜〜!」  
 ぼうっとした眩暈と強烈なえずき。獣の様に大きく叫んで、そして、突発的な、しかし同時に慢性的でもある嘔吐おうとの衝動に、昨晩の酒と半溶けの貧相な料理の残骸がごっちゃになった、泥の塊を床の上へと吐き散らした。  
 生暖かい湯気の立つそれを、無感動に眺める。強烈なすえた匂いに頭がはっきりとしてくる。  
 例によって、昨晩の乱行は記憶に無いが、どうやら兎を食ったらしい。  
 だが、何だ、毛の束、兎の毛か?  
 どうして、そんなものが自分の胃の中に入っているのやら。  
 謎だ。まるで、兎を生で、毛の生えたままの生きた兎を丸呑みにでもしたような。  
 いや、それとも、本当にそうなのか?  
 だったら笑えるな、酔っ払ってそこまでやるようになったか。  
 はっは、美味かったかよ、おい、俺の胃袋、俺の舌!  
「……ケダモノかよ」  

――いずくかの遠きわだつみに、大空に、汝の眼のほのおは燃えていたのか?
    造化の神は、いかなる翼を駆って、天翔けたのか?  
    敢えて、汝の焔を掴みし手はどんなものか?  

 ケダモノは嫌いだ。  
 臭くて、汚らしくて、やかましい。
 どうしてこんなものを、ありがたがって見に来たがるのかが解からない。  
 その解からない自分が動物園に居るのが滑稽だった。  
 リージェント・パークの北東に存在するロンドン動物園ロンドン・ズー
 ロンドン最古――それは世界最古ということでもある、動物園。  
  久しぶりに会った子供たちが、来たがったので連れてきた。子供たちとは、ずいぶんと前から別居中の妻とその愛人の下で暮らしているので普段は会うことがない。  
 本当を言うと、入園料を支払うのも辛いのだが、父親としての精一杯の見栄だ。  
 詩業拙く、何の義務も果たしていない、甲斐性なしの言えた義理ではないが。  
 それで、半日付き合って実感させられるのは、子供こそまさしく、動物だと言うことだ。  
 騒々しくて、疲れを知らない。くたびれた中年男は、ただ、ただ、振り回されるばかり。  
 サイだ、ゴリラだ、キリンだと北へ南へせわしなく、連れまわされるさなか、私は彼女と出会った。  
 一頭の雌虎タイガリス
 アジアは、遠くインドから連れてこられた虎だ。  
 その姿は、ブレイクが詠ったように、恐ろしいまでの均整美。  
 炯々けいけいと輝く瞳は燃える篝火かがりびのようで、黄金の体躯に走る黒縞も美しく、頭の始めから尻尾の終わりまで一切の無駄もあり得ない。
 その畏怖すべき美に、私はたちまち魅了され、取り込まれた。  
 子供たちも、虎だ、格好良い、と興奮し騒ぐ。だがそれも「お父さん、次のところへ早く!」すぐに興味は別のところに移る。  
 ああ、まったく、急かす、ガキどもが煩わしい。  
 黙れ、この美しい獣を観賞する……いいや鑑賞の、この子羊を創った神が、敢えて創られた芸術品を愛でることの邪魔をするな。  
 そんなに別のところが見に行きたければ、自分たちで勝手に行け。  
 虫を払うように、子供たちをあしらう。  
 とうとう、泣き出してしまったが、それさえも気にならず、私はじぃっと虎を見つめ続けた。  
 初めて恋をした少年のように、うかされる熱病患者の風情で、大麻常習者が、悪寒と隣り合わせの恍惚の内に幻覚を凝視するように。  
「美しい獣よ。私はお前を形容する言葉を持たない」  
 見つけられないもどかしさと、不可能性の歓喜。  
 手がかりを求めて、虎舎に掲示された説明文を読む。  
「そうか、虎よ、お前はベンガルから来たのか……」  
 ベンガル?  
 そうい言えば、あのタゴールとか言う詩人もベンガルの人間だったか?  
………………………………。  
………………………………………………。  
 一気に醒めた。  
 虎への憧れはそのままに、不愉快だった、ただ嫌な気分だった。  
 まったく、美しいものは、全てアジアに産するようだ。  
 詩人しかり、獣しかり、香辛料も、茶もそうだ。なんとも素晴らしいことだな。  
「帰るぞ!」  
 未だ泣く子供たちの手を無理矢理にひっぱる。  
「泣くな。もう充分に見たはずだぞ!」  
 そんなはずはないだろう。だが、私はもはや此処には一秒だって居たくなかったのだ。  
 引きずって、妻の愛人の家へと子供たちを送り届ける。  
 子供の正直な瞳、不満そうな顔が眼に痛かった。  
 妻の皮肉も耳に痛い。  
 だが、私にはどうしたって耐えられなかったのだ!  

――そして、いかなる肩、いかなる業が、汝の心の臓の筋を捻り得たのか?  
    そして、汝の心臓が脈打ち始めた時には、どんな恐るべき手、恐るべき足が用いられたのか?  

「……どうしたって言うんだ、リチャード。その顔は、確かに君はもともと痩せぎすだったが、それではまるで……」  
 不吉だとしてかぶりを振り、飲み込んだ言葉は「骸骨ではないか」といったところだろう。  
 知性の光る柔和な瞳に不安の影をきざすサー=イーノス・チャーチランド。大英帝国の準男爵バロネット、詩人にして官僚。それとも官僚にして詩人でもあると言うべきか、ともかく有能な人物だ。そして温厚な人柄で、私の数少ない友人である。  
 その温厚篤実おんこうとくじつの権化たるイーノス卿が、私の家を訪れたのは、動物園に行った日から二週間ほど経過した頃だった。
 確かに私はやつれていた。元より筋肉は薄く、脂肪をため込めるような豊かな食生活とは無縁の私だ。骨と皮ばかり、海賊旗ジョリー・ロジャー髑髏されこうべ大アルカナタロットの十三番、草刈の大鎌を手に坊主と踊る黒衣の天使デスもかくやの浅ましい姿を晒している。
 虎に対する憧れと忌避感。愛憎半ばする想いは私の中でいや増すばかり。  
 夜の床のうちで見る、悪夢が増えた。  
 変わらぬ黒い男の夢に、虎となって疾駆する夢だ。  
 夢の中で、私はどこまでも続く亜熱帯の密林の中を駆け巡るのだ。  
 昂揚感、安らぎ、そして、歓喜!  
 それらを脈動する心臓の音に感じる。  
 虎と化した私は、兎を狩る。この圧倒的な力、なんという瑞々しい律動感!  
 嬉々として臓物を掻きいだし、血をすすり、脈打つ心臓の音が消えていくさまを陶然として聞くのだ。
 それは果てしなく鮮明に、起きている状態でも、喜悦の残り火が胸にくすぶり続けている。覚醒めざめながら、尚も夢みているかのようだ
 美しく、心地よい悪夢、いつまでも夢の中、おぞましい喜悦に耽溺たんできしていたい。
 だが、容赦なく目覚めは訪れる。  
 起き出した私は、あいかわらずただのしょぼくれた三十男だ、もう四十から数えた方が早い。  
 日雇いの労働も日に日に厳しくなる、それでもうしばらく行ってさえいない。  
  大学で法律を学んでいた頃は、私の方が常にイーノスの先を行っていたし、詩のいろはを教授したのも私だ。今ではすっかり立場が逆転してしまったようだが。  
 妬ましさすらも覚えている。それこそあさましい話だが。  
「しばらく、外に出ていないからな。働いてもいないわけだから、食べる物、飲む物に事欠いている。そのせいだろう」  
 自嘲する。  
「笑い事ではないぞ、リチャード、それは。せめて何かを食べなければ」  
「金もないのにか? 靴や椅子を食うわけにはいかんだろう、ペンと紙はなおさらに」  
 私は詩人だから。  
「冗談を言っている場合か」  
「冗談、冗談か……はっは、冗談なものか!」  
 かっとなって、私は息を継ぐことも忘れて叫び散らした。  
「……冗談なものか、冗談なものか、冗談なものか! お前に何が解かる、何が解かるって言うんだ!」  
「リチャード……」  
 無いんだよ、本当に無いんだよ金が。それ以上に無いのは詩才か? 完全に干されてしまったよ。ああ、それに、それにだ……あれ以来。先日、子供たちを連れて行った動物園で、彼女タイガリスを見て以来まったく、一行たりとも書けないんだよ。浮かばないんだ、何も、書くべきこと、書きたいことはこれほどに、今までに無いほど渦巻いているというのに、外には一切出てこないんだ……」  
 私は、年甲斐も無く涙をぼろぼろと零しながら、叫び続けた。  
「えっ、自分は法律書ではなく詩集をこそ選ぶ? 詩業でこの身を立てていく、だって? くそぅっ現実を知らない自惚うぬぼれた甘ちゃんが! ウェルズの装置があったなら、過去の自分を殺してやりたい……ええい、触るな!」  
 差しのべられたイーノスの手を振り払う。  
「……リチャード」  
「……済まん。出て行ってくれ。今は、誰にも会いたくないんだ」  
 うなだれる私をしばらく無言で眺め、何かを言いさしてやめ、それから敢えて何も言わず、イーノスは私の部屋を去った。  
 後に、数日は食べられる額の金を置いて。  
 屈辱と喜びのない交ぜになった感情。  
  それを持て余した私は、心中に絶望を弄び、半ば戯れに机の引出しから取り出した拳銃の銃口をこめかみに当て、わずかな躊躇いを抑えこんで、あまりにも軽い引き金を引く。  
 無音。撃鉄の乾いた音もあっけなく、後にはなんにもない。血も脳漿も音さえも飛び散らず、部屋を汚すことはない。  
「はっ……ははっ……ははははっ…………」  
 当然だ。銃弾が籠められていないのだから!  
 自分を殺す勇気などないし、他人を殺す勇気はもっとない。  
 元より護身用の虚仮威こけおどしだ。一応は弾薬もその隣に揃えてあるが、暴発を恐れて籠めたことさえない。
 それでも、もしかすると入っているのではないか、という幻想にとらわれたのだ。そんなはずはないのに。  
  死に幻想を持ってはいない。甘美なものか、ただの終わりだ。苦しいのか苦しくないのかさえ知っているわけもない。ケルトや東洋的な転生は信じていないし、この罰当りのロクデナシには審判の後の復活も見込みは無さそうだ。  
 死は肉体の滅び、魂の朽廃きゅうはい、 死者はただ腐れて土になる。失楽園のその時、神がアダムに言ったように、塵に過ぎない我々は、ただ再び塵に返るばかり。そこに例外などあるはずがない。  
  ああ、だが、それでも、もし本当に生まれ変わりがあるのならば、パルソローン族のトァンが牡鹿に変じ、次いで猪の王、海鷲、鮭へと転生を繰り返したように、私は虎に成りたい。  
「ただし私は最後にだって、二度と〈人間〉トァン・マク・カレルには成りたくはないな」
 そう呟き、乾いた声で笑いながら、私は声なく泣いて、うめき続けた。ただ、ひたすらに。  
 そしていつのまにか眠って、また夢を見た。  
 虎は、風を従へ、月の下、独り、大地を、ひた奔る。瀟々しょうしょうと月にえ、捷々しょうしょうとして爪牙そうが閃かし密林を駆ける。

――鎚はどうか、鎖はどうか。  
    いかなる炉の内にて、汝の脳髄は鋳入いこまれたのか?
    いかなる金床が、恐るべき膂力が、その死を懐かせるおそれを懐き得たのか?

 夢現ゆめうつつに考える。
 そう言えば、以前にこんな物を読んだことがある。そう、あれは大英博物館でのことだ。  
 最近は妙に昔の事を思い出す。  
 古代アッシリアの粘土板。  
  先ごろ、ヘンリー・レイヤード卿により発掘されたアッシリアのニネヴェ図書館。そこから出土し、現在は大英博物館に収蔵されている、二万五千点を越える粘土板だ。  
 そのアッシュールバニパル王の粘土板群の一つに『ナブ・アヘ・エリバ文書』という物がある。  
 それは〈文字の精霊〉について、悪疾の如く文字の霊がもたらす禍についてを王に奏上したものだ。  
  曰く「文字は実際の影である。獅子という字は本物の獅子の影であり、女と言う字を知った男は、女の影を抱く」のであり、「喜びも知恵も、本物が直接に人間の中には入ってこない」のだと記す。  
  そして終には「人が文字を使って物事を書き記すにあらず、文字こそが人を使って、物事を書き記させる」のだとさえ論を広げ「文字に対する盲目的崇拝を改めなければ、後悔してもしきれぬ事態が出来する」と、この古代の賢者は語るのだ。  
 私が読んだのは、その完全かどうかも知れない解読の為された、英語の写本でのことだが。  
 驚嘆する。まったく、卓見から導かれる至言と言うべきことだ。  
 文字があるから人は苦しむのだ、詩人は相応しい文字を追い求め、そして果たせない。  
 ただの言葉、思いの段階で済むのならば、ここまで苦しみはしないのだ。  
 この感情を持て余す。  
「美しい」  
 この一言ですむものに、何故これほどまで苦しまなければならないのか。  
 それはあの姿を、美を、活きた虎を表現できれば何かが救われる気がするからだ。  
 ただの錯覚だろう。  
 それでもしないではいられない。  
 虎は"TIGER"である。あるいはブレイクのつづったように"TYGER"か。
 口に出せば同じ音に、文字の段階で囚われる。  
「名前って何? バラと呼んでいる花を、別の名前にしてみても、美しい香りはそのまま」  
 シェイクスピアのジュリエットはそう語った。  
 だが、虎は虎なのである。決して、人ではあり得ない。  

――星々がその星芒の槍を投げ下ろし、天をなみだにひたす時
    神はその創造物たる汝を見て、果たして微笑まれたのか?  
    子羊を創りし神が、汝をもまた創ったというのか?  

 私は、再び虎の前に立った。  
 イーノスの置いていった……恵んでもらった金を、私は食事に使うことも無く、それで入園料を購った。  
 二週間ぶりに見る虎は、少し痩せたような気がする。  
 それとも勘違いだろうか、自己投影から来る思い込み?  
 今更どっちだって良い、私は気付いた。  
「お前は、俺と同じだ」  
 囁く。  
 一流の建築家の設計になる、ロンドン・ズーの虎舎。囲い込まれた、大ロンドン。  
 虚栄の中に独りだ。  
 こんな所で飼育されるということは、結局、お前は人間に捕まったのだ。  
 お前は、虎の中では、一流ではなかったのだ。  
 俺もそうだ。文壇に、一流の詩人になれなかった。  
 黒衣は未だに自分を苛むが、不思議と以前ほどに苦痛と感じない。  
 絶望と諦観はどこか似ている。  
 私は私の、俺の才能を今でも信じているが、一流ではなかった、お前と出会ってそれを認めたとき少し楽になった。  
 俺は、お前の中に何を見たのだろうか?  
 均整のとれた美しさをではなくて、自己投影の自己憐憫だったのか? それとも弱さか?  
 ああ、もはやどうでも構うまい、確かにお前は美しいのだから。  
 やはり私はお前を言い表すに相応しい言葉を一つしか持てなかったよ。  
 記憶ムネーモシュネーの娘たち、殊に「喜ばしき」エウテルぺ、抒情詩のムーサよ。
 人が詩を書くのではない。詩が人をして自らを書かしむるのだ。  
 虎よ、確かに天上には、お前の美を称えるうたがあるのだ。
 虎よ、確かに天上には、お前の恐ろしさを言い表したことばがあるのだ。
 天には、まったき言葉が、詩が存在するのだ。
 それでもなお、出てこないのは、詩神ミューズが私を選ばなかったということだ……。
 俺は、結局、詩人になれなかったのだ。  

――虎よ! 烏羽玉の夜の森の内に、赫々と燃ゆる虎よ!  
    どんな死なざる者の手が、眼が、敢えて造ったのか、汝の恐るべき均整を?  

 ベンガルの大地。  
 歓喜と絶望の中を私はひた走る。  
 場面が変わる。  
 真昼のロンドン。石畳の大都会。  
 私はそれを不思議だとも不自然だとも思わない。  
 ただ、ただ、変わらず走り続ける。  
 人の叫び声、紳士淑女然とした人々の恐怖に引きれた金切り声を聞く。
 別になんとも思わない。  
 もっと嬉しいかと思ったが、嬉しくも無ければつまらなくもない。  
 全てがどこか遠い。  
 全てを当然の事として受け入れる。  
 ああ、それよりも何故、人は虎を恐れるのだ。  
 檻の中、柵の中にある虎を、猛獣をあれほど嬉々として眺めるというのに。  
 ああ、それにどうして人は、詩をあざ笑うのだ。  
 文字にならなかった詩を、一度時代遅れと宣言された詩を、どうしてそうも簡単に捨て去り、あざ笑えるのだ?  
………………………………。  
………………………………………………。  
 虎よ。  
 ああ、そうだとも、今は私こそが虎なのだ。  
 名も知らぬ、虎舎の女タイガリスよ、君ならば判るのだろうか?
 私という虎は、その意識をロンドン動物園ロンドン・ズーへと向ける。
 一発の銃声。  
 金切り声を押さえるその轟音と、彼女への思いを最後の記憶として、私の意識は闇へと沈んだ。  
 そして、もはや二度と浮上してくることは無かった。  

 名も知らぬ君よ、君ならば……判…るの、だ……か?  



















虎よ! 烏羽玉うばたまの夜の森の内に、赫々あかあかと燃ゆる虎よ!
 どんな死なざる者の手が、まなこが、造り得たのか、汝の恐るべき均整を?
いずくかの遠きわだつみに、大空に、汝の眼のほのおは燃えていたのか?
 造化ぞうかの神は、いかなる翼を駆って、天翔けたのか?
 えて、汝の焔を掴みし手はどんなものか?
そして、いかなる肩、いかなるわざが、汝の心の臓の筋を捻り得たのか?
 そして、汝の心臓が脈打ち始めた時には、どんな恐るべき手、恐るべき足が用いられたのか 
鎚はどうか、鎖はどうか。  
 いかなる炉の内にて、汝の脳髄は鋳入いこまれたのか?
 いかなる金床が、恐るべき膂力りょりょく が、その死をいだかせるおそれを懐き得たのか?
星々がその星芒の槍を投げ下ろし、天をなみだにひたす時
 神はその創造物たる汝を見て、果たして微笑ほほえまれたのか?
 子羊こひつじを創りし神が、汝をもまた創ったというのか?
虎よ! 烏羽玉の夜の森の内に、赫々と燃ゆる虎よ 
 どんな死なざる者の手が、眼が、敢えて造ったのか、汝の恐るべき均整を 

「THE TYGER」 W.ブレイク/拙訳 


後書き