――鷲王学園高等部2年B組教室にて――
「おーい、リョウちゃん。聞いたかね?」
うっとうしい梅雨が明けて、そろそろ本格的な夏を迎えようかという頃の、とある金曜日の昼休み。
むっくりと頭を擡げてくる「残りのあと二時限くらい、軽くばっくれてこのまま帰っても別に構わないんじゃないかしらん」という怠け心。
晴れやかな空に呼応して、外へと遊びに行きたくなるのだ。ああ、私は鳥に……なりたくはさらさらないが、ただ本能に従って生きる生活は、厳しいながらに楽だろう、と憧れる気持ちが無くはない。
どうにかそれとも折り合いをつけながら、いつものように昼食を食べ終えた私こと信太諒子が2年B組の自分の席で文庫本を――数年前にハードカバーで上梓され、この程めでたく二分冊の文庫本として新装出版されたファンタジー小説だ――読んでいるとクラスメートであり、かつ部活の仲間でもある宇賀嶋沙羅が、勢い込んで話しかけてきた。
うきうきと、それはもう嬉しそうな顔をしている。
その形こそ疑問形だが、私が知らないだろうという前提で話しかけてきている。そうか。今日は不自然なまでに静かだと思ったら、この子がさっきまでいなかったのだ、教室に。納得。
今しも「奇妙な怪物に取り囲まれて絶体絶命の主人公、さてこれをどうやって乗り越えるのか」というありがちなれど、やっぱりわくわくする上巻の山場に差し掛かったところだったのだけれど、仕方がない。
止むを得ずそのページに栞を挟むと私は彼女の話を聞く体勢を整えた。
例によって客観的にみればそう大した話ではないのだろうなあ、とは思ったが一応はお義理で付き合っておくことにする。
そう。
「――なんであれ、私と沙羅とのウツクシイ友情と円滑な人間関係とを保とうと言う打算的な考えによって。……それで、聞いたって、何を?」
ついでにサービスだ。さも興味があるといった意思表示として、軽く小首などもかしげてみせる。
別に気分を損ねてなどいない。ええ、私はそんなに狭量じゃあないもの、好い加減長い付き合いなのだから、ちょっと空気読めとか思っただけで。
「いや、前半部分、本音駄々漏れ。そこは口に出したら駄目なところだろ」
沙羅がちょっと困ったような呆れたような、ふくれっ面をしている。頬袋を一杯にしたハムスターみたい。
どうやら口に出していたようだ。
「まあ、いいけどね。それよりもその様子じゃ知らないみたいだね」
ふくれ面一転、すぐに得意満面、笑い顔になる。この大ニュースを知っているのは自分だけだと鼻高々だ。
あまり物事にくよくよしないのがこの子の良いところ。
まあ、裏返すとそれは、少しばかり考えが足りないということでもあるのだが、それはそれ。
「――この脳天気な友人は、日々、世間の荒波に揉まれてやさぐれた私の心を癒してくれるわ……ぶっちゃけ、たまに激しくウザイけど」
「だから漏れてる。漏れてるってリョウちゃん! わざと、ねえ本当はそれってわざとじゃない、ってかそれ実は軽いイジメ?」
半泣きの沙羅に向けて、意味深に見える微笑をうっすらと浮かべてみせる。ただなんとなく、もうちょっと「泣かしたろ」と思っただけで、殊更に深い意味は無い。すると、沙羅は頭が痛いとおでこを抑えた。頭痛とは、生意気にも風邪か何かひいたのだろうか――バではじまるあれ(自主規制)――のくせに。あ、夏風邪だからいいのか。
「まさか」
笑みを変える。私は顔に初夏の花のように晴れやかな微笑を浮かべると、沙羅によってかけられた不当な嫌疑を否定した。
だと言うのに何故だろうか。彼女だけではなくて、私たちの会話を漏れ聞いた、近くでお喋りをしていたクラスメートたちまでもが話を止め、皆が皆、どうも信じてないっぽい、疑念に満ちた表情を浮かべているのは。
「こんな『天使の微笑』と称せられた、慈愛に溢れる私の微笑みに対してそんな何か胡散臭いものを見るかのように振舞うだなんて、なんて失礼な人たちだ」
どこかの誰かが「嘘だ、お前のそれは『ペテン師の嘲笑』の間違いだ」なんて言っているが、そこは軽く無視しておく。
だから、覚えてろよ、城島五季、鷲王学園高等部2年B組、図書委員!
今はそれよりも、憤慨した。
そう、私はとても傷ついたので、その意志を声高に主張した。
「この心の傷を治すためには、慰謝料が必要よ。具体的に言っちゃうと五千円くらい!」
「なに、その、具体的な金額!」
五季がわめく。しかし、私は慌てず騒がず対応する。そんな素敵な私に惚れそうだ。
「なに、もなにも、具体的とちゃんと言ったじゃないか最初に」
それ以上だと、かえって現実味に欠けてしまう。百万、千万はありえないだろう。さすがに。
「って、そういうこっちゃねぇよ」アーンド「……あたし置いてけぼり?」
再度、五季がわめき。放っておかれた沙羅が寂しい兎のような声を出す。
子供じゃないんで泣きはしないが、このまま泣いて目が赤くなったらどうしよう。駄目だ、可愛いかもしんない……じゃなくて。
「ううん、聞いているわよ。ただ、このヘタレた落花生に、お姉さん因果を含めているだけで」
「普通の高校生にとっちゃ、五千円は充分大金、はした金じゃねぇの、解れ」
うむ、知っていたらしい。ピーナッツがはした金を意味する英語圏の隠語だと。褒め称えよう。てーか五季のくせに、私に対して命令形で言葉を終らせるだなんて生意気な。
そういう奴にはこうしてくれる。
「わー、すごーい、はくしきー」
はくしの部分は「白紙」の気分で発音する。
「黙らっしゃい、このシダ坊主!」
シダ坊主とは私の苗字である信太のお尻に坊主をくっ付けただけの何の捻りもない初等部の頃のあだ名だ。それもあまり好きではないタイプの。
それにしても、改めて聞くと本名よりも長くなっていると言うのは、あだ名としての用をなしていないような気がする。
だがしかし、それよりも、偉そうなのにあき足らず、ピーナッツの分際で反撃とは猪口才な。
(本当は私のほうが二ヶ月遅いが)年季の違いを知るが良い!
「自分なんて、アレだったくせに、五季ちゃん」
すると目に見えて、五季ちゃん、は顔を引き攣らせた。
名前の五季が音読みするとゴキとなるところから、初等部の頃の彼のあだ名が、主に台所に出没する生きている化石。例の黒い悪魔だったことは自然な流れだろう。ほら、小学生ってその辺、無邪気に残酷だから。
漢字を覚えたてで無闇と使いたかったというのもあっただろう。
今にして思うと、彼の性格がひん曲がっているのはその精神的外傷のせいだろうかとも時折考えるのだが……
「――その辺り、本人としてはどう思うんだい、ゴッキー城島?」
「どうもこうもあるか、ボケ。てかそもそもの諸悪の根源(名付け親)はお前だろうが。それに何だそのなんか勘違いしたボクサーのリングネームみたいなのは、昔よりも進化しているじゃねぇか! より悪い方に!」
そう、確かに。あの頃はもっと愛らしく……
「『ゴキちゃん♪』だったわね」
我ながら気色悪いくらいにぶりっ子調子で言ってやる。可愛らしく言えばよいと言うものでもないが。
「ヒドイよ。もう。リョウちゃんも、いっちゃんも」
恒例行事と諍う私たちの横で、おいてけぼりになった形の沙羅がすねたように手足を振り回し、やがて業を煮やしたように叫んだ。
「ええっと、あのね、転校生が来るんだって!」
沙羅、貴女、どうしてそんなに疲れた表情をしているのかしら。
やっぱり風邪をひいたの? 心配ね、けれども今はそれより……
「転校生? もう、夏休みに入ろうかってこんな時期に?」
聞き返す。これは意外と大ニュースかもしれない。五季もどき……もとい怒気を収めて沙羅に視線を向ける。
「そっ、転校生! 週明け、うちのクラスに来るんだって。これは確かな筋からの情報よん」
気を取り直したように、私にだけではなくクラス中に聞こえるように努めて大きな声で言いふらす。自分に寄せられる視線の多さ、関心の高いことに嬉しげな表情を浮かべる。
そうね、昔っから人から注目されることが大好きな子だったわこの子は。だから、私はなんとなく、ぱちぱちと拍手を贈ってみた。つられて五季も。その周りの級友たちも拍手する。
なんだろう、この状況?
「いや、お前が作り出したんだろ」
大方職員室で聞き耳を立ててきたに違いない。そういえば、沙羅はさっき四時限目が終った際に担任の大多喜先生に呼び出されていた。その時にでも、仕入れてきたのだろう。
「それも、臣野先生やアンリ先輩みたいなエセ外国人とは違って、正真正銘の異人さんだよ」
その言い方に苦笑する。
「似非って、失礼だよ」
「だって、そうじゃん」
言いたいことはわかる。確かに二人ともそのモンゴロイド離れした――と言うか実際に人種が違う――見た目とは裏腹に中身はまるで外国人という感じはしない。
アンリ先輩と言うのは私たちの部活の先輩でフランス人。
一見、金髪碧眼長身のいかにもな感じの西洋人なのだけれど、いわゆる留学生というのとはちょっと違い、ご両親の仕事の都合で小学校入学以前からずっと日本で暮らしている為に、かえって祖国フランスの方をこそ知らないらしい。
そしてもう一方のドーニャ先生というのは、高等部非常勤講師の臣野樫緒(別名をドニヤザード)先生のことで、イラン人との混血なのだけれど、こちらも完全な日本育ち。
「それで、いくら二人が日本ずれして新鮮味を失った、落ち目の外国人タレントみたいだからって、そんなこと言っちゃ悪いわ」
「いや、あたしそこまで言ってないし。ってかそもそも考えてさえもいなかったよ、そんな長ったらしい例えは」
「あらそう、それで、どこの国の人? 女子、それとも男子?」
「んー、国籍まではよくわからなかったんだけれど、名前からすると女の子みたいだよ」
外国の女の子か。出身国にもよるのかもしれないが、話が合うだろうか。ん、ちょっとまてよ、でもそうだとすると……。
「おい、異人さん云々はスルーなのか?」
五季が話の腰を折ってくれる。さっきから静かだと思えばそのようなことを考えていたのか。だからと言って、そんなことで人の思考を邪魔しないように、ゴキちゃん。
「そうよ。沙羅が言うと可愛いから良いの」
当たり前のことだ。話はそれで終わり。まだ何か横で言っているみたいだけれど、聞き流しておく。
「ねえ、名前からするとって、もしかして名前しか聞いてない?」
「そうだけど」
それがどうかした、と小首をかしげる。
「なら、先輩たちみたいに日本育ちってことも充分ありうるんだけれど」
私の指摘に「あっ」という顔をする。そこに思い至っていなかったらしい。
「あちゃー、その可能性もあるのか」
「めちゃー、その可能性もあるのよ」
私が頷くと、沙羅はおかしな顔をした。どうしたのだろうか。
「リョウちゃん」
「はい」
「めちゃーって何?」
「さあ、何でしょう。あちゃめちゃ?」
「それは、はちゃめちゃ。ってか余計わからないって、それ」
だって仕方がない。それは私にもわからないのだから。
「貴女があちゃーって言ったから、思わずめちゃーって言ってしまっただけ。はちゃー、の方が良かった?」
「それは多分、良いも悪いもないっぽい」
っぽい。接尾辞。動詞の連用形や名詞などについて形容詞をつくる。『……を多く含む様子、……の傾向が強い』の意味。
「――と言うことは、本当はあるのかしら?」
「まあ、あるんじゃない。世間は広いしそういうことの絶対基準もどこかには」
それ専用の基準だなんて、世界は無駄に溢れているのね、とっても素敵だわ。とても、とても……とても?
「――あっ、思いついた。きっと、滅茶苦茶のめちゃなのよ」
そうだ、そうに、違いない。きっと無意識のうちにそれが念頭にあったのだ。そうするとさっきの言葉の意味はこうなる。
「その可能性だって、とてもあるのよ」
「もう、言い直さなくって良いってば」
沙羅がそう、抗議するように言った時、五時限目の予鈴が鳴った。
それを聞いた沙羅の顔が目に見えて「しまった!」と言いたげな物に変わる。それも当然ね、だってこの子は折角仕入れたニュースの開陳を遅らせるなんてことが出来ない子だもの。
それが、お昼を食べる前に呼ばれた職員室でニュースを得ようものなら。
「うわーん。どうしよ、あたし、お昼まだだよー!」
こうなる。
いつもの事だけれども、生暖かい視線が沙羅に集中する。沙羅以外はクラス全員この結末を予想していた筈だけれど、期待を裏切らないわ、本当に。
「教えてやれよ」
五季が何か言っている。
それを言うなら貴方も同罪だと思うのだけれど。その思いを込めて横目に見ると「うっ」とうめいて目を逸らした。ちっヘタレめが。
「そうだよ、知ってたら、なんで、教えてくれなかったのよぉ」
鞄から弁当箱を取り出しながら、すねたように言う。
ちなみに、沙羅の席は私の真後ろで、私は椅子の背もたれに腕をかけ、後ろ向きに座っている。
「それはね、愛ゆえに、よ。皆、貴女のことが大好きだからよ」
これは本当。少なくとも私は大好きだし、そもそも沙羅はあまり憎まれるタイプではない。まあ、その分、この手のタイプが苦手な人種には蛇蝎の如く嫌われるだろうけれども。少なくとも、我がクラスには嫌っている人はいない。
半泣きの表情でもぐもぐと、宇賀嶋の小母さん謹製のお弁当をせっせと掻き込む様が可愛らしい。
私も含めた周囲の視線は、ハムスターやリスと言った小動物を愛でる際の視線だ。
「そんな、愛いらないよ!」
周囲から向けられる視線の温度を感じているしく、口の端とほっぺたに、ご飯粒をいっぱいくっ付けているその口で、周囲を代表して私に向けて抗議をして来る。
これは光栄だと考えるべきなのかしら。沙羅と私の関係が深いという。まあ、単に目の前にいるからでしょうけど。
それよりも。
「先ずは、そのお弁当をどうにかすることだと思うけれど」
そのご飯粒のくっついたほっぺたを指差しながら、二重の意味を籠めて私が応えると。沙羅はむくれた様子で唇をとがらせ、ご飯粒を指で摘まむと口の中へと放り込んだ。
きっと、食べ終わった時にもう一度とらなきゃならないんだから、二度手間だと思うのだけれどもね。
「それにしても、本当に、貴女は視線と耳線が好きな人よねぇ。ううん、むしろ耳線に好かれる人」
「ミミセン……耳栓?」
「耳に詰める栓じゃないわよ、耳に差し込む、細長い音の線よ」
多分、誤解しているだろうから補足訂正をしておく。
「……耳線って何?」
「自分以外の音源に対して向けられる聴覚的な注意のこと。視線の類義語