【 んもうっ! そつぎょうしきでのおいたはメッ、なの! 】
その小空間は饒舌な沈黙によって満たされていた。そして、それ以上に雄弁なものは凍りついた熱気。
西暦2004年もそろそろ終りの見えてきた11月も末のことである。場所は北海道千歳市と人間が呼ぶところ。もっと絞れば南千歳駅にほど近い、とある多目的ドーム施設でのことだった。
そこはある種の式場であった。
似た形を持ち出せば、横からすっぱりと半分に切ったラグビーボール。規模はといえば当のラグビーグラウンドが優に複数個収まるだろう大きさ。複雑な構造体の支える丸屋根。開閉式で、現在は開かれた屋根の直下、四隅の天井近いところに設置された照明装置から伸びる光線の照り返しに白亜の壁が強く輝いている。
壁際と、やや奥まった壇上とに居並ぶ礼装姿の男女。見るからに、名士高官という雰囲気を漂わせる一団だった。
彼らが見つめる先には、総勢で百名ほどの白装束の若者たちが姿勢を正して整列していた。皆、飾緒の付いたサーコート風の揃いの長衣に身を包み、更にその上から揃いのインバネスを羽織っている。
言葉にすれば、どちらも同じく白であったが、生地の色合いがわずかに異なる。色違いの妙とやんわりとした光沢が、ほのかな色気を醸し出し、襟元を飾る細やかな刺繍が凛とした気品を感じさせた。
男女で若干の違いはあるが、基本的に同じ造りの服装だった。彼らの部隊に制式の第一礼装である。
ただし、制服に包まれた身体は、服ほどには揃っていなかったと言えるだろう。年齢は、ざっと見た感じで下は十代の半ばから上は三十代の前半。
人種は、心持ちヨーロッパ系のコーカソイドが多かったろうか。だが、それも注意深く眺めればその傾向が見えてくるといった程度の些細なものだ。
大きくは、アフロ・ユーラシアに南北アメリカ、オセアニアを加えた五大州。あるいは、南極観測隊員出身の者もいたから、六大陸全てを制覇していると言えたかもしれない。
白、黒、黄色、赤に青……は人間の肌の色としてあり得ないが、明暗濃淡変化に富む。
細かく見れば、漢族、コリアン、日本人、インド人、ペルシア人、クルド人、アラブ人、スラブ人にゲルマン人。テュルク系、ラテン系、ポリネシア系にミクロネシア系と実に様々。
人種、年齢、性別に、出身地も異なれば、信奉する宗教一つとってもバラバラである。
あたかも地球人の見本市と言った感があった。
そんな一見してまとまりを欠く集団の中で、薄っすらと緊張を張り付けた顔を高く上げ、誇らしげに紅潮させている様子が、僅かの例外的な人物を除いた皆に、唯一共通していた。
そんなこころよい緊張感の漂う中、壇上の一団から四十路の男が演壇へと進み出た。
「千歳航空学校第一期生諸君」
彼は己を見上げる青年たちへと、つとめて保った謹厳さで呼びかけた。凛として張りのある、聞く者に話し手の力強さを悟らせる秀でた声音だった。語りかけられた青年たちは、さっといずまいを正す。
彼は整列する若者たちの教官を勤めて来た人物だった。慕われていた、と言うよりは苛烈かつ厳格な教授姿勢を畏怖されていた。その脆弱に怯懦、怠惰という言葉を知らぬ、浅黒く引き締まった錆びざる刃金の如き精悍な顔にも、今日ばかりはいつになく柔和な表情が浮かんでいる。
「一期生諸君――」
繰り返す。しかし、式場中の注意が自分に集中する中、何故か彼はかぶりを振った。
「それとも竜士候補生諸君と呼ぶべきだろうか? 否、これとても妥当ではあるまい」
自ら疑問を呈し、それに即座の回答を与える。適当ではない、と。
「そう、いささか気が早いの謗りを受けてしまうかもしれないが、君たちに相応しいのはこの一語しかないだろう――」
少々ならずわざとらしい、芝居がかった科白ではあった。だが、それこそがこの場には相応しかった。一拍置いた余韻の中、満場に充ちる興奮が益々盛んになって行く。
小気味好い緊張。
それが最高潮に達して張り裂けそうな頃合を見計らって、彼は高らかに祝福した。
「おめでとう。《竜士》諸君!」
鳴り響く拍手の中、ある者は面映く、またある者は誇らしげに、それぞれの懐く万感の想いを胸に頷いた。
※
「――ところで、終っていれば美しかったんだがな」
式典の主役であるティモシー・スプリングフィールドが、げんなりと退屈した様子で誰に言うでもなく呟いた。それから、気負う風もなくひょいと帽子を脱ぐと、昨日大慌てで床屋に駆け込んだ金髪に無造作に手をつっこむと、わしゃわしゃと崩し始めた。
彼は本日只今より航空学校を卒業し、辞令をもって、《竜士》と呼称される新設兵科の士官に任官される(予定の)候補生たちの一人である。
それが晴れの席でのこの体たらく。情けない限りだが、さりとて一概に青年ばかりも責められない。この男は特別だれていたが、ティモシーを含む卒業生たちが、倦怠感を懐くのも当然の話ではあった。
先ほどから壇上では列席の来賓たちが、似たり寄ったりの祝辞を延々自分自身に酔っているような口調で述べ続けていた。その様子はあたかも選挙に臨む政治家の声明演説の如しである。
もちろん、来賓の一人一人は別々の事を語っているのだが、祝いの場で述べるのに相応しい話のバリエーションなどそんなにはない。重複する部分が嫌でも出てくる。
それに好い加減ダレた様子で、卒業生たちの大方は半ば聞き流していた。
どちらもこの種の式典にはありがちな光景ではある。
そんな時だった、
「ヒマだな……ここで、あのM字ハゲのオッサンが突然ぶっ倒れたりしたらビックリするよな」
たわけたことをティモシーが言い放った。間違いなくそれを期待する声色だった。慌てたのは、周囲の級友たちである。
まったく、言うにことかいて、何を言うのか、このバカは……!
「しー! せめて、もうちょっと声をひそめろ」
慌てて小声で注意する。発した譫言の内容も、大概と言えば大概であったが、そっと呟くならばともかく、ティモシーの言い方は配慮という物に欠けていた。つまり声が大きかったのだ。別に怒鳴ったわけではないのだが、壇上にて軍高官や政府筋の人間たちの述べる祝辞以外には流れる音もない静寂の中には嫌になるほどよく響いた。
「えー、それっくらいのサプライズは必要だぜ、人生には」
「そういうこっちゃねーよ!」
悪びれるでもなく言う金髪の青年に対して、痛むこめかみを左手で押さえながら、ティモシーよりも二つ、三つ年上の級友が思わず怒鳴りつける。怒鳴ってから、あちゃー、やっちまった、という顔になる。彼の声もまた盛大に響いた。
ちょうど祝辞を述べていた佐官の階級章を付けたヒゲの中年男性が、軽く気分を害した様子で彼らを睨みつける。とんだとばっちりである。周囲の者たちは慌てて直立不動の体勢を取り、ティモシーにも取らせた。その頭髪の若干寂しい中佐はしばらく彼らをにらんでいたが、ふんっ、と鼻を鳴らし、それから気分を入れ替えるように咳払いをして言葉を続けた。
「……こほんっ。あー、君たち九十三名はあの過酷な選抜試験を、そう世界各国六十五億人より集められた六百万人の、さらにその中からの競争を勝ち抜いたのだ」
勿論、六十五億人は誇張表現である。
あまりにも年若い者や、その逆で老年、中高年の者は審査以前の段階で弾かれているし、極端に病弱な者や初等教育を受けられずに育った結果、読み書きや算数――単純な四則演算すら出来ない者たちは最初から候補より除外されていた。
そういう訳である。卒業生たちに欧米の人間が多く、東アジアの人間がそれに次ぐのは。ユーラシアの両端と北米。最低限の初等教育の有無、そして普及の程度だ。加えるに、政治的な理由によって当初から選抜試験の実施を拒んだ国家、地域もある。だから実数は半分以下、二十数億人といったところだろう。
だが、それにしても莫大な数であるし『六百万分の九十三』としたところで天文学的な倍率である。
「君たちは非常に優秀だった。それは惜しくも選抜に漏れて《機士》と成った者や整備士と成った者、あるいは夢破れ去っていった者たちとても同様であるが、中でも君たちほどの選良が、そう十七世紀初ネーデルラントのマウリッツ以来の近代的士官学校四百年の歴史の中でも君たちほどの選良は、嘗て存在し得なかったであろうと私は確信する物である。嗚呼、今日此処に列席した我々一同は君たちの旅立ちに立ち会えた事を誇りに思う――」
大袈裟――とも言い切れない。
「そう――」
「あふっ」
なおも続く言葉は完全に聞き流すと決めこんで、盛大な欠伸をする。そんなあまりにもいつも通りなティモシーのマイペースっぷりに周囲の人間も「ダメだコイツは」との再認識の下、潔く諦めた様子で放置しておくことに決めた。
冗長な演説は子守唄に最適である。ソレは寝間にあって幼子に向ける母親のソレよりも遥かに効果的だった。欠伸から四十五分ほどもして、全員分の祝辞が終るころには――正確にはその半ばもいかぬうちに、ティモシーは完全に眠りの中にいた。
「起きろって。おい、起きろよ」
器用にも立ったまま寝ているティモシーを、どうにかして起こそうと試みる級友たち。盛んに声を掛けたりゆすったりするのだが、なかなか眼を覚ます様子がない。あまり意味の無い祝辞を聞き流すならばともかく流石に次のイベントが始まろうとしている時に放っておくわけにもいかずに困り顔である。
「起きろっての、おい! いいのかよ、例の俺たちが乗ることになる最新式の戦闘機のお披露目だぞ、次は――」
「おお、ようやくか!」
業を煮やした苛立ち混じりの呟きに――その先刻からの、覚醒を促す怒鳴り声とは比較にもならないほどに小さな呟きの中のとある単語に反応して、一発で眼を覚ました彼に、周囲の人間たちは殺意を覚えたが、それはどうにか踏みとどまった。
お目出度い席を、大莫迦者の血で汚すわけにはいかない。
「……コイツは」
もみ上げからアゴにヒゲを蓄えた青年が、ぐっと拳を握り締める。目は怒りとも呆れともつかぬ色に染まっていた。
「言うなって、このバカが飛行機にしか興味が無いのは、俺もお前も教官たちも全員先刻ご承知だろうが。マトモに付き合っていたら、精神が磨り減って仕方がないだろう、ここは大人になって軽く流せって」
「なにが悲しくて、自分がコイツに合わせなきゃならんのか」
だが、文句を言いながらも矛を収める。見た感じ、言うほどに不愉快そうでもない。実際、理不尽な話なのだが、ティモシーには横暴――と言うよりはワガママ勝手な振舞いを、呆れさせ、苦笑させながらも周囲に許容させてしまうところがあった。これもまた、奇妙ながらも、一つの人徳であると言えようか。
「どこだ、どこ……そこか!?」
そんな周囲の雑音には目もくれず、皿の様に大きくした碧眼を万聖節の前夜祭のお菓子や聖誕祭の玩具を待ち焦がれる子供の様に輝かせて、周囲が向ける呆れた視線にも、まるで気にした様子も見せずに、ギャアギャア、ワアワア騒ぎたてながら式場中を見回している。
「お前の――いやまあ別に、楽しみにしているのはお前だけってわけじゃあないんだが、お楽しみは未だ搬入されてないんだっての。だから静かに待てよ」
見つからず、持て余した衝動に任せて、今にも駆け出しそうになっているティモシーに、周囲は落ち着けとなだめた。
だが、まるで効果は無く、
「そうか、上か!」
動物的な勘が導くままにティモシーは上空を見上げた。
「そんなはずは……って、はぁぁぁぁぁっ!」
つられて見上げる級友の呆れ声は、直ぐに別の意味での呆れと驚愕にかすれた。
「正解よ――」
どこからともなく女の声が聞こえた。候補生たちが声の主を探して四囲を見回す。響く声は四方に設えられたスピーカーからの物だった。
「ティモシー・スプリングフィールド竜士候補生!」
キュイィィィィィッウゥィィィィィィィ――!
スピーカーを通された女の声はティモシーの名を呼んだ。最後の方は、耳を聾するハウリングと化した。
やがて、声とも共鳴とも違う、爆発するような音が上からやって来た。群雲の散る紺碧の空。式場に蓋をする開閉式の丸屋根は、晴天の現在は空が見えるように口を開いていた。
それを鑑賞する余裕を持つ者がその場にいなかったのが残念だ。礼拝堂の薔薇窓を思わせる天然の造形美。刻一刻と姿を変える流れ雲という一瞬が、かえって永遠を感じさせる。
だが、BGMは聖歌には程遠い。「正解」と告げた女の声に上書きする凄まじい轟音。円蓋に穿たれた穴から内部へと騒音を引き連れた一機の戦闘機が強引に飛び込んで来た。音は従者然として一歩遅れてやって来た。
それを見て一斉に散らされる蜘蛛の子たち。
「つ、墜落する……!」
逃げながら、候補生たちは声の限りに叫んだ。だが、人生を卒業してしまうかに思われた卒業生たちが悲鳴と共に予言した様な事態は起こらなかった。
「……足が、生えた――」
強襲の戦闘機は、人間には充分広いとはいえ容易に音速を超えられる機体にとっては狭いことこの上ない空間の空気をかき回す様に三度旋回すると、胴体部に生えてきた誰かが呆然と呟いた様に『足』としか形容しようの無い機構でもって強引に、しかし音も無く着地する。見た目の強引さとは裏腹に、衝撃らしい衝撃は起こらなかった。
機体の発する熱と建物の外から吹き込む冬の寒気が反応して装甲板から湯気が立ち昇る。
再び沈黙が場を満たした。誰もが呆然としていた。
奇妙な機体を遠巻きに眺める候補生たちの更に後ろから、壇上の一際雄偉な礼装を纏う若い将校が機体へと語りかけた。
「許可した私が言うのもなんだが、いささか外連が過ぎるな」
三十前と見える年齢からすると、瞠目せざるを得ないのだが確かに将官の礼服を着て、階級章をつけていた。
「あら、これくらいはアリですわ、彼らにこの子の性能を理解させる為にはね」
青年将官の苦笑交じりの声に、戦闘機が応じた。それは先ほどの女の声だった。男と同じく年若い、聞く者に華やいだ印象を与える声だ。続けて声の主は機体を見つめる若者たちに問いかける。
「どうかしら。あいにくと未だに、完成度は万全であるとは言えないのだけれど、それでもなおこの速度と機動性、そしてヘリさえも越えた着陸性能は」
ハッチを開き一人の女が顔を出す。それまでとは違ったざわめきが起こった。それほど彼女は美しかった。年の頃は二十代の前半だろう、神秘的な、黒曜石を思わせる長髪と黒目勝ちな瞳を持つ東洋系の美女だった。
加えるに、ざわめきの理由はそれだけでもないようだった。
だが、ティモシーはそれに気付かない。どころか中から現れた女性に気付いているのかどうか、それさえも疑わしい様子で機体をじっと凝視していた。
そして、ふと呟いた。
「格好悪い――」
三度、沈黙が場を満たした。
その沈黙という沈黙は、先ほどの祝辞の最中に彼の漏らしたボヤキがもたらした沈黙などは、いまだ喧騒の範疇に含まれるべきものであったのだ、と言わざるを得ないほどに完璧な沈黙だった。
「……今、何と?」
機体ハッチから床に向け、トンっと軽やかに飛び降りながら、彼女は静かに訊ねた。
「……え、いや、だから格好悪いって」
「あら、そう。それで貴方はどういう風に格好悪いと思うのかしら?」
何かを、ティモシー以外には明白な何かを押し殺した声で、彼女はもう一度訊ねた。ぱっと聞いた感じでは優しげな声と口調であったが、それはどこか引き抜かれる直前の刃を秘めた白木の鞘を思わせた。
簡素にして清澄。しかして抜けば――切れる。
「だって、戦闘機に足が生えてんだぜ、オカシイだろうが、どう見たって」
その態度に壇上から一人、「この大莫迦者がっ!」と先刻の教官が肩を怒らせ二人へと近づいて来る。教官が更に叱責を続けようとした所で、女は嫣然と微笑み、右手でそれを制した
「そうかしら『超音速性と機動性を両立させる可変翼と、強力な着地と発進を可能にした四足とを以って、近中遠距離戦と空地戦両方をこなす万能性を有せしめる』と言うシュナイエン思想を体現する機体ではないかしら?」
誇らしげに、同意を求める風を装って、
「まあ、このシュナイエンこそが、そもそもの始まりなのだから当然と言えば当然なのだけど」
言わずもがなだったかしら、と補足説明をする。
「いや、そのシュナイエン思想ってのがそもそも気に入らないんだ俺は。なんだよ、なんだってわざわざそんな変な物をくっ付ける必要があるんだよ。おまけに、コイツ水平尾翼が無いし。なあ、尾翼こそ飛行機のブスと美形を分かつ最重要ポイントの一つだろうが。考えてもみなって、こいつは人間で言ったら鼻が無いみたいなもんだよ?」
「いや、だからソレこそがシュナイエン思想の本質なのであって……対WUEM戦に於ける考えうる最適な形態を――」
よもやその時点で突っ込まれるとは予想だにしていなかった彼女は、ティモシーの得々と披露する彼独特の妙ちきりんな理屈にペースを乱され、微かに狼狽を見せた。竜士に残った候補生たちは皆喜んで受け入れると思い込んでいたのだ。
「飛行機は飛行機として、既にそれ自体で完成しているんだ!」
対するティモシーはどこか狂的なものすら漂わせている。
そして、彼は己の信念に掛けて断言した。
「だから、たとえ必要だとしても、だ。そんな変な物をくっ付けたものは既に飛行機じゃない!」
「いや、まあ、それはそれで、傾聴に値する一つの意見だとは思うけれど」
面食らい、混乱する頭を、言葉を重ねて落ち着かせる。
「だからね、シュナイエンはシュナイエンと言う新しい兵種であって……飛行機とは……ああ、もうっ! 貴官は航空学校で一体何を教わって来たのか!!」
噛み合わず平行線を辿る論争にいいかげん面倒くさくなった様子で一喝する。それで叱り飛ばされたティモシーは少し冷静になる。はて、そう言えば教官殿が従っているこのおねーちゃんは誰だろうか。
「で、さあ、そういや……アンタ、あいや、貴女はどちらさまでしょうか?」
ふと、今更そこにが気になった様子でティモシーは訊ねた。一応、上官だろうという判断は出来ているので――甚だ無駄な――配慮として敬語を心がける。周囲は益々怯えた様子で一斉に後方へと距離を取ったのだが、彼は気付いていなかった。
「ええ、そうね、自己紹介が遅れたわね」
にっこりと微笑む。花が咲いた様という古典的な形容詞の似合う美しい笑みだった。まあ、花は花でも棘を持つ毒花だが。
「本当ならもうとっくに知っていてもらわないといけないはずなのだけれど。……何故かしら、不思議ね、貴方は知らないようだから自己紹介をさせていただくわ」
痛烈な皮肉を投げかける。
「私は瑠璃。猫宮瑠璃空将補。《月宵に舞う雪の花》――《宵雪計画》主導陣の一人であり、貴方たち竜士が所属することになる千歳基地の副司令を勤めているわ」
「はい?」
たわけた声が漏れた。アホ面をさらす男に、女はさらりと告げる。
「だから、空将補。米軍流に言えば空軍少将」
「……マジッすか」
「嘘っぽいけど、マジなのよ」
冗談めかした軽い調子で肯定する。この種の疑念、驚愕には慣れっこといった様子だった。
「……し、失礼しまし、た?」
ティモシーは未だ信じがたい様子だったが、それでも航空学校で叩き込まれた行動原理は正直かつ覿面だった。なおも表情と言葉とは疑わしげであったけれども性と化した習慣で、本人も意識せぬうちに、身体は最敬礼の姿勢を取っていた。
「ええ、そうね、候補生。当初、私たちの間には、お互いにとって不幸な行違いがあったようだけれど……改めて訊ねるわね、候補生。この子はどうかしら?」
いっそ優しげな笑みの下に籠められた、恫喝の念も明らかに重ねて言問う空将補。言外に、互いの階級差をわきまえろと言いたいのか、繰り返して強調するのは「候補生」の一語。
「……はっ! うー、あー、ですね。うん」
「うー、あー、って何よ――」
苦渋に満ちた困惑のうめきを上げる男と、それを莫迦にした様な顔で冷徹に切り捨てる女。
「率直に」
「はっ! たとえ、左遷されたとしても、神と聖書と祖国に掛けて、そしてそれ以上に自分自身の航空機への愛に掛けて、己の感性に嘘はつけません、マムっ!」
その時、二人を遠巻きに見つめていた人々は、いっそ感動さえ覚えていた。その時、彼は確かに勇者であった。たとえ、それがどれほどに愚かしい蛮勇であろうとも。
「……そう。良い根じょ……もとい度胸……でもなくて。こほん、あー、もう、どうでも良いか。ともあれ、どうやら、貴方とは少し話し合う必要がありそうね」
式場の外、北海道千歳の冬の雪風よりも冷たい、熱気も凍てつく声音で宣言した。
「司令、宜しいですね?」
「まあ、致し方ないか」
許可を求められた司令――それは先ほど猫宮空将補に対して最初に話しかけた青年将官だった。千歳基地司令海原武空空将は、苦笑しながらも許可を与えた。
※
「で、改めて訊ねるけれど、スプリングフィールド竜士。考え直す気は無いのよね?」
千歳基地副司令執務室。悠然と執務机の己の椅子に腰掛けながら、猫宮瑠璃空将補が、向かい合って立つ莫迦な部下へと訊ねた。もっとも、もし考え直したからといって別に許す気もさらさらなかったのだが。
「ありません。あれを飛行機に、航空戦力に数えるのは……理性では解かっても、感情が許しません」
「あ、そう」
白けた顔で一瞥し、それからもうどうでもよさそうに「あー、熱血、大いに結構ね」とそれはもう嫌そうにぼやいた。
「……まったく。来期からは航空適正だけではなくて、軍人としての適正とシュナイエンとの相性をもっと重視させるべきね」
ティモシーの場合は飛行機に対する適正――むしろ偏愛――が強すぎた。そして計画が、現状では未だ最高機密の段階で進行していた為に、当の竜士候補生たちでさえ、詳細を知らされていなかったのだ。
彼らの大方は、自分たちの乗る機体が新型であるとはそれとなく漏れ聞いてはいたのだが、あくまでも現行の戦闘機の軸線上にある機体だと無条件で考えていた。いや、むしろ、まったく異なった設計思想に基づく兵器などという物は、思考の埒外にあったと言える。
計画が押していた為、止むを得ずの措置ではあったが、準備期間がどうにも短すぎた。
猫宮空将補は改めて嗟嘆した。今更どう言っても仕方のないことだが、天の時は性急に過ぎ、地の利乏しく、人は和さざるこの現状が憂わしく、天の差配が恨めしい。
「まあ、仕方がないわね。ならシベリア辺りに行くといいわ」
「はい……って、シベリア! アラスカとかではなく?」
さらりと言われたので一瞬把握出来ずに流しかけたが、よく考えれば明らかにおかしかった。
ティモシーはアメリカ人である。「書類上の事とはいえ一応は合衆国空軍出身の自分が、どうしてロシアなんぞに左遷させられるのか」が咄嗟には理解できなかった。
「そう、シベリア」
イベリアやリベリア、ロベリアの聞き間違いではないらしい。
「前の二つはともかく、どうしてここでキキョウ科の多年草が出てくるのかしら」
同じ瑠璃ではあるけれど、と空将補瑠璃は、はんなりと淡く笑った。ロベリア。学名をロベリア・エリヌス。和名を瑠璃溝隠、またの名を瑠璃蝶々という様に、瑠璃を連ねた冠も鮮やかに、白や青、紫色の房状の小さな花をつける愛らしい草花である。
「特に深い意味はないんですが……しいて言えば語感ですかね」
「あらそう、あんまり面白みのない回答ね。それと、しばらく戦闘機から遠ざけるようにも通達しておくので……良い休暇を」
「……っく、イ、イエス! マム!! じ、直々のご配慮、い、痛み入ります!!」
邪悪さを漂わせるわざとらしい憫笑に対して、内心の不満を隠す気もなさそうで皮肉で返すティモシー。
「それと、スプリングフィールド竜士。今、貴方が着ているその制服だけれど」
それは竜士の象徴。特に第一期生のソレは、のちに『白竜士』という異名を取ることとなる純白の長衣だった。
「餞別として進呈するわ。旅立つ貴方への。それ、防弾防刃耐熱に、加えて防寒仕様よ。アチラは寒いでしょうからね、重宝するはずだわ。くれぐれも、健康には気を遣い、風邪なんて引かないようにね、気分が悪くなるから……私の」
一瞬、気遣うと見せ掛けて、間髪いれず突き落とす。半ば予想通りの反応ではあったが、解かっていても存外ムカつく。
「それはどうも」
このアマ。一瞬我を忘れて食って掛かろうとしたのに、笑みの形に顔が引きつりすぎて、肝心の怒りの顔が作れなかった。
「それに、あと何年かすれば、プレミアが付くわよ。軍事マニアたちが千金を積んでも手に入れたくなるような、ね」
冗談めかした口ぶりとは裏腹に、その表情は見る者をして、ハッとさせるほどに真剣なものだった。ティモシーは思わず気圧され、息を呑む。どこか遠くを見据える様な意志に満ちて清澄な美貌は、彼に一時怒りを忘れさせた。
「いいえ、私と、私の《汚濁を灼く雪の花》がそうしてみせるわ、必ずや。その時を、愉しみにしていらっしゃい、スプリングフィールド少尉」
切られた啖呵を耳にした時ティモシーが何の動揺も覚えなかったと言ったら嘘になるだろう。
空軍少尉。
そう、確かな自負を込め、眼を細めながら彼女が発したその階級の発音は極めて明瞭なものであった。聞き間違えようはずもなく、確かに彼女は竜士ではなく少尉と呼びかけた。
つまりは、もう帰って来るなという意味だった。あるいは帰って来たとしてもお前の居所は既に無いという。
一年。一年だった。『世界防衛宣言』に基づき極秘裏に実施されていた健康診断に擬装の適性検査により航空機に対する並外れた適正を見出されるまでは、ちょっと飛行機好きな以外はごく平凡な十八歳の一アメリカ人大学生だった彼が、半強制的に志願させられてからの一年間を共に過ごした、それこそ「同じ釜の飯を食ってきた」部隊から放逐されるのだ。
行くところは無い。航空学校に限らず、士官学校の卒業生はどうでも数年間は勤務する義務があるし、そうでなくても軍が機密保持の観点から彼の除隊や復学等を認めるはずが無かった。
動揺は甚だしい。
腹の底に重く冷たい液体を流し込まれたような気分だった。イメージとしては水銀か。胃の腑のどんよりとした気分に、視界もまた暗くなった気がした。恐らく錯覚ではない。極度の精神的衝撃で、急激に血圧が低下し、軽く失神しかけたのだろう。
しかし、彼はそれを持ち前の反骨精神と面の皮の分厚さでもってなんとか内側に押しとどめることに成功した。
「……はっ。その時の到来を衷心より愉しみにしておきます」
笑みに固定された二種類のポーカーフェイス。その中で唯一内心の燃える炎の様な感情をちらつかせる眼が静かに互いを凝視する。いたたまれなかったのは二人の周囲である。副司令の秘書官とティモシーを副司令執務室に連行した三十年配の教官。彼らは氷上――薄氷どころか半ばまで溶け出した湖面の上に立たされて、その上で焚火を囲まされている気分だった。
表面上は暖かいと言うのに、いつ溶けきって溺れ、凍え死ぬか知れたものではない。それを思うと表面的な暖かさが芯からの寒さ、恐ろしさを増長させる、嫌なスパイスにしかならなかった。
その後の推移を客観的に見て、ティモシーはよく拮抗したと言い得るだろう。しかし、そこはやはり役者が違った。
「ああ、そうそう、忘れるところだった!」
猫宮空将補はわざとらしく大声を上げると、
「餞別は他にもあるのよ。ゴメンなさいね、急だったからこんな物しか用意できなかったのだけれど」
そう言いながら、彼女はほっそりとした右手を前へと差し出した。色白で肌理の細やかな手には一冊の本の様な物が握られている。より正確に言えばそれは薄い冊子だった。そして、それにはカラフルな文字遣いでこう書かれていた。
『ロシア語で遊ぼう! ――3さいからのキリル文字―― 』
緊張感が増していく。圧力が掛かりすぎて、大気が液化しないのが、いっそ不思議だ。
「シベリアですものね」
と彼女は言った。キリル文字というのは、ロシア語を初めとするスラブ諸語を表記するのに用いられる表音文字のことだ。
「国連平和維持軍の中でも、私たちの管轄下に――日本政府からの供出金で成り立っている基地だから、一応日本語もある程度は通じるけれど、ほら、やっぱりロシア語が話せた方が良いものね。お友達を作るにも」
ゆったりとそんな言葉を紡ぐのは、手弱女めいた、あえかな微笑。
「……お気遣い、どうも」
ティモシーは明確な殺意を自覚した。萎びた果実から無理矢理に搾り出した果汁の様な、どこか無機質な感じを与える、渇き、強ばった、好ましからざる声で、どうにか礼を言う。
こいつは……また。自我の芽生えから記憶している中で、まず三位には入る苛立ち加減だった。このババア……手の込んだイヤガラセを。ティモシーはうめいた。怒りよりもなによりも、もはやここまで来るとある意味で感心した。
と言うよりも、感心したと思い込むことで、噴き出しそうになる激情を抑えようと試みたのだ。
「あ、それと英語は士官クラスは殆どが話せるけれど、大方の兵士、下士官には多分通じないからそのつもりで。じゃあね〜」
「……こんっ、クソババアめ、呪われろ」
そして、当然の様に抑えられなかった。
とうとう逆上したティモシーは、実際に口に出して言ってしまった。脳裡を荒れ狂う熱い激昂の奔流の中、どこか冷静な部分では、それこそ相手の思う壺なのだろうと理解していたが、それでも激情の波はあまりに高く、悪罵せずにはいられなかった。
意図して念じるまでもなく、心に描かれるのは鋭いナイフ。俺の視線よ、この女を刺し殺せとばかりににらみつける。それは邪視の域に迫ろうとしていた。
しかし《毒蛇の王》にこそ帰属する呪殺の意図も明白な視線を向けられた女は、そんな呪いの念をどうとも感じていない風情で、ただ悠然と、路傍の石を眺めるのに似た無感動な目つきで、つい今さっきまで部下だった男を見下ろしていた。
心が折れた。ティモシー・スプリングフィールドは、覆し得ぬ敗北を感じていた。
そして、彼は言うところの「ブス」――すなわち《新式航空兵器》が益々嫌いになった。
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