『蛮の威――えびすのおどし』
蛮威挿絵「不機嫌なラドーラ」
ラドーラ・バルバオーザ(画:戸田陽近)

「惰弱な!」
 バルバオーザの末の姫ラドーラは吐き捨てた。
「惰弱、惰弱、惰弱、惰弱、助平、惰弱、惰弱……!」
 先ほどから何度も繰り返された結果、罵倒の言葉の品数はとっくに尽きてしまっていた。それでも尽きない怒りの向かう先は彼女の夫である。
「確かに大陸の技術、特にクラシクの錬金術は素晴らしい。必ずや、我らが諸島の助けとなるだろう」
 大きく肯いた。それは間違いのない事実である。
「だが、しかし、それは別に、我たちが故郷の伝統を捨て、大陸の他の風習までありがたがって崇拝しなければならないということではないだろう」
 ああ、むかむかする。バルバリアンは誇り高いのだ。
「それを、なんだ、靴を履け、服を着ろ?」
 色にボケるあまりに、ついに目まで利かなくなったか。今だって、バルデニア(破裂する梔子)で染めた木綿の衣帯に、バルダネオン(錬鉱石)の自在環、その上からさらに獣皮――流石に幻獣バルバロンはミュージシア大陸には居ないから、クリムゾンライオンで代用してはいるが獅子皮の戦衣を羽織っている。
 戦士の正装であり、大王の御前にだって参内できる盛装だ。
「恥知らずの亡八め! それを言うに事欠いて、下着みたいで恥ずかしいとは……父祖と神、大王に対する敬意を忘れてしまったとしか思えない」
 蛮族の娘は憤怒に任せてずんずんと素足のままでぬかるみを歩いた。
 特に目的があるわけではない。ただ、じっとしていられないのだ。背の低い葦の群生するニーベルング湿原。湿り気を帯びて泥深い草の原を踏み越えて行く。足の裏に痛みを覚えた。らしくもなく注意を怠っていた。石かあるいは毀れた刃の欠片か、泥の中に鋭い何かがあったらしい。しかし、とっくに我を失っている女には、それを顧みている余裕はなかった。痛みも忘れて歩き続ける。投げ捨てられない憤りを、それでもどうにか放り出そうとしていた。
 彼女は元々、激しい気性の持ち主である。その本質は煌めくような烈火。しかし、今の彼女を満たしているのは、明け方の灰に残る埋もれ火のような暗い憤りであった。昔から浮気性で、美人と見れば、老若男女の区別無くすぐに鼻の下を伸ばすどうしようもない男ではあったが、これほどに情けなく、夫のことが遠く感じられることはなかった。
「ゴン……今度、一口でも変なことを言ってみろ、細切りにきざんで、鍋のダシにしてやる!」
 ラドーラ・バルバオーザは、黒い怒りを抱きしめながら、今この場には居ない夫に向かって、怒鳴りつけた。

☆★☆★☆

 空は良く晴れていた。高く青い空だ。板切れに青い顔料をぶちまけて作った安手の芝居の書き割りめいて青い。湿原の死に損ない共に八つ当たりのように剣を叩き込む怒れる女の心とは対照的に、秋の空には荒れる兆候が雲の欠片一つ見当たらなかった。
「クソッ。死霊の湧く沼ならば、もう少しそれらしい曇天とかがあるだろう」
 筋違いとは承知の上で、天に対して悪罵する。晴天すら自分を馬鹿にしている気がする。もっとも、雨降りならば雨降りで、今度はそれが気に障ったに違いないのだろうが。
 ラドーラ・バルバオーザの振るった身の丈ほどもある蛮族の剣が、今日、三体目のスカルウォーリア(骨の兵卒)を叩き壊した。
 ニーベルングの原は大小無数の沼沢から成る広大な湿原である。クラシク地方有数の危地でもある。沼の瘴気が招くのか、あるいは逆かは定かでないが、〈魔〉の影響の色濃い土地で、少し奥地へと踏み込めば、そこには強大な悪魔妖魔が棲み、他ではあまり類のない恐るべき怪物や死霊の群れが列をなして徘徊している。
……妙だな」
 崩れ落ちた骨片が泥濘に落ちる音を聞きながら、ラドーラは不審に思った。
 眉をひそめてきょろきょろと周囲を見渡す。眼下、地面に散らばっているボロボロの骨はいつも通りである。毒々しい真っ赤な茸が群れをなして走り回っているのも湿原ではいつでも見られる光景だ。何もおかしなところはない。
 そのうちの一体が――それとも、いつも迷うのだが、一本と呼ぶべきなのだろうか、ともあれ赤色の走り茸が自分をめがけて突進して来たので切り伏せる。真っ二つに分かれた走り茸は、そのまま別々の方向へとしばらく走ったところで、ようやく切られた事実に思いいたり、しなびるようにくたっと倒れた。走らなくなった茸は、毒を持っているので、その場に打ち捨てておく。土に返って、やがて、また、別の茸の菌床になるだろう。無感情に見下ろしていると、唐突に気づいた。
「そうだ、今日は茸と骨以外に、他の化物どもを一切見かけないのか」
 その骨の兵卒にしても、いつもよりも数が少ない。先ほどまでは怒りにボケて、空を見てもかっかするばかりで、太陽の位置を見ることもしていなかったが、既に湿原に入ってけっこうな時間が経過していた。腹の空き具合も時間を訴える。
「それに、なんだ、いつもはもっと薄っすらと全体的に靄がかかっているのに、今日は不自然なほどに視界が良好だぞ」
 そこだけをとれば、良いことのようにも思われたが、ラドーラはなにやら漠然とした不安を覚えた。どうにも不吉な予感がする。考えるほどおかしい。怪物の気配が無いというのは、頭の悪い――以前に頭があるのかすらも怪しい骨妖や走り茸を除いた、怪物たちを恐れさせ、待避させるような存在が近くにいるということではないのか。
「我もこの場を離れたほうが良いかもしれないな……遅きに失したようではあるが」
 冷静に気配を探ってみれば、間違えようもない強大な気配が存在した。別に隠れていたわけではないだろう。ただ、自分が怒りに我を忘れて、この大魔の領域に気づきもせずに踏み込んだのだ。そして、その強大な存在感が、その所領全体を覆っているために違和感を感じなかった。一度、気づいてみれば、はっきりとわかるが、自分と茸だけがここでは異物なのである。
 ラドーラは戦衣の乱れを直し、大剣を構えた。数叉に分かれた剣先を持つ異形の大剣である。
 そして、その大きな気配の中心が、今、自分のすぐ傍らにあるのを感じ取る。人と異質な気配は茂みに潜む獣と対峙する時にも似ているが、向けられる悪意に覚える、肌を冷たい風が切っていくような、痛みすら伴う不快感は妖物に特有のものである。
「おい、貴様!」
 ラドーラは叫んだ。
「聞こえているんだろう、見ているんだろう、今まで気づいていなかった自分が嫌になってくるが、そのはっきりと不快な、我に向けられたおぞましい想念を考えるに、黙って帰してくれる気はないのだろう。出てきたらどうだ」
 湿原に彼女の声がこだました。
「出てこない気か、臆病者め」
 それを何度か繰り返し、反応がないことに苛立ってきた頃にようやく返事が返ってきた。
「聞こえている、少し黙りたまえ。どこの蛮地の出かは知らないが、その下品な言葉遣いに呆れていただけだ」
「なッ!」
 その無礼な言い方に一瞬、言葉を失った。
――んだとぉ!」
 侮辱を看過するのはバルバリアンの戦士ではない。怒りに顔を朱に染めて、裂帛の気合を発する。気の弱い者や、下等な妖物であれば、それだけで気死しただろう迫力だ。それに怪物は嘲笑で応えた。それだけで、尋常の存在ではないのが分かる。
 ラドーラの眼前に巨大な蚊柱が立った。雲をなす蚊の群れは一つ所に集合し、典雅な装束を纏う怪物の姿を形作った。細面の美貌に傲慢然とした表情を浮かべながら、足を組み、悠然と虚空に腰掛けた怪物は、蛮族の娘を見下ろした。
「ほう、これは興味深い。怒り出すとは。そうか、蛮族にも蛮族の、自ら恃みにする誇りというものがあったとはな」
「貴様。黙っていれば、調子に乗りやがって。降りて来いっ、三枚に下ろしてやる!」
「断る。服が汚れる。そなたら人間と違って、私には泥に塗れるような趣味はない」
「我にだってないわ! 貴様こそ、このような泥の土地に居を構えている時点で、本当は好きなんじゃないのか」
 激昂から一転、蛮族の女戦士は相手を挑発にかかった。
「下手な挑発だな」
 怪物は貴族的な相貌に冷笑を浮かべた。古風で上品な黄色の衣が風にはためいた。先ほどから風が強まりはじめていた。
「ふむ。上手く行かないな」
 やはり、我は、このような腹芸は得意ではないようだ。自分には、真っ向からの勝負が似合うと改めて認識する。しかし、だとすると、どうしたものか。空に座るいかれた相手を、我はどうやって殴れば良いのだ。
「だが、それにしても、ベラベラとやかましいヴァンピールだ。普段の貴様らならば、有無を言わせずに襲い掛かってくるところを、悠長に話してくるとはな。一々、癇に障る言い方ではあるが」
 そんな軽口を叩いたところで、ラドーラは、ふと相手の気配が変わったことに気づいた。
「あのような〈なりそこない〉共と一緒にされるのは不愉快極まる」
「ほう、怒ったらしいな」
 内心で、ラドーラはしてやったりと快哉を叫んだ。気配の大きさといい、態度といい、単なる妖魔ではないだろうとは思っていたが、偶然ではあるが、ひとまず相手のプライドを刺激することに成功したらしい。

☆★☆★☆

 怪物は空中で立ち上がると、外套を脱ぎ捨てた。
 二つの月と無数の星が瞬く夜空の色を裏地として封じ込めた黄衣が空中で翻る。表と裏、昼と夜とが反転し、強大な魔法で、外套の下に閉じこめられていた夜の欠片が、周囲を覆った。
 書き割りの青空に、夜闇の緞帳が降ろされた。
 夜のドームの真ん中に、剣を携えて蛮族の娘が立ち、貴族的な風貌の怪物が、それを上空から見下ろしている。
 ラドーラの首筋に嫌な汗が流れた。対峙して改めて気づかされるが、怪物の発する気の質には、どことなくワーグナーに居を構える《偏執卿(フェロリエス)》、金色の悪魔グェルスと通じるところがある。ならば、やはり、この男も悪魔なのであろう。
 妖魔は人である。〈魔〉に従い、堕落して、強力な魔力を有するにいたった者も数多あるが、それでも土台は人の亜種である。しかし、悪魔は違う。その多くは大小の精霊が堕落したり、受肉の果てに狂ったものである。言うなれば、〈神〉にも擬せられる〈等神〉の成れの果て。中には〈精霊王〉にも匹敵する大悪魔もいると言う。
 そこまで極端を言わないまでも、それらは、まず例外なく人では及びもつかない強大な〈魔法〉を心得ている。否、しばしば〈魔法〉こそが彼らの本質である。意識を持ち、妄執を抱いて自律する〈魔法〉が真正の悪魔だと言える。
 すぐに挑発に乗ってきたくらいで、そこまで強力な存在ではないだろうが、それでも、自分よりは肉体的な強度も、宿した魔力も上だろう。空に浮かんでいる時点で、〈魔法〉を備えているのも明白だ。
 怒りに任せて引き返せないところまで来てしまったが、ほんの少し、早まったかもしれない。無謀は戦士の徳ではない。ラドーラは後悔した。しかしながら、弱気に飲み込まれるつもりはなかった。勝負は付いてみなければ判らないものだ。それに、相手が強大だからといって、一度始まった戦いを取りやめるのは、無謀と違って、はっきりと戦士失格の振る舞いである。
「それに、この程度、大王の迫力に比べれば、襁褓(むつき)のとりきれない小僧が凄んでいるようなものだ」
 意識して、気を吐いて、戦いに備える。
「おい、貴様。手袋は取らないのか。ミュージシア大陸の風習では、手袋を投げつけるのが決闘の作法だと聞いたぞ。貴様のような貴族貴族、礼儀品格と喧しい奴が作法を守らないのか?」
 ラドーラは手袋を指差してたずねた。それに、怪物は失笑で応えた。
「む、何がおかしい。我は何か妙なことを言ったか?」
「はっはははははっ! いや、これが笑わないではいられようか。決闘というものは、お互いに対等か、あるいは、少なくともそれに近い関係の者同士の間で行われるものだ。それが、ふふんっ私とそなたが決闘? 自分のような蛮族と貴族たる私が対等の関係だと本気で信じているとは! いや、実に愉快だ、実に滑稽だ!」
 悪魔は心底おかしそうに笑った。
「はっはは、馬鹿な。これは、躾のなっていない化外の土地の野蛮人に、身の程をわきまえさせる為の制裁だ。しかし、そなたには中々ユーモアのセンスがあるようだな。もう少し従順になれば、道化として飼ってやっても良いとすら思えるぞ」
 ラドーラの癪に障ることには、挑発でもなんでもなく、どうやら本気で言っているらしいことだった。
「特別だ!」
 自らを貴族と称する怪物は、声高に叫んだ。
「一息に捻り潰してやろうかと思っていたが、気が変わった。見れば見目自体はそう悪くもない。身体に巻きつけた下品な布切れも大層風変わりで奇天烈ではあるが、それとても蛮夷の装束として考えれば、逆に趣がある。次の夜会にて、閑暇を持て余す友たちに供する座興程度にはなろう」
 にんまりと笑った。
「私は寛大でね。名乗る必要も本当はないのだが、己の飼い主となる者の名前を知らないというのも面白くないだろう」
 そして、怪物は続けた。
「我が名はシェリダン・ブロートン。《美麗公(レ・ファニュ)》カルミラの家門に連なる子爵にして、《三公》の内で最も智恵深く麗しき我が女主人より《五剣卿(ブロートン)》の称号を頂戴している。さて、それで、蛮族の娘よ、そなたの名は?」
 誇りを持って、南蛮の娘は名乗りを上げた。
「よくぞ聞いた。ならば名乗ろう、我の名はラドーラ、南溟はバルバロス諸島の出である。当地のバルバリアン十六諸族が一バルバオーザの氏族。氏族十三人衆が首座長老バルバオーザ大老の子バルバオーザ族長の女婿ゴンドア・バルバオーザの妻ラドーラ・バルバオーザだ。破廉恥なる妖怪変化よ、冥土の土産に覚えておくが良い」

☆★☆★☆

《五剣卿》シェリダンが両腕を振り下ろした。
 指揮棒を握る指揮者が楽隊を誘導するように、上下左右に滑らかに、水が流れるように腕は動いた。
 それに呼応して、五振りの剣が、獲物へと襲いかかる。
 念動か剣霊を使役しているのかは定かではないが、シェリダン卿の意思に従って宙を舞い、銀光閃かせて、瞬く間に敵を切り果たす魔力、あるいは魔剣が、彼の称号の由来である。
 無限の体力を持つ五人の剣士――それも一流の遣い手と戦っているようなものである。なお、始末に終えないことは、実際に剣を振るう者は中空にあって、舞い踊る剣の先には刃を入れるべき肉が存在しないこと。
「ふん……こんな……剣を……操るくらいの……力っ! 良くある……力というものだ!」
 ラドーラは良く凌いだ。襲い掛かる剣を時に弾き、時に避け、致命傷を入れられることは決してなかった。どころか、ついには複数の叉を持つというその得物の特性を活かして、五振りの剣のうち、一本を捕らえて捻り、粉砕することに成功していた。
 しかし、先の言葉は強がりであった。自分でもそれを自覚していた。致命傷は避けているとは言え、小さな傷は無数に入れられている。何よりも、彼女は人である。しばらく前から目に見えて息が上がり、動きが鈍り始めていた。
 来る時には気にもならなかった足の裏の傷が、今では痛んで仕方がない。
「ほう……! 随分と持つものだ。一振りとはいえ、私の剣を落とすとは、久方ぶりだぞ。では、これはどうかな」
 剣の悪魔は感歎の声をあげると、打ち負けて毀れた剣を招き寄せると、見えざる鞘――あるいは武器庫に仕舞い、改めて、新しい第五の剣を召喚した。
「ちっ」
 ラドーラは舌打ちをした。
 これで、一本ずつ叩き壊していくという方策は潰えた。
「否!」
 首を振る。己を叱咤激励した。
「壊した端から剣が補給されるならば、補給されるよりも速く剣を壊せば良いだけのこと。それでも剣が補給されるならば、庫の中の剣よりも多くの剣を打ち壊せば良いだけの話だ!」
 ラドーラは事実、それを実行した。戦いながら、彼我の位置を調整し、五剣の動きを誘導して、訪れた好機を逃さず、神速と剛剣とをもって一息に叩き壊しに掛かる。
「一つ! 二つ! 三つ! 四つ! 五つ! むっ……なに」
 視界の端に飛び込んできたあり得ざる光景に一瞬の躊躇が生じた。剣の送還と召喚は未だ行われていなかったはずである。だというのに、何故か存在した六本目の剣が、背後からラドーラの左肩を貫いた。
「がはっ……
 痛みと衝撃に押し出されるように肺腑より大量の空気がこぼれ落ちた。
「五つしか操れないと言った覚えはないな」
 狡猾と言うよりは悪辣である。自身の掌の上で勇戦するラドーラの姿を底意地悪く眺めていたのである。悪魔は腹の底から笑った。笑いながら、六本の剣を手許に招き寄せ、七本目、八本目、九本目と次々に剣を召喚して行く。二十一本目を最後に抜剣の音は已み、最後に呼び寄せた剣の腹を撫でながら、言った。
「百千の剣を……とは、流石に私の魔力では御しえないが、これこの通り。では、もう一方の肩も壊しておくとしようか」
 シェリダンは手に持った剣を大振りに振り被った。その動きに呼応して残る二十の剣も隊伍を組んで、剣先を、うずくまるラドーラに向けた。剣が貫いた。剣の悪魔の無防備な胸を。大仰に剣を構えて、得々と語りに悦に入る姿を隙と見たラドーラが、全力で大剣を投擲したのだ。
「ふむ……。惜しかった。悪くはなかった」
 淡々と蚊柱の悪霊は言った。そして、その身を今一度、蚊の群れへと変じた。血の汚れを持たない剣が落下した。打たれたように剣が鳴いた。蚊の集団はまた一つ所に集まって、再び《五剣卿》シェリダンを形作った。
「人の世の剣にて我ら《美麗公》の家門を傷つけることは叶わない。ただ、聖者の謡う賛美歌の調べ、精霊を讃える鐘の音のみが、不死たる我らを害しえる。蛮夷の娘よ、最初から剣にて私に挑んだ時点で、そなたの勝ちはありえなかったのだ」
 絶望的な報せに、しかし、ラドーラは狂喜した。
「鐘……だと? 鐘だと言ったな悪霊め!」
 落下した剣に駆け寄り、構えて、その封を解きながら、ラドーラは呵呵として笑った。
「鐘ならばここにあるぞ!」
 ラドーラが振るう剣は、その銘を〈バルバベルオルガ〉。バルバリアン諸島の支配階級である血族の、さらに直系にのみ受け継がれる剣である。その分類を《鐘剣》とする。
 鐘の名を持つように、剣であると同時に楽器でもある。より正確に言えば音叉と類似した構造を持つ音響兵器である。数叉に分かれた剣先が互いに共鳴し、ある種の呪術的な詠唱にも似た効果を発揮する。それは、武器であり、音器であり、祭器である。剣を振るい、戦うことが、そのまま儀式に通じて、独りでに魔力を蓄える。
 共鳴音を伴う剣の舞の昂揚の下で放たれる一撃は、窮めれば荒波を抑え、大洋をも断つという。
 ラドーラ自身は未だ、その領域には達していないが、族長家の末姫として、広く認められた武楽の舞手である。先ほど、その鐘剣の封を解いた。左肩が使えないのは痛いが、やってやれないことはないだろう。否、やり遂げるのだ。
 ラドーラは武楽に独特の体勢で鐘剣を構え、口伝された祝詞を唱える。
――――――――――――
 一か八かの賭けではあった。片や賛美歌であり精霊院の鐘の音である。片や祝詞を伴う蛮族の剣舞である。効果があるかは彼女自身まったく不明であった。むしろ、あまり自信はなかったと言っても良い。だが、幸いなるかな。彼女は賭けに勝利した。
「これは……聖者の謡う賛美歌と同じ法力を……
 傲慢であった笑みに変わって、苦痛に耐える顔が現れた。《五剣卿》の操る二十一の剣は全て地面に落下した。今や自分自身が落下しないように懸命に踏みとどまっている状態であった。空中で膝を突き、肩を抱いて、蒼白な顔で震え続けている。自尊の念高い傲慢な悪霊が、逃げようとして、しかし、逃げるための余力すらもない惨めな状態であった。
「良くは解らんが、流石は大王さまの御力の宿る鐘の剣。悪霊よ、さっき貴様は人の世の剣では傷つかないと豪語したな。うむ、確かに傷はつかないだろうな。傷などつく前に貴様は倒れるのだから。我の剣にて滅してくれる……!」
 言って、ラドーラは、剣に宿った魔力を全て解放した。剣から放たれた力が、眼前の悪魔を打ち据えた。しかし、その放たれる力は余りにも強力であった。窮めれば山を砕き、海を割る力である。万全の状態でも、人の身では御し難い力である。戦いに疲労し、傷ついた身体では耐え切れなかったのだ。
 己の放った一撃の結果を見ることもなく、ラドーラは泥濘に倒れ伏した。

☆★☆★☆

 薄れていく意識の中で、ラドーラは呟いた。
「我……死ぬのかな」
「死ぬか、馬鹿。お前のそれは、確かに怪我もあるし、重症だが、単純に空腹と疲労でぶっ倒れただけだ」
 よく知った声を聞いた。幻覚かと思ったが違うらしい。それは彼女の夫であった。
「ゴン……なんで、ここに」
「なんでもなにも、お前が飛び出すから後を追いかけてきたんだろうが。それが、途中で、急に痕跡がなくなってしまって、途方に暮れていたら、鐘剣の共鳴する音が聞こえたから、慌てて飛び込んできたら、お前が倒れているじゃないか……心配したんだぞ」
「そうか、それはすまないことをしたな」
「まったくだ、反省してくれ。それよりも、何があったんだ?」
「ああ、悪霊と出くわして、一戦やらかしてな……そうだ、ゴン、その辺に鼻持ちならない変態貴族が倒れてたりしないか?」
 ラドーラは、夫に悪魔との出会い、戦いの顛末を語った。
「そんなことがあったのか。俺が来た時には何も……あ、いや、そう言えば、蚊の群れがあっちの方向へ飛んで行くのは見たな」
「そうか……仕留めきれなかったらしいな」
 不死を名乗る相手がそう簡単に死ぬとも思っていなかったし、手応えらしい手応えもなかったので、薄々予想はしていたが、それでも少し、残念に思った。
「祖父殿か親父様ならば、一振りで完全に滅し得たのだろうが」
「長老様に族長様か。けども、お前、それは高望みのし過ぎってもんだぞ。不死だと名乗って、実際、剣で突き刺しても死なないような悪魔を、追い払うだけでも追い払ったんだからな。言うなれば、不死の大猿メドヴァラダハカを、正面からぶん殴って退かせたようなもんだぞ、大したもんさ」
 ゴンドアは、故郷の怪猿をひいてラドーラの健闘をたたえた。
「それはそうなんだが……なんとなく釈然としな……っと、痛ぅ……
「あ、こら、無理に立とうとかするな。命に別状がないだけで、重症であることには違いがないんだから」
 意識がはっきりしてくるにつれて、身体の痛みもはっきりとしてきた。
「立つ以前に身体が動かない」
「待っていろ。《蛇紅玉の工房》で、薬はちゃんと買ってきたんだ。応急処置になるが、今、看護してやるからな」
 用意が良いことである。妻が怪我をしているだろうと見越して、あらかじめ看護道具と薬品を持ってきたというのだ。
「とはいえ、まさか、ここまで重症だとは予想もしていなかったからな、薬が足りるか……ギリギリで行けそうだな」
「待て、そこで、なんで薬が足りたことで、がっかりした顔をするんだ」
 聞くまでも無く理由は知れる。ラミネアとかいう薬品屋の妖艶な女主人に会いに行く口実が一つ潰れたからだ。
「い、いや。そんなことはありませんよ?」
「貴様、判り易すぎだ。まあ、良いだろう」
 動揺も露わな夫の態度に苦笑する。
「こほんっ。それよりも、ラドーラ。この足の傷が問題だぞ」
……あー。その、なんだ。我も少し反省している。いくら怒りで我を忘れていたとはいえ、足の裏に怪我をするとは……戦い難いこと極まりない」
「いや、そういう意味じゃあなくってだな。お前は一回、戦いから頭を離せば良いと思うぞ」
 見当違いのことを悔やむ妻の態度に、今度は夫が苦笑いを浮かべた。
「そうじゃなくて、毒気と瘴気に溢れた湿原の泥に傷口をつけるなんてことが自殺行為だって言うんだ。傷口から……ば、ばい菌だったか? なんか、そんな風なアレが入って、足を腐らせてしまうことだってあるんだぞ」
「む……それは嫌だな」
 それはもう、心底から嫌そうな顔をした。
「だろう。だから、俺が言っているように、靴を履いて、服を着ろって言うんだ。故郷とは違うんだぞ。諸島ならば、俺たちは危険な場所も、毒のある動植物も、それに対抗する薬効のある薬草もよく知っているが、大陸ではまったく勝手が違うんだ。危険はなるべく避けてくれ、心配だからな……ほら、少しは手も動くようになっただろう、乗っかれ、肩車してやる」
「どうしたんだ、ゴン。マトモなことを、頭が良く見えるぞ」
 本気の驚愕を湛える妻の言葉に、夫は心外だという顔をした。
「失礼な奴だな」
「我はてっきり、恥ずかしがっているだけなのだと思っていた。ちゃんとした理由があったのだな。実は、我も、今日の戦いで、靴は履くべきかもしれないとは思っていたのだ。足の怪我さえなければ、第六の剣に即応できなかったようなヘマはしなかったはずなのだ。過ぎた戦いに必要以上拘る気はないが、次に同じような失態は演じたくない」
「そうか。理由はどうであれ、キチンとしてくれたら、俺の心配も少なくなると言うものだ」
 ゴンドアは肯いた。
「まあ、恥ずかしいというのも確かなんだがな。文明人というのは服を着るものだ」
「そうか」
「そうさ。むしろ、俺はお前が恥ずかしくないっていうのが信じられないぞ。恥じらいってものは良いものだぞ。特に、長いスカートから肌着がチラッと見えた時の乙女の恥らう姿なんて、貞淑なエロティシズムとでも言うのか最高だ。お前だって、服を着て、恥じらいを見せてくれればもっと可ワ……
 そこまで言ってから、ゴンドアは蒼白になった。首に回されたラドーラの腕が力強すぎることに気づいたのだ。
「いや、違う、違うんだ、ラドーラ!」
……死ね」
 片腕の一動作でラドーラは夫を落として見せた。
……まあ、確かに、恥じらい云々の妄言は置いておいて、錬金術の薬の効果は凄まじいな」
 まだまだ痛むが、それでもちゃんと動く。この分ならば、自力で歩いて帰れそうだ。
「そういうわけだ、ゴン。我も早速お前の言うところの文明人らしい生き方を実践してみようかと思う」
 そう呟くとラドーラは夫の服を脱がしに掛かった。そして、それを着込んで行く。靴は大分大きかったし、上着もぶかぶかであったが、湿原での小さな擦過傷を避ける役には十分立つだろう。
「せめてもの情けだ。ズボンは許してやろう。……使い物にならなくなっても困るしな」
 自分はなんと慈悲深いのだろうかとラドーラは一人悦に入った。
「じゃあな」
 言い捨てて、ラドーラは一人、倒れ伏す夫をその場に残して、街へと歩き出した。

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