「それでは失礼をいたします。奥さま
用事を果たした私は、よそ行きの猫皮をぐいっと引っ被って、深々とお辞儀を一つ
その際に、来た時と同様「お母様のお使い、偉いわねえ」とにこにこと品良く微笑んだたおやかな中年婦人に褒められる
もはや絶滅した――と言うよりも
そりゃあ五十を過ぎた人たちから見れば
なのだがやはり高校二年生
それにしても、流石は臣野姉妹の母親だけあって、いつ見ても五十過ぎにしては若々しくて美人なおばさんだ
この親にして、あの子供あり、と云う感じで、私もあやかりたいものだ
その子供のこの性癖まであやかりたいとは思わないけれど
「あら、お早う
私が臣野宅の
「お早うございます。ドーニャ先生
振向くと、庭木の向こうから
イラン人の血を引く薄褐色の肌と好対照な、絹の襦袢の耀く白が涼しげであり、
ドニヤザードこと本名を、臣野・アリー・
異常なまでに板についた女物の衣装に、私たち本物の女以上に女性的な言葉使い
だが「別にオカマという訳ではない」……らしい
本人の言によると「女装趣味の
まあ、それはそれとして、この人は何だってまた、自宅の庭を下着姿で徘徊しているのだろう
「徘徊って、眠気覚ましに散歩しているだけよ
私の疑問こそが不思議だと言いたげな態度で答えられた
私がそう言えば「でも、家にはあるのよ」とこの御仁はのたまった
さようで。さすがは鷲王二万四千石の御館だ
城ではないので平屋だけれど――平屋なのは母屋のこと
まあ、それくらいは昔っから当然知っていたけれど
「それにしても、寝間着を着替える手間は惜しんでいるのに、ヒゲは剃ってから行動するんですね
「当たり前でしょう
軽い
「……何で、胸を凝視するかな、この子は
まっ平だ。
「いえ、ヒゲと偽胸の優先順位と云う部分が興味深いなーと
「そんなとこに興味を持たない!
ビシッと、頭頂部に軽くチョップされた
「痛いじゃないですか、暴力教師
「ふふん、セクハラに対する報いとしては安いものだと思いなさい
「はーいっと、そう言えば、先生。昨日A組の、と言うより生徒会書記の風琴瑠璃が先生を探していましたよ。
「ああ、部室まで行ったらしいわね
「そう言うってことは、連絡は通じたんですね
「まあね
と言ってから、ちょっと苦笑する
「ってか携帯の電源入れたら、風琴くん他の生徒会役員からの不在着信の履歴がずらーと何件も連続してて焦ったわ
それは自業自得だと思う
「でも、何だったんです。先生と生徒会の接点とか、丸っきり不明なんですけど
「ふふ、美少年との愉しき
こっちも苦笑する。なんか笑ってはぐらかされましたよ
それにしても浮かべる微笑には無意味なまでに
「この生物は年頃の少年少女には目の毒だなあ
これが高等部の校舎を野放しでうろついているのだから、うちの学園もたいがい懐が深い
願わくば、道を誤る男子学生が出ませんように
「なんか、
授業も解り易いし、生徒ときっちり一線を引きつつ、高圧的なところのない、良い先生ではあるのだけれど、
って、これは生徒会と言うよりは、風紀委員とか学園、PTAの役回りかな。その割には何か不自然なまでに自然に、皆がこの性別のよく判らない生物を受け入れているけど
「あははっそんな今更……ヤツラを除いては
今更なんだ、やっぱり
残念ながら先生は教育委員会の受けは悪い。むしろ当然って気もする。たぶん普通に受け入れている学園の方がまともではない。噂ではこの先生の存在の為に、教育委員会と学園の関係がぎくしゃくとしているのだとか
「いや、委員会と仲悪いのはむしろ代々の学園長であって、私いなくてもそれほど変わらないって、いや本当に
朗らかに笑いながら、別の意味で問題のあることをのたまった
「まあ、どうだって良いんですけどね
「うーん、願ったりかなったりなんだけど、そうきっぱり言われるとちょっと寂しいわね
今度は苦笑いを浮かべ首を
と、携帯の着信音が鳴った。この音は私のものではない、先生のものだ
「どうぞ」と私に遠慮せずに出るように促がす
「悪いわね
「いいえ。それに良いタイミングです
ぐだぐだになりかけた世間話を、惰性と化す前に打ち切るのには
「それじゃあ、私は失礼します
有無を言わせず一礼した。嫌いではない、むしろ好きなのだけれど、一対一で長々と話し合うにはちょっと苦手だ
「あらそ、まあ、引き止めて悪かったわね、それじゃあ気をつけて帰るのよ、最近は変質者なんかも多いから
大丈夫。私はもう二日続けて変質者なんて可愛く思えるような異常事態に遭遇しましたから……
純粋に心配してくれているはずの先生の言葉に、思わず皮肉な反応を返しそうになる
と、私の背後で先生がびっくりとした声をあげた
「もしもし……はっ、見られた? 誰に、何処で?
声に続いて、視線を感じた気がして振向くと、どこか唖然とした表情で先生がこちらを凝視していた
この人のこういう表情はとても珍しい
だが、何故だ、あれは妙な生物を、世にも稀な珍獣を見る目付きだ。それも
……って、見たこと無いけどさ
「……こっちが聞きたいわよ。何故! って、さ
悲鳴のような声を上げる
「ああーああ、対策は後で考えるから、彼女には貴方から連絡をとってちょうだい
慌てた様子で話を打ち切る。そして何でもないと言いたげに、何かあると強烈に主張しているひきつった笑みを浮かべた
あからさまな、当の本人でさえもそれで誤魔化せるだなどとは露ほどにも思っていないだろう
首を傾げざるを得ない
私に出来たのは、「何?」と、頭を疑問符で一杯にしながら、お屋敷を後にすることだけだった
……そして
もしかすると、冗談事でなく本気で手遅れなのではなかろうか
口は災いの元、噂をすれば影が差す
まったくおちおち軽口も叩けない
自分自身への呪詛ばっかり
帰途。私は三度異常事態と遭遇した
何となく、自分でもどうしてそんなことをしたのかよく判らないのだけれど、いつのまにか私は空を見上げていた
そして
「――天使!
愕然として叫んだ
周囲を行きかう通行人が
私の――この一両日で信頼度が大分減少したとは言え――視界の内、光り輝く、いや光その物と見える翼を背から生やした人間――遠く、そして高すぎて、細部までは
さきほどの鬼のときにも疑ったけれど、もしかして本当に私の眼は狂ってしまったのだろうか
どうやら十人かそこらはいる周囲の人たちには見えていないらしい物を私は見ているようだ
それに翼を生やしたくらいで人間の筋力と体重では飛べるはずがないのに
だから、これは、今度こそ本当に幻覚なのだろうか
それにしてはしっかりとしている
……信じたいのだが
――しかし
仏教と神道の日本に
それに私は先祖代々真宗なわけで。回心しろとでも
すると、天狗だろうか。うん、こっちの方が
そうすると、あの天狗様はきっと天狗の隠れ蓑を纏っていなさるのだ
うん、きっとそうだ、そうだとも
それならば他の人には見えないということを含めて、全てに納得が……いくはずがない
そうすると、ならばどうして私にだけは見えるのか、という新たな疑問が湧いてくる
もはや、何がなんだか
「ははは
笑ってみる
「むー
しかめっ面
「……
無表情
「手があるくせに、どうして翼があるんだ
根本的な部分に対して、文句をつけてみる
唐突な百面相と独り言に、周囲の人がこちらを薄気味悪そうに眺めている。だと云うのにそれさえも気にならなかった
いかん……
これは……
ちょっと……
鬼や鼠はまだ、かなり無理をすれば理解できなくもなかった
そう、大分頑張れば、大分ね
カンガルーだって直立くらいしているし、あの鬼は実は超重量級のプロレスラーだったというオチとか……
だけれども、羽の生えた人間型生物が空を飛ぶ、そしてそれを見えているのが私だけだという事態はいただけない
それまでにも大分揺らいでいた常識と精神的な持久力とが
意を決して、私は、叫びだしそうになるのを、なけなし残った羞恥心と自制心で