【 サクノスの逃亡 】

「それで、わざわざのお呼び立て、ご用件はなんだい、アイリーン」
 客をもてなす茶席の為の茶具一揃いを持ってきた下女が、東洋風の美しい茶器類を綺麗に並べ終えて退出したところで、従妹であるアイリーン・メイスン女子爵が手ずからお茶の支度を始めたのを合図に、サクノス男爵シリウス・オーラスリオンは彼女に向かって用向きをたずねた。
「お待ちになって、お従兄さま。先にお茶にしてしまいしょう。時間を掛けすぎたり、逆に少なすぎたりしては、折角のお茶が美味しく淹れられないわ。もちろん、冷めてしまっても駄目よ。それにね、お従兄さま。今日はお客さまを招くにあたって、見栄を張っていつも飲んでいる物よりも、うんっと上等の茶葉を用意しているの、だから、私もとても楽しみだわ」
 アイリーンが笑いながら言った。
 それも道理だと思ったので、シリウスは素直に待つことにした。もとより、それほど長い時間ではない。
 けれども、こういうちょっとした時間というものが、しばしば一番退屈に思われるのも確かである。気付けば視線がふらふらと彷徨い始める。暇つぶしとして、無作法にならない程度に、そのまま室内を眺めることにした。
 ふと、絵の中の老紳士と目があった。アイリーンの祖父である先々代のメイスン子爵。シリウスの母方の祖父でもある。
 中の下の家格であるメイスンの邸宅は、相変わらず豪奢さとは無縁であったが、その分絢爛豪華な王宮や大貴族の威圧的な城館、豪商の贅を凝らした屋敷などと違って、ゆったりと落ち着くことができる。たまたま剣の腕が立ったのと、いくつかの幸運に恵まれて立てた武功もあって、不思議と王その人や廷臣たちに気に入られて、王国騎士として宮廷に仕えることになったが、元々が無骨な下級貴族に過ぎない自分には、ああいう華やかな場所は、今でもあっていないと思う。
「あら、どうせ、我家は辺鄙な田舎城ですよ」
 アイリーンはすねた振りをして、大袈裟に口を尖らせる。
「なにも、馬鹿にしているわけじゃあないさ。知っているだろう、おまえだって、私の生家はもっと小さいのを」
「どうだかっ。ああ、レベッカ。お茶はあなたも一緒にお飲みなさい」
 アイリーンが、後ろに控える年寄りの召使いに言った。初めてみる顔だが、シリウスは少し奇異に感じた。
 自分は別に構わないが、使用人にお茶を一緒に飲めというのも珍しい。アイリーンはそういう、他愛もないことで使用人と同じ次元に降りたつもりになったり、下々に善行を施した気になって喜ぶタイプではなかったはずなのだが。
 それに一礼して、老女が躊躇う様子も見せずに卓についたのにも驚かされた。五十をいくつか過ぎたところかと思われる初老の女であった。年齢のわりには肌艶も良く、若い頃の美しさを偲ばせる硬質の美貌の持ち主である。顔立ちや物腰は、主であるアイリーンや自分よりも、よほどに高貴な印象を与え、奇妙に堂々とした態度には、畏怖の念さえ感じさせられた。
「わたくしの顔になにか」
「いや、なんでもないよ」
 打ち消したが、その流暢かつ典雅な発声に、いっそう不思議に思った。どこかで聞いたような気がした。顔も見たような気がする。しかし、妙齢の女主人を放ったらかして、その使用人の顔をじろじろとぶしつけに睨みつけ、いつまでも首を捻っていても仕方がない。なにより、老若二人の女性からの視線が痛い。勇猛果敢な騎士シリウスは、逃れるように茶を口に運んだ。
「言うだけあって、とても美味しかった」
 社交辞令でなく、本心から称賛した。
「それで、用件というのは」
「ええ、それなのだけれど、お従兄さま。お従兄さまは私がどなたにお仕えしているかご存知よね?」
 言いながら、アイリーンは、先ほど彼女がレベッカと呼んだ老女をちらちらと横目にしている。
「ああ、勿論だ……
 そこまで言ってシリウスは唐突に気付いた。自分は老女を知っている。慌てて、椅子から降り、襟を正してひざまずいた。
「サクノス卿」
 アイリーンの隣に座る年寄りの召使いを装っていた貴婦人が、シリウスに呼びかけた。
「これは、母后さま」
 隠し切れない驚愕にかすれた声でシリウスは言った。どこかで見聞きしたような声、顔立ちなのも道理である。それは、現国王の生母である王太后その人であった。一度か二度であるが、王宮にて拝謁する機会を得たことがある。
 だが、どうしてこのようなところに母后が出てくるのか。いや、たしかに従妹であるアイリーンは、王太后付きの女官として王宮に出仕しているはずだが、だからといって母后たる人が、一臣下の――それも、限りなく下級に近い貴族の娘の屋敷にお忍びで遊びに来るわけがない。
(だが、現実に母后は目の前に存在するわけで)
 いかなる怪物と対峙した時にもこれほど無防備に戸惑ったことはない。
 混乱するあまり、シリウスは、従妹が一度部屋を出て、何かを抱きかかえながら戻ってきたことにも最初気付かなかった。
「サクノス卿」
「お従兄さま」
 二人に同時に呼びかけられて、シリウス・オーラスリオンはようやくのことで我に返った。彼の混乱はまだ続いていたが、どうにか意識ははっきりとしてきた。
「見られよ、サクノス卿、この赤子を」
 母后はアイリーンが抱きしめる物を示した。それは、布でくるまれた赤ん坊であった。
……この赤ん坊は?」
「哀れな娘だ。いや、あるいは、このような愚行を為す家より離れられるのは幸いであるのかもしれないが」
「は?」
「ふふ……わたくしの息子の娘にあたる子だ。つまり、わたくしにとっては孫であるな」
「では、アルセリアさま」
「否、アルセリアではない」
「なんですって、しかし、王家には」
「そう、おらぬはずだ。今上王の直系の子は、今のところアルセリア唯一人、そういうことになっている。だが、ここに存在している子も、確かに王の種になる子だ」
「では、いずこかの妾妃との?」
「それもまた否、けっして不義の子にはあらず。これは間違いなく、王と王妃の間に生まれた娘だ。ふふふ、訳がわからないという顔をしているな。さもあろう、王宮の秘事に属すること、知る者の方が少ない。王妃すら己が生んだ子が双子であったとは知らされておらぬのだ。王と卜部が咄嗟に双子の片割れを隠してしまったからの」
「何故、そのようなことを」
 理解しがたいという表情で、かすれた声で呟いた。なぜ、そんなおかしなことをしたのか、そして、なぜそのような秘密を自分に教えるのか。
「我が王室は、古来〈双子〉を許しておらぬ。それが傍系の家の子ならば構わないが、王の子が双子であった場合は、そのどちらかを《創霊神》の身許へと送ることになっている」
「なっ、つまり……それは……
「そう、とどのつまりは殺すのだな」
「何故!」
 シリウスは叫んだ。しかし、理由はわかるような気がした。王国の将来に内紛の種を作らないためだろう。
 だが、それはわかっても、納得できるわけもない。なによりも、王家への不信を抱かせるような、そんな話を聞きたくはなかった。これが余人の言ったことならば、戯言よ、不敬なる誹謗よと切って捨てることもできたのであろうが、母后たる人の口から直接に聞かされては信じないわけにもいかない。
「何故、そうするのかの理由は、いつの世にもある下らぬことゆえ、敢えて言うにも及ぶまい。そして、何故、貴公に話すのかと言うと、このくだらない慣習に一矢報いてやりたくてな」
「一矢?」
「死ぬべき娘を生かしてやりたいのだよ、サクノス卿。これは命令ではない。私と貴公の身分、立場、状況を考えれば、結局は強制にしかなりえない以上、詭弁じみた奇麗事にしかならないのは承知の上で敢えて、言おう、これは、騎士たる貴公への切なる婦人のお願いだ。どうか、この娘を連れて、どこか遠くの国へ逃げてはくれまいか」
 母后は、シリウスの手を握り締めた。
「もちろん、貴公は聞かなかったことにしても良い。聞いた以上は、内心、これまで通り……とはいかないだろうが、わたくしは、別に、貴公が従わなかったからといって、刺客を差し向けたりはしない。貴公の口から、漏れる心配もしていない……というわけでもないのだが、別にわたくしは漏れても構わないと思っている。一介の騎士たる貴公がそのようなことを喋っても、内心はどうあれ、誰も真実とは信じるまい。そして、真実と知る者は、噂の出所を許しはしないだろうな。それでも、口封じは逆効果ゆえ、生命を奪われるということはあるまい」
「それは、それは、脅迫と言うのです!」
 思わずかっとなってシリウスはつかみかからんばかりに叫んだ。
「聞いてしまった以上、それを放置することなど……
「そう出来るはずがあるまい。貴公はそういう人間だ。ふふふ、何を知ったような口をという表情だな。貴公は貴公自身が思っている以上に有名であるし、それに、わたくしはアイリーンから、貴公のことを聞いている。アイリーンは信用のおける人間だ、そのアイリーンが信を置く人物ならば、この娘を託すに足るだろうとわたくしは確信しているよ」
「お従兄さま」
……アイリーン。まったく、おまえ、私を売ったな?」
 そんなわけもあるまいが、困ったような表情で、シリウスは従妹へと苦い笑みを返した。
「まあっ、失礼な」
 そして、唐突に気付いたのだが、最初にアイリーンが言った「お客さま」というのは自分のことではなく、王太后のことだったのではないだろうか。苦笑をさらに深いものにする。
「やれやれ、どうやら、私はミュルメコレオの巣にとらわれて、もはや抜け出すことの叶わぬ蟻の子のようです。ここにいたっては、騎士として、じたばたと見苦しい振舞いはいたしますまい。それに、貴婦人方の切なる願いを袖にしたとあっては、それこそ男がすたるというものです」
「感謝を」
 言葉は短かったが、真摯なる感謝の念を向けられていることを、シリウスは知った。
「それで、この公主さまの御名は何と」
「間違えてはならぬ」
 解答を間違えた生徒を叱責する厳格な教師の口調で母后は言った。
「そうだ、間違えてはならぬ、この娘は王姫にあらず。ただ、失われるべき過去の一時において、わたくしの息子を仮の親として王家に生まれてきたこともあったかもしれないが、それはあくまで虚仮に過ぎない。この娘は、獲得するべき未来において、貴公を真の親として育つべき赤ん坊だ。ゆえに名前は未だ持たない。あるいは、持ち得た人生もあったやもしれない。だが、それは実現しなかった可能性の残骸に過ぎない。夢だ、夢、けっして手を触れることのできない夢。そして、現実はこうだ、この娘は未だ誰でもない、この娘に名前はない。ならば、わたくしも貴公も、現実を見て、儚く、ありえざる夢見事に執着するべきではない。……アイリーン、その娘をお渡し」
 名も無き姫を腕に抱き、淡々と母后は続ける。騎士は眼前の老女の瞳に、寂しげな光を見たように思った。
「それに、名前をつければどうしても情が移る、縁ができる。何よりも、この娘はわたくしたちからは無縁の人生を送らなければならない。我らは追わぬ、追ってはならぬ、追ってしまえてもならない。ならば、知るべきではない。だから、敢えて、わたくしは知らずにおこうと思う。うふふ、薄情と思うかえ」
……いえ」
「隠さずともよろしい。自身、薄情な婆よと思っている。わたくしは、この娘を哀れんで逃がそうとしているのではないのだ。ただ、我が王家が連綿として行ってきたこの罪深い愚行に我慢が出来ず、どうにかケチをつけてやりたいのだ。それでいて、我が王家の名が、国家の対外的な威信が傷つく事を恐れて、全てを暴露するという正々堂々たる行いに踏み切る勇気は持っていない」
 己の腕の中ですやすやと眠る孫娘を一瞥し、自分自身を嘲笑うように、母后は笑った。
「そういうわけだ、サクノス卿。この娘の名前は、首尾よく逃げおおせた後に、貴公がつけられよ」


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