天翔ける船が洩洩として、九重の雲の内を進む。
自身の足の下に広がる雲海を、その男は見るとはなしに見下ろしていた。
時にたなびく白妙の雲よりも高く、ほとばしる気筋の潮流に乗って、天海航路を往く鳥船の甲板から眺め渡した時、そこに展開されている世界の有様は、地上にあって男が充分既に理解したつもりになっていたそれとはまるで違っていた。
鳥船は中層雲の中を飛翔している。ちょうど天上と地上の中間層に漂う高積雲。いわゆる、むら雲やひつじ雲、まだら雲などと呼ばれる、群小の塊状をなす雲である。
地上から見ていた時は、小ぶりな綿菓子や蚕の繭玉か何かに見えたそれも、中にあってはとてつもない大きさであることが判る。濡れた鼠の毛皮であった灰色も上から眺めれば、太陽の照り返しにキラキラと白く輝いていた。
白雲のスクリーンに浮かんだ鳥船の影を囲む真ん丸い虹の輪っかが、こちらは七色に輝きながら追いかけてくる。
唐突に雲が途切れた。
白無垢姿の雲に代わって、鏡写しになった空のような青い海が現れる。
それはラピスラズリの藍青よりは、むしろアマゾナイトの青緑色の海である。そしてそこに点々と浮かぶ、茶色であったり緑であったりする大小無数の小島。青絹のテーブルクロスにぶちまけられた色鮮やかな石ころのようなその中には無人島もあれば、人々が生活を営む土地もある。それらが砂絵が風に吹き散らかされるように、凄まじい速度で後方へと――男の主観では左から右へと――駆け抜けて行く。
流石にこの高度からでは肉眼で地上の詳細を見ることはかなわないが、渡り雲の降らせた雨に苔むす巌の屋根に若草の絨毯を濡らしているのだろう。
そしてまた、遠くに在るものが小さく見えるのは道理であるが、遥かに遠く、小さく歪んだ地上の景観の全てが、厳密に計算ずくで配置された美しい箱庭と見える。
あるいはドールハウスとそこに暮らす人形たち。
つられて人間の営みのあらゆる物が、富裕層の狂騒に貧乏人の困窮、日常に非日常の地上で起こりつつある戦乱をも含む何もかもが、そんなわけは無いのだが、どうにも作り物めいて、ちっぽけな物に思えてくる。
天上や妖精境に流れる時間は緩やかだと言うが、ここでは逆に流れる時間さえも、地上にあるときよりは早く流れているらしい、時の流れにつられて思考も疾くなるようだ。
ありふれた、手垢に塗れた表現であるが、それは空を飛ぶ神鳥の目線。あるいは雲の上を逍遥する真人の境涯。
それは存外に愉快だった。考えていた以上の衝撃だった。
それは単なる高揚感がもたらす錯覚に過ぎないはずだが、学者連中が必死に探索する<真理>とやらは案外にこういう物かもしれないとさえ男には思えた。
そのままお道化た調子と小さな声で、「エウレカ」の一言を舌の上で転がす。
浮かれている時には、つまらない事が却って愉快に感じるものだ、それが些細であればあるほどに。それで思わず笑ってしまう。からからと大きな笑い声が洩れる。
一般に馬鹿笑いとか哄笑などと呼ばれる類の豪快な笑いである。それでいて下品な感じは与えない、どこか気品をさえ漂わせながら笑い続ける。その愉快を主成分とする呼気を男が発するたびに、伝わった振動が欄干に投げ出された腕を動かし、それに連動して大きな肩が上下に揺れた。
揺れる男の左肩を止まり木にして、一匹の鷹が止まっている。
止まり木の色褪せたベージュとは対照的な、美しく小柄な、柔らかい春の日の光を集めて紡いだ絹糸の羽を、暖かな色艶を持つ翼をそなえた鷹だ。
男の羽織ったコートの肩部の当て布に羽を休めながら、笑う主人を不思議に思ったものか、それとも単にがたがたと揺れる足場が不愉快なだけか、今は首を傾げるようにして、飼い主のにやけたヒゲ面を眺めている。
夏の雑草か箒のような顎ヒゲに、分厚い胸板と肩幅とを支える長躯が合わさって、灰褐色のヒグマのようである。
自分を眺める鷹の視線を受けて、そのヒゲ面がふいに口を開いた。
「よう、ウィンディ。空高く飛んで、下界を見渡すってのは中々気分が良いもんだな」
まぶしそうに眼を細めて呟く男の声音は、抑えきれぬ確かな興奮を含んでいる。
地上より遥か高空、この天海航路の氷点下まで冷え切った大気と、激しく吹き荒れる風の猛威から、翼を持たぬ人の身に過ぎない男が逃れ、吹きさらしの甲板に立っていられるのはひとえに船体を取り巻く結界のおかげである。
本来は、膜状に展開された結界にて船体を包むことにより、大気との摩擦による熱や雷を防ぎ、高空を飛ぶ鳥類や幻獣との衝突から船体を保護し、なおかつ流線型に形成されることで空気抵抗を少なくする為の機構であるが、この種の遊覧船も兼ねる豪華客船などでは、特に甲板などまで守備範囲が拡張・調整されており、甲板の環境を薫風そよぐ初夏のようなコンディションに保っている。
そうでなければ、飛行中の鳥船の甲板になど人が立ってはいられない。
そして男が日頃利用しているような、安さが身上の貨客船では、運航自体には不要である観覧用の結界といった類の高価な施設は備えていないのが普通であるし、特に安いものでは、ガラス代他の経費さえケチった結果、座席からの物見窓さえ取り付けていないのはザラである。
その為、こうしてじっくりと眺めるなど、旅なれた男をして初めての経験であった。
感に堪えない様子で、大の男が子供のようにはしゃいでる。うきうきと愉しげな鼻歌がついついこぼれる。
話しかけられた鷹――ウィンディが、小さく「ピュイ、ピュイ」と頷くように啼く。それはどこか得意そうに、もし彼女が人間ならば胸を張るかしていそうな態度だった。その動きが尚更におかしい。
「お前さん、いつもこんな愉快な気分を独り占めしてやがったとは……こいつは許せんな。罰として今夜は飯抜きだな」
鼻歌交じりに語りかける主人の言っていることが解かっているのか、抗議するように大きく啼くウィンディ。
「冗談だ、冗談。んな、ピーチクさえずるなって」
そんな愛鳥の様子に男は眼を細めながら、「こりゃ堪らん」と耳を塞いでまた笑う。
大柄な男のことだ、揺れもまた激しい。腕を挙げた事も相まって、時ならぬ地震に迷惑そうに、一際高く鷹が啼く。
ちょうどその時、船内アナウンスが何事かを告げた。
だが、ウィンディの長嘯と耳を塞いでいたこともあり、そのせいで男は聞き逃した。だと言うのに、「失敗、失敗」そう呟きながらも、軽く首をかしげた他は、慌てることもなければ、別段に困った様子でもない。
「まあ、重要なことなら折り返し、再度アナウンスされるだろうさ」
誰に言うでもなく小さく呟く。
なるほど、もっともなことではある。だがそれで悠然と――とうに春も半ばを過ぎて、今しも夏へと差し掛かろうと言う時節だと言うのに、季節感などは一切構わずに――羽織ったコートの裾を捌きながら反転して、それまでは前向きに寄り掛かっていた欄干に今度は背を向けて凭れかかるのだから、それにしても呑気なものである。
それもそのコートは、大陸北西から飛来する、春の風物詩たる黄砂などを防ぐ為に纏う薄手の防塵用などではない。
元は軍用で、現在では傭兵や冒険者、用心棒稼業の人間たち――あるいは、それ気取りの人種――に好まれる定番の多機能コートである。それで防塵の意味もあるのかも知れなかったが、その主目的は明らかに防寒に置かれているようで、その生地は分厚く、よもや鳥が止まり易いようにではあるまいが、肩の部分には共布の当て布が着いている。
それは新品の時は綺麗な栗色だったのだろう。だが、今では所々に往時の名残を留めつつも日光や洗濯による退色が進んで貧乏臭いベージュに成り果てていた。
いかに船内が空調によって温度湿度が快適に整えられているとは言え、ただでさえむさ苦しいヒゲ面の熊男が、古びて色落ちしたコートまで羽織っているのだから、見ているだけで暑苦しいことこの上ない。
それでも不思議と不潔な印象を与えないのはひとえに、男が長年月愛着を持ってそのコートを着続けている為だろう。こまめに洗濯と修繕を繰り返しているのだと、一目でそれと知れた。
よほどの思い入れがなければ、そんなに手を入れまい。それに、その褪色の一因でもあるマメな洗濯と、中身がそなえる風格によるものもあるのだろう、一種独特の清涼感と気品をさえ感じさせる。
そのコートの胸ポケットから小さな紙箱と同じく小さな金属製のケース――紙巻タバコとオイルライターを取り出す。
どれでも違いなどなかろうに、残っていた八本の中から、妙にもったいぶって一本を選り分けた紙巻タバコを大儀そうに咥えると、着火の際に洩れるオイルライターに独特の臭気に鼻をひくつかせながら、おもむろに火を点ける。
煙を大きく吸い込んで、それ以上に大きく吐き出しながら、一緒に言葉を吐き捨てる。
「ああー、クソ不味い……」
不味いならば吸わなければ良いようなものだが、常日頃主張するように、「そのチープな不味さこそが堪らない」とばかりに弛緩した様子で紫煙を吐き出し続ける。
風下に立つ事になったウィンディが、不満げに啼きながら位置を変える。一瞬失われて、すぐにまた場所を変えて掛かって来た重みを感じながら、予想通り耳に飛び込んで来た再度のアナウンスに耳を傾ける。
『西廻り航路。水城発〜グェン・ムライ行き。定期船<迦陵頻迦>をご利用のお客様にご連絡致します。本船は間もなくグェン・ムライ上空空域龍脈嵐<第五封火結界>に進入致します。進入の際少々揺れますので、甲板にお出でのお客様は速やかに船内にお戻りの上、座席にお着き下さいますようにお願い申し上げます。繰り返します、本船は……』
「……おっと。いくら結界があると言っても、落ちでもしたら洒落にならねぇからな。行くぞ、ウィンディ」
腕に覚えがあろうとなかろうと、この高度から落ちれば人は死ぬ。そこには老若男女高貴卑賤の区別は無い。それを解っていて無意味に危険に身を晒すのはただの愚行である。そして勿論、この男は愚か者ではなかった。
咥えタバコのまま船内に入ろうとして、乗務員と一悶着起しながらも男は自分の座席へと向った。
<金烏>に始まる鳥船の第七世代。
直系の先祖たちとは違って、設計の当初から軍事目的ではなく、連邦国内や世界各国の主要都市間を結ぶ定期船・交易船を目的に運航させる事を想定して建造された、<迦楼羅>級の大型船。
その内の一隻であり、瑛紗連邦の主要都市間を結ぶ西廻り航路の定期船として、一昨年より運航されている<迦陵頻迦>は、「楽土に啼く鳥」、「極楽より舞い降りたる鳥」の名に相応しい、典雅な外観をした船だった。
頑強を第一とする戦船に、結局は老朽化した戦船からの転用が多かったそれまでの船との差別化の為に、敢えて金属ではなく木材を用いて造られた、美しく複雑な組木細工のような船体に、切子硝子と扶桑紙を主体として、徹底的に金属を廃して設計構築された艤装と言い、宮殿などの建築物がそうであるように、それ自体で一個の芸術作品と言えた。
紙に硝子に木材にとつくづく脆そうな素材で構築されているが、魔術的・化学的に幾重にも講じられた防御策の為に、極限まで腐敗は遅らされ、鋼鉄以上の強度をそなえている。
その分、質量と体積、対象となる物質の密度に依存する付与魔術の許容量を、防腐と強化、船内環境の維持に廻しているので、同程度の大きさの戦船ほどの性能は持ち得ない――付け加えれば、それらの処置に尋常でない額の金銭が掛かっている――が、民間で運用する限りでは何の支障もない。
その証拠になるかはともかく、就航の前後に一部のメディアなどで騒がれたような、船体の脆弱性とそれに由来する事故や危険などとは無縁の活躍を続けている。
話題の旬は過ぎたが、その飛ぶ姿の優美さと、それを支える先端技術は今でもしばしば雑誌やニュースに取り上げられる。その際にもっとも力点が置かれるのは、やはりそのいっそ外連じみた麗々しく豪壮な外観である。
船の前方先端には一本の嘴のようにも見える衝角がそびえ、しっとりとした木肌を持つ流線型の船体の下半分からは左右十八本ずつ、計三十六本の櫂が伸びている。
この一群の櫂が大気の流れを掻き分けて、龍脈に浮かんだ船を進めるわけだが、漕がれる度に斜め後方へと流れるさまは、翼を広げて羽ばたく鳥のような優美な姿である。
また、船体後部と左右にある推進器からは、鳳の尾羽が輝くような七色に煌く噴流が扇状に吐き出されている。
この世には<龍脈>と呼ばれる気の流れが存在している。
気とはまた、未分化の魔力などとも呼ばれる――有史以前より利用されてきたにも関わらず、その性質には不明な点のほうが多く、究極的な部分に関しては未だに学術的な決着がついていない――が、純粋な力その物とでも言うべきもので、地下や空気中を常に一定の法則の下で飛交っている。
そしてその流れの総称が龍脈である。あるいは、レイ・ラインであり、聖なる線。
それで鳥船はその龍脈に乗って天海を航行するわけであるが、龍脈の吹き溜まる山脈や、ある意味で気の塊とでも言うべき人間が多数居住する地域、つまりは都市の上空などでは気の奔流が常時嵐のようになっている。
嵐の海を水上船が容易には越えられないように、龍脈の嵐を越えることもそのままでは不可能である。
あるいは、流れてきた海水がぶつかり合って渦を巻くように、渦潮と呼ぶのがより適当かもしれない。
だが、どちらにせよそれでは鳥船を輸送・交通に用いる旨みは少ない。人気のない平地同士を繋いでもあまり意味は無いのだから。それをなんとか突破し、利用できるようにすれば大儲けである。
そこでどうにかできないものかと、考え出されたのが<封火結界>である。
封火と呼ばれているが別に火の元素を封印するわけではない。
最も励起が容易な火行の元素から活性化し、そこから<相生現象>によって順繰りに、連鎖的に励起させる為に火の名が用いられているだけで、この点では実のところは封水でも封金でも構わないし変わりはない。
封火結界の骨子は五行論に基づき、無属性あるいは全属性とでも言うべき<元気>を、木・火・土・金・水の元素に定義付けを行い固定する。
所定の空間内の気に偏りを起こさせる。いわゆる場の属性定義であり、言うなれば龍脈の<凪>である。
その凪の帯が、鳥船を迎え入れるルートとして、都市の上空などには結界として、常時展開されている。
そこを進むわけであるが、ここで別の意味で問題が生じる。強固に固定化された龍脈を櫂が漕ぎ進めなくなる。
<水面の凪>は単に風が吹かず、波が立たないだけであるが、<龍脈の凪>は属性のぶれがなくなること。属性が固定化されていない気が<元気>であり、<元気>の流れが龍脈である。完全に定義付けの行われた気は流れない。
固まった氷の中を漕ごうとするようなもので、無意味であり、進まない。
そこで登場するのが五行論のもう一つの柱、<相克現象>である。
衝角の尖端を中心にして、木行の元素を放出し、安定一転、火行元素を過剰に発生させる。ここまでは相生である。そこから今度は逆を辿って五行の元素を破壊・分解し、再び<元気>へと還元し、局所的に龍脈を復活させる。
そこを漕ぎ進み、進んだ端から、結界によって元素が再定義され均衡を取り戻していくわけである。
砕氷船が氷を破壊して進むさまにも似ている。
この場合、<迦陵頻迦>は船体の半分以上が木であるわけで、木行の元素の絶対量が多いので他に比べて少しだけ速いが、特記するほどでもない。
進入し均衡を破壊しながら進む際に、軽い振動がある。先ほどのアナウンスはこの事を指して言っていた。
そして<迦陵頻迦>が、ゆっくりとゆっくりと、進む速度には似合わぬ振舞いを為して、いざ空間の属性の均衡を盛大に叩き壊さんとして進入していく。
座席に座りながら、男は振動を感じていた。最初、結界に侵入したのだろうと思った。
「だが、思ったよりも揺れるもんなんだな」
正面から押されているような圧力がかかる。軽く小刻みな縦揺れの振動に始まり、徐々に横揺れに移行しながら大きくなっていく。横薙ぎに大きな力が掛かる。
揺れると聞いていたので、さほど不審には思わなかった。アナウンスや知人の証言では少々との事だったが、それは慣れた者の意見として、初めての自分は大仰に感じているのだろうと考えたのだ。
男が日頃利用しているような小型船の長所は、値段ともう一つ大層小回りの利く事で、鳥の止まり木、空港施設の存在しないところでも容易に離着陸が出来ることである。
逆説めくが、龍脈嵐の下であって始めて、空港としても採算が合うという面がある。空港がなければ龍脈嵐にわざわざ突入する必要もなく、結界に進入する際の振動もまたない。
元々、小型船は載せられる重量の絶対量が少ないので、一度に乗れる客の数も限られる。そこで都市の周囲で待機していた自走車輌と連絡して目的地へと運ぶのが大方である。その方が空港に進入し着陸するよりも僅かであるが実は早い。それだけ結界を進むのには時間がかかるのである。
それに、そうすれば結界進入用の衝角をそなえる必要も無く。購入維持費が浮くと言う理由もある。
だが直ぐにおかしいことに気付いた。他の客たちが騒いでいる「こんなに揺れる筈はないぞ」。それだけではなく、客室乗務員が困惑し、動揺している。努めて表面には出していないようだが、男には判った。
事故か事件か、ことの詳細は判らないが、何かがあったと見ていいだろう。
不思議なことに、男の態度は困惑などではなかった。不敵に笑う。
「ガイの阿呆の言うことも、たまには信じて見るもんだ。ドンピシャで、本気でこの船だったか」
右手でヒゲをしごきながらそう呟くと、歯を剥き出しにして獰猛な笑みを浮かべた。それまでのどこか愛嬌のある人好きのする笑顔とは異なり、血と暴力を感じさせる凄惨な笑みである。
別にどちらが本性と言うわけでもないだろうが、これも男の顔の一つである。荒事を専門に、その世界で生きて来た。
非常時や混乱時にこそ喜悦を感じ、本領を発揮する人種は確かにいるがそういうのでもない。思いがけずくじ引きで当りを引いた時のような表情。瓢箪から駒、そんな感じである。
立ち上がる。軽く伸びをして、手をさすると、手首と指の関節を鈍く鳴らしながら、甲板へと向って歩き出す。
甲板と船室を境する扉の前には、屈強な体躯の、筋肉で制服が盛り上がった乗務員が仁王立っている。不用意に客が出たりしないように注意する為である。それで男に対しても「結界進入中は危険なので出ないよう」にと説得してくる。
先ほど、タバコの事で入れるの入れないのと男と問答を繰り広げた強面の乗務員である。
隠しきれないほどに嫌そうな表情をしているのは、先刻の問答のせいもあるだろうが、それ以上にこの異常事態と男の表情に、そして腰の物とに怖れているからだろう。
目は口ほどに物を言う。不可解な振動に居心地悪く、物騒な顔つきで自分に近づいてくる男。「武器の持ち込みは制限されている筈なのに、どうしてこの男は剣なんて持っているんだ?」その表情が物語っているのはそういうことだ。
男の腰、それまで脛まで覆うコートに隠されていた物が露わになっていた。
鞘に収まった剣であり、もはやいつでも切りかかれる距離である。それを真正面から眺める乗務員は冷や汗を浮かべ、後方の客席に座る他の乗客たちもいい加減気付き始めたようで、さかんにざわついている。
男が鞘に左手を添え、すっと右手を柄に掛ける。
最高潮に達するざわめき。意を決した乗務員が――蛮勇と言うべき――勇敢さで以って男を押さえつけようとする。
「憶えておけ、俺はカーク・アブロック。この船の用心棒に雇われた者だ!」
そう一声叫ぶと、男、すなわちカーク・アブロックは己の歩みを邪魔する乗務員の方へ向って細身の太刀を抜放った。
青光一閃。
「……と言っても、もはや聞こえちゃいないだろうがな」
鞘の内――自ら<旋風斬>と名付けた居合いの業が断ち切ったのは、眼前でへたり込む乗務員ではなかった。
カークの掌より解放たれた刃は、向いくる刃への恐怖に傾いた乗務員を器用に避けて、歪みの無い軌道を描きながら、甲板から船室へと入ってこようとしていた黒衣の男を、男が手を掛けていた扉ごと逆袈裟に両断していた。
死んだ事に気付いていないのだろう。突入のタイミングを計る際の緊張感を全身に残したままで即死している。
あまりに鋭く、疾すぎた斬撃に、扉の下半分が遅れて落ちて、ようやっと黒衣から血が吹き出す。
叫び声が上がった。
恐怖ではない。そこまで状況を把握できている人間は殆ど存在していなかったし、多少とも事態を理解できたごく一部の例外たちは声など出さなかった。これは何がなにやら判らずに、判らないゆえの恐慌から出たものだ。
「あ、はっはは……ははは」
混乱のざわめきに混じって、気の抜けたような、呆けた笑い声が上がる。斬られた男とカークとの中間にへたり込んだ乗務員の顔は血を浴びて朱に染まっている。位置のせいで、血をモロに被ってしまった「衝撃のあまりに、現実逃避を始めたのかもしれない」と、僅かに冷静さを残していた者たちは、痛ましいものを見るようにして、考えた。
「気を失えればいっそ楽だっただろうに、私自身も」
誰かが呟いたそれは、多くの乗客の心情を代弁していただろう。
「…………!」
とうとう声も無く気を失う。自重に耐えかねて倒れこんできた黒衣の死体を受け止めてしまって、堅く抱き合う形になってしまったのだ。丁度死体の斬られた部分、ぱっくりと開いた傷痕からのぞく内蔵が顔の辺りに来ていた。
半分開いた扉の向こうに注意を残しながら、死体をどかし、気を失っている乗務員の襟首を掴んで――ぐったりとしているせいで重たく感じる――自分の後方へと引っ張りながら、苦々しく呟く。
「……ちっ、俺もまだまだ未熟だな。顧客の精神も守って何ぼの稼業だろうに、失神させてるようじゃあな……」
いささか時間が足らず、思わず扉ごと叩き斬ってしまったが、斬るよりも突いた方がよかったかもしれない。
それに、「豪華客船だけあって、扉に用いている材木からして高価そうだが、修理費用は経費で落ちるだろうか?」ということも、顔をしかめさせる一因である。腕利きとして知られるカークである。依頼は引きも切らない。だから別段、金に困ってはいないが、賠償金やら違約金やらを払うことになるのは、たとえどうでも気分の良いものではない。
だが、確かに<黒衣の男の傷口>が小さければ、臓物が飛びはしなかったかもしれないが、よくよく考えれば、斬っていようが突いていようが、扉越しでは、多少<扉の傷痕>の大小が異同するだけで、結局修理……では効かず完全取り換えが必要なのに変わりはない。
だからなにも違いなかったと思いなおす。
そんなどこか場違いな感想を反芻するカークの背後から呆れたような声が掛けられる。
「失神言うて、この状況やともうトラウマなってると思うんやけど、絶対」
若やいだ娘の声である。その少しイントネーションの崩れた扶桑弁に、「生粋の貴族ってわけでもないが、扶桑の名家か知識人、そこら辺りの出身だろう」と見当をつける。
頑なに扶桑弁を使い続けているのは扶桑の貴族や富裕層の上流階級である。少しイントネーションが崩れているのは、他邦人や庶民階級で通用している連邦共通語の影響を受けているからだろう。
昔、カークは修行の為に、少年時代を扶桑で過ごした。その頃の経験と、つい数時間前まで滞在した際に記憶を新たにした扶桑庶民たちの話し言葉から導かれる理解である。
何者かと、後ろをちらりと振向く。その際には周囲に気を配ることも忘れない。真っ正直に扉を通って進入しようとしていた黒衣が囮だということもあり得る。船内の要所要所にはカークの部下たちが待機警戒しているので問題はないはずだが、一部の大馬鹿者に不安があった。それで、その辺りを確認する為もあった。
意外だと、片眉を上げ、唇をゆがめる。目の端に捉えた先刻の声の主の姿はまるきり少女だった。小袖の上に袴をはいて、腰までの長い髪を後ろに流してリボンで一本に留めている。声から若いとは思っていたが、当のカークだって若いのに――ヒゲのせいでふけて見られがちだが、彼は二十七歳だ――それでも十以上違うかもしれない。
それに身のこなしも素人だ、機敏ではあるが武術の類の心得はないらしい。だと言うのにどこか場馴れしている風にもとれる。だが、何であれ豪胆なことである。この状況もカークもどちらも怖がっていない。
「……返す言葉もないな。命があるだけ、人質にならなかっただけマシだと思ってもらうしかないわけだが、ただの言い訳だな、これだと」
「あっ、別に責めてるんとちゃうて。だってあたしが人質になったわけとちゃうし」
「そらそうだ」
その悪びれたところの無い明け透けな言葉に苦笑すると同時に好感を覚えた。相手が可愛かったと言うのもある。
もっとも、医化学的、魔術的に抗加齢技術の極めて高度に発達浸透した現代では、外見年齢や容貌などあまり当てにはならないのだが。そして特にその傾向は、古来より神仙思想の根付く瑛紗連邦において顕著である。
もっと言えば、連邦の技術や文明のおおよそは、神仙思想を基盤として、不老不死を追い求める探求の過程で育まれた副産物に過ぎないとも言える。かなりの極論ではあるが、一概に間違いだとも言えない。
「アンタ、名前は?」
「とんぼ、や。敷島とんぼ。お兄さんはアブロックはんやったね」
先ほどのカークの名乗りを聞いていたようである。あんな大声で叫ばれれば嫌でも聞こえるとも言えるが。
「へぇ、敷島の秋津島根のなんとやらだな。そのものズバリ<扶桑>ってか、良い名だ」
「ありがと。アブロックはんも、外つ国の人にしてはよう知ってはるね、そんな枕言葉やなんて。今日日、扶桑の人間にかて知らん奴が多いのに」
カークがこんな一見呑気な世間話を少女と繰り広げているのは、他の乗客に日常的な――か、どうかはさておき、気の抜けた――話を聞かせることによって、襲撃に死体と云う非日常から日常へと引き戻し、彼らを落ち着かせるためであるが、とんぼと名乗った少女の方は解って乗っているのか、天然か。見た感じでは今一つ判然としない。
「ところで、そのお人はもしかして噂に聞く空賊とか言う奴らやろか?」
死体を指差しながら、とんぼが尋ねる。流石に死体を見る際は渋い表情である。カークの思惑通り、ある程度落ち着きを取り戻した様子で、会話する二人を見守っていた周囲の視線も死体へと集中する。
「さて、ね。空賊と考えるのが一番妥当なんだろうが……」
「なに、なんや思わせぶりやん」
「いんや、賊と一口に言っても色々なんでな。政治的なテロ行為かそれとも身代金目的のハイジャック、はたまた昨今流行の<お告げ>とやらか。それに俺のグラウンドは文字どおり地面(グラウンド)の上なんでな。あいにくお空の上には詳しくない」
言いながら、黒衣の死体を検分する。死体を作った剣は再び鞘にしまわれて、その鞘もしゃがみ込むのに邪魔になるため、外されて傍の壁に立てかけられる。
「ふん。見事なまでに身許を示す物がないな。衣装も装備も品質はそこそこ、ちょっとした知識と金さえ有れば誰にでも揃えられる量産品だな……あとは、唯一銃器よりも短剣って部分に特徴を感じる――佩き方にデザルア辺りの流儀の色が見えるような気もするが……それだってミスディレクションかもしれないな。
扉の代金がどうとかよりも、やっぱ問答無しでぶった斬ったのがマズかったかね」
鼻筋に皺を寄せ、失敗したとぼやくカークに、興味深そうにとんぼが声をかける。
「ふーん、詳しいやない、用心棒」
「彼を知り己を知れば何とやら……つーよりも、むしろ蛇の道は蛇に餅は餅屋だ」
「その<お告げ>て、例の<夢枕に立つ天使様>云々なお人らのこと? 流行って表現されると何や妙な感じやけど」
「おう、それだな。けど、流行は変だったか、一種の都市伝説かと思うんでな……流行る物だろう、都市伝説は?」
死体をまさぐりながら返す。顔を伏せているが、笑っているのが判る声だ。冗談を言っているわけではないようであるが、それに近い心持であるのかもしれない。
「都市伝説はそうかもしれんけど、あれはちょっと違うんとちゃうかな」
カークとは別の意見があるようで、納得しかねると唇を軽く尖がらせる。ついで左の人差し指を頬に当て、首をかしげながら右眉をあげる。
「それより。よう、死体漁りながら笑えるな」
「……まぁ、慣れだな、何事も、うん」
呆れたようなとんぼの言葉にそう言いながら頷くと、カークはそこで一度立ち上がる。
「まぁ、細かいことは二、三人とっ捕まえて聞けばいいだろう……なぁ」
カークはそう言いながら扉へと視線を向ける。その瞬間、死体とそっくりの服装をした男たちが三人、カークが斬り落として出来た扉の下方の隙間から、船内へと飛び込んできた。
玄いつむじ風か黒鼠のようである。カークは悪態をつきながら、物陰からふいに飛び出してくる油虫の同類だと感じたようで、後で実際、そのように語った。
身をかがめて、ほとんど中腰になって走りこんで来る。三方に別れ、それぞれ別々の角度から、必殺の意思を持って白刃を閃かせる。狙いはカークである。短剣の刃が向う先は首筋や腹部。急所を狙っているのが明らかである。
「やれやれ、野蛮だねぇ。問答無用で殺そうだなんて……って、先にぶっ殺したのは俺だったか」
冗談めかして笑いながら、敢えて一歩を踏み出す。
その勢いで正面の相手の左爪先を力一杯、踏み抜く心持ちで踏みつけにする。軽く怯んだところで賊の右腕を掴んで力ずくで持ち上げると、掌中のナイフで左からかかって来ていた相手のナイフを受け止める。
そのまま動きを停めず一挙動に、倒れこむ体重を籠めた右拳を、爪先を踏んでいる方の賊の顔面に叩き込む。
鼻骨の折れる音が響く。鼻の孔と口から、血と一緒に白いもの――数本の前歯を撒き散らしながら、後ろに倒れこむ。爪先と片腕を固定されているせいで吹き飛べず、力が分散しなかったため完全な衝撃が叩き込まれた形である。
大きく拳を振り抜いた事で、カークの体勢が崩れたと見て、調子に乗って攻め立ててくる賊。左側面から半身になってナイフで切りこんでくるのを、半歩さがって避ける。
お互いに右半身を前に押し出しているのは心臓への一撃を警戒してのことである。賊の得物はナイフであり、カークも先ほど賊の仲間を一刀両断にした恐るべき得物は手放しているが、短剣を懐に呑んでいないとは限らない。
そしてカークが手放したのは油断からではない、想定される残りの賊を誘い出す為である。
それにまた短剣などと違い、長く重い長剣は狭い船内通路での立ち回りには向いていない。だから最初から使う気は無かったし、それくらいなら最初から持たない方が動き易い。
数手の攻防の後、カークは右腕を伸ばして、振り切られたナイフを握る賊の左手首を掴み取る。
逃れようとする動きに逆らわず、逆にそれを利用しての脚払い一閃、仰向けに倒れた賊の下腹部を体重を籠めて踏みつける。ただし睾丸を潰さない程度に。流石のカークも同じ男として、そこまで容赦なくは振舞えなかったようである。
声無き絶叫を上げ、泡を吹いて悶絶する賊を尻目にして、もう一人、右から襲いかかろうとしていた賊へと眼を転じる。
その賊はウィンディによってあしらわれていた。
狭い船内だと言うのに器用に飛びまわりながら、眼や鼻を狙って蹴りたてるウィンディ。彼女は雌なので蹴爪はないが、それでも充分以上に鷹として殺傷能力をそなえることをここぞとばかりに証明し、主人の信頼に応えていた。
眼をやられたようで闇雲にナイフを振り回している。この状態でうろつかれると却って危険だと判断して、先の二人から取り上げたナイフを脚へと向けて投げつける。狙い過たず太腿に突き刺さったナイフによる痛みと衝撃で転倒する賊。
機を逃さず、組み付いて、首に腕を廻して絞め落とす。
それで決着が着いたとして、ぱんぱんと手を叩き埃を払いながら、壁から剣を取り上げ剣帯にもどす。
二、三回まばたきをする間に行われた早業に、乗客たちが賞賛の声と、畏怖混じりの感嘆の眼差しを向ける。
「誰か、ロープか何か持っていないか?」
「ああ、ロープは無いけど。もし良かったら、これ使い」
髪をほどきながらそう言って、とんぼが差し出したのは彼女のリボンだった。カークの受け取った際の手触りからすると絹だろう。だからと言って、カークもそんなことで遠慮するようなタマでもない。それに無下にするのも却って失礼だ。ここは有り難く使わせてもらうことにして、それで賊のうち一人の脚を手早く縛り上げる。
「ただま、一本じゃ足りんわな」
「はぁ、そうやね。けれど、まさかあたしもこの帯を使(つこ)てもらうわけにはいかんし」
帯に触れながら困ったように呟く。
「いや、流石に女の子の帯まで使わないから。てか、渡されても逆に困るわ、それは、こっちも」
本気じゃなかろうな、と言い聞かせるように奇妙な抑揚を付けて、強調しながら発音する。
「あら、女の子やなんて、そんなん言われたのは久しぶりやわ〜」
頬を緩めながら呟く。
「はぁ……つまり、見た目と年齢は違うわけか。一瞬、女学生かとも思ったわけだが」
「いけずー、一遍女の子言うたんやから、最後まで通してくれてもええやないの……女学生とはちゃうけどさ、確かに」
図星を指されたようで、ふくれっつらで文句をつける。それで改めて見直すと、これみよがしに可愛さを装っている風にも、取って取れないことも無い。ただの色眼鏡が掛かっただけかも知れないが。
「まあまあ、お客様。帯でしたら、どうぞ自分たちのこれもお使いください。帯とは少々違いますが。お客様にばかりご迷惑をおかけするわけにはいきませんので」
二人を取り成すようにして、気絶している乗務員とは別の乗務員が、待機室から替えのベルトの束を持ち出してくる。
「それに、これですと、バックルを用いれば縛る手間が省けますし」
「おお。ほんまや、乗務員はん、頭ええなぁ」
感心したように褒め称えるとんぼに、「いえ、そんなことは」と照れる乗務員。それを横で聞いて、笑いながらカークは賊たちを縛り上げていく。それを見ていた乗客の幾人かが縛り上げるのを手伝おうと名乗りを挙げた。
「いやいや、気持ちはありがたいが、いつ目覚めないとも限らない。すると危険なんで、一応全部俺が縛るから、あんたたちは気にせず寛いでいてくれ。実際、こっちはあんた方を守るのが仕事なんでな、その方が助かるんだよ、正直」
そう言われては、申し出た乗客たちも無理は言えず、名残惜しく、心苦しくありつつも休むこととしたようであった。
「さて……で、これは一体何なんだ?」
カークは眼を丸くしてタバコをふかしながら、思わず疑問の声を上げた。ぽかんと開けた口から、タバコが落ちる。防火対策はされているのでタバコの火程度で燃えることはありえないのだが、あわてて靴底で踏み消す。
あの後、賊たちを縛り終えたカークは、<迦陵頻迦>の船長他の幹部たちや仕切り屋タイプの一部乗客も交えて、自分の部下たちと今後の方針を軽く話し合うと、その後甲板へと出てきていた。
襲撃の後始末と更なる襲撃の可能性に備えて、<迦陵頻迦>は浮力に任せてその場に停止している。
結界の中という安定した空間に浮遊している限り、自ら船体が動こうとさえしなければ、そもそも揺れが発生するはずがなく、その為、揺れによって落下する恐れはない。
尋問は部下達に任せている。それにどうせ簡単には吐かないだろうという目算もあった。
そうして彼はそれを目撃した。
彼の眺める先、一度に陸上競技が幾つも纏めて出来そうな広さを持つ甲板の上に、奇妙な物体が横たわっていた。
あらかじめ、確認した部下からざっとあらましを報告されていたが、自分で見ると一層不可解な姿をしている。その見慣れぬ奇妙な物体に、ウィンディもびっくりしたように盛んに啼く。
それは全体的に細長い筒状の物体で、その胴体の上下からは二枚の板が伸びている。その板と板は棒で繋がれており、立体的な構造として筒を挟んでいる。他にも小さな突起や板が無数に生えているが、全体としては縦に長い十文字型をしており、一方の短い方の先端には、大きな風車のような物が付いている。
甲板と接する車輪によって支えられており、その姿は枝に止まる鳥、あるいは葉上のトンボのようにも見えた。
じっくりと眺め渡して、やっぱり判らない。それでカークが首をかしげていると、背中の方で声が上がった。
「これは……飛翔機! それも複葉機やないの、こんな骨董品を持ち出してくるやなんて」
その驚いたような呆れたような叫び声に、カークが振向いたその先には、同じく甲板へと出てこようとしているとんぼの姿。行儀の悪いことに、右手にはかじりさしの握り飯が握られている。甲板に出る前にカークも食べたそれは、蒸したもち米に具材は豚肉のでんぶとムライ風の握り飯だった。
鳥船の停止という非常事態に際して、船長以下の乗務員が旅客に対して提供したものだ。別段美味でもなかったが、この状況で贅沢は言えない。一部では不満の声も上がったが、大方の乗客はありがたく空腹を満たした。
そしてお腹の次は好奇心を満たしたくなったのだろう。カークたち用心棒は、一般乗客に乗務員も含めて、一同には危険があるので船内から出ないように注意しておいたのだが、無理を言って出てきたらしい。
念のためにつけられたらしい、カーク戦士団の団員が一人、護衛として彼女の横を歩いている。
ぱっと見、とんぼと同じくらいの――あくまで見た目――年頃の、こう言ってはなんだが、頭の弱そうな暑苦しい少年である。どうやって抜くのかさえも疑問な自身の身長をも超えて重厚長大な大剣を背に負っている。
手には握り飯の収められた器を持っている。それもなぜか二人分。どうも自分の分だけではなくとんぼの分も押し付けられたようで、早速いいように使われているらしい。
「ガイ」
来させるなと言っておいたのに、どうして乗客を連れてきたのだと少年の名前を呼ぶ。
カーク率いる<カーク戦士団>の一因であるダン・ガイは、軽く咎めの意志を籠めて向けられたカークの視線に慌てて首がもげそうな勢いで首を振る。自分たちはちゃんと止めたのだ、仕方なしにだ、と懸命に身振りも交えて説明する。
叱責されていると感じているようだが、カークとしても、駆け出し、団内の下っ端に過ぎないガイの一存だとは考えていない。だから、別段ここでガイを責める気はない。恐らく敬火あたりが許可を出したのだろうと思う。
もしかすると、尋問中のかたわら、色々と暴走しがちなガイの相手をするのが邪魔くさくなって、カークへと面倒を押し付けてきたのかもしれない。いや、まず確実にそうだろう。
少年が追い払われる情景が眼に浮かぶようで、ふっと眼だけで笑う。だがそれも直ぐに消える。
「……まぁ、どうしても出たいってんなら、それを制止する権利は俺たちには無い。だが、わざわざ危険に自分から踏み込もうってんだから、怪我あるいは死亡しても、だ。その点は自己責任の自業自得と納得してくれ。こっちは可能な限り護らせてもらうが、他の客も等しく護らにゃならんわけだからな、限られた人数で」
「諒解、了解、もう、りょーかい。嫌になるくらいに判ってるから、自己責任で危険なのは……」
軽く渋面を作って言うカークに、とんぼがどこか投げやりに返してくる。どころか嫌そうに溜息までつく。
「とは言え、今回はそれほど危険もないだろうがな。それで、どうした?」
「いや、ほんまのところ、あたしは別に出て来たくなんてないんよ。それをあの爺さまが……」
「爺さま? いや、まあ、それも多少は気になるが、それよりも先刻の、飛翔機だったか、それは何だ」
ぶつぶつと愚痴っぽく、カークにと言うよりも、軽く内省的に自分自身へと向けて呟くとんぼに、「これが何か知っているのか」とカークが疑問を述べる。
「うん。ああ、これはやね、飛翔機て言うて、読んで字の如くにお空を飛翔する為の機械やね」
「なるほど。まあ、実のところ、それは言われなくても判るんだがな、この高空にある鳥船の甲板に来ている時点で、空を飛ぶんだろうってのは。初めて見たが、新発明か何かか? それにしては骨董品云々が辻褄が合わないが」
「飛翔機って言うんは、鳥船が発明される以前に使われてた道具で、鳥船とは異なった動作原理で空を飛ぶんやね。それで、理論上、弾き出せる最高速度そのものは鳥船よりも上なんやけど、建造・運用・維持費が鳥船に比べて圧倒的に高くて、コストパフォーマンスの問題で廃れてしまった技術なんよ。
おまけに、これはプロペラ式――プロペラってのは鼻先に付いてる風車みたいなアレな――の上に、種類は複葉機と言ってな、技術が更に未熟やった頃に好まれた様式やねんけど……二百数十年前かな、最盛期は。
その頃に、飛翔機の高速化を目指して、――原理的には今、鳥船にも使われてるんと同じような――噴流推進機関(ジェットエンジン)が発明されたんやけど、それと相前後して最初の天鳥船<金烏>が開発されて、そっちの方がなにかと便利や言うて普及した結果、それ以降はほぼ凋落の一途やね、飛翔機は。
現代やと、一部のサーカスの空中曲馬やらに偶に使われるけど、普通は大概博物館の収蔵品や、金のある好事家の趣味とかで所有している家にしかないね。それで、有名なんは馬勒の王さん。馬仲賢が熱狂的なコレクターやて聞くね」
「なんだ、うちの大将、そんな趣味があったのか」
馬勒――回州の出身であるカークは、思わずそこに反応する。
「あ、やっぱ馬勒の人なんや。いやま、あくまでもただの噂やけどね。
それで実は、飛行の原理的には、鳥船よりも飛翔機の方が鳥に近いんやけどね、余談……でもないか。鳥船が空気中の龍脈に対する浮力で船体が浮いたところを、吸引した気と酸素で化学反応起させて、それで発生したガスを後方へ噴射した際の反動を、推力に返還してるのに対して、飛翔機はまず、推進装置……この場合はプロペラやね、それで生まれた推力でもって力ずくで機体動かして、その時に翼に風を受けて発生させた揚力で浮かんでるん」
そこで一旦言葉を切ると、しばらく何事か考えて、軽く頷く。
「そう。乱暴に言えば、自走車輌に羽付けたんが飛翔機かな」
「……なるほどな。そいつはつまり」
「ご名答。龍脈嵐とか封火結界とか関係ないんよ、飛翔機には」
「で、それはどういうことなんです」
まだよく判っていないらしいガイが首を傾げる。その拍子に、背の大剣の重量につられて倒れそうになってたたらを踏み、慌てて体勢を整える。
「ちょっと、まだ食べてるんやから落とさんといてや」
「判らないか。結界突入でごたついてる船を襲うのにこれほど便利な道具も無いだろう」
両方から同時に言われて首をすくめる。一、二秒ひるんだ後、理解したようで叫ぶ。
「それは大変じゃないっすか! っ痛、何するんすか、親方」
「だから、そう言ってるんだろ、最初から」
困った奴だ、と苦笑いを浮かべながら、カークはガイの頭をはたく。
「だからって、叩かなくたっていいじゃないですか」
「まぁ、結界から出てしまえば、飛ぶのに問題ないし。多少、飛翔機が速うても、航続距離では鳥船が圧倒的に優っているから、追いかけっこしたら、まず鳥船の勝ちやろうけどね。
だから、本当のところ、いくら鳥船襲えたとしても逃げられへんからあんまり意味がないはずなんやけど。
だって、そうやろ、定期船を制圧するだけやったら、武器の持ち込み手段さえ確保すれば、最初から客として乗っといた方が手間無く成功率も高いはずやし」
「確かにな。それにに機内に他の人間はいないようだしな、たったの四人で制圧できるつもりだったのか?」
だから解せないのだと訝しそうに発された、とんぼの言葉をカークが受けて、その二人の会話にガイが反応する。
「馬鹿なんじゃないっすか? それとか、その飛翔機が使いたくってそれに拘りすぎて気付いてなかったとか」
「お前と一緒にするなっての」
「いや、案外そうなんかも知れへんね。と言うか、ここであれこれ考えても意味があらへんし、一先ずそれは置いとこ、言い出したんはあたしやけれどもね」
「まあ、確かに。それにしても、今更ながらに詳しいな。アンタ」
ちょっとした苦笑を浮かべる。
「まあ、ちょっと調べれば直ぐにわかる程度のものやけどね」
「それでも、大したもんだろう、現に俺は知らなかったしな。それとして、どうももう安全そうだな。おい、ガイ。船長に着陸準備に入るように言って来い」
「ういっす。それでこのお嬢さんは?」
「ああ、俺が付いてる。そうすりゃ、お前よりも遥かに安全だからな……たぶん」
「たぶん、って何すかそれ」
「状況次第だ、そんなもんは。おら、そんなこと気にしてないで、ちゃっちゃと行け、ちゃっちゃと」
ハエにでもするように、手を振って追い払う。
「お嬢さん、何て言われたんも久しぶりやわぁ」
ぶつぶつ言いながら追い払われていくガイを眺めながら、とんぼが笑う。「……だから、アンタ本当に幾つなんだ?」笑いながら言う彼女にこそ呆れてカークが尋ねる。それに「聞かんといて」と、眼をそらしながらとんぼ。
「なら、アンタも一々年寄り臭いこと言いなさんなよ。そんな、若々しい見た目でそういうこと言うから一層、違和感があって気になるんだよ」
「と言うか、アブロックはん。もしかして、その野次馬根性で残ったんとちゃう?」
「当りだ」
「暇なお人やね」
カークの顔をしげしげと眺める。「阿呆とちゃうかこの人は」とでも言いたげである。
「放っておけ。まあ、別に言わなくっても構わないがな」
「へぇ?」
「その場合は、個人的に、齢三世紀の魔女だと信じておくからさ」
「うわ、実害とかはまったく無いけど、めっちゃ不愉快やわ、それ」
額に手をやって、やれやれと頭を振ると、カークの肩に相変わらず止まっているウィンディに猫撫で声で話しかける。
「アンタのご主人様は、呆れた熊やねぇ、意地悪やねぇ、苦労するやろ、ウィンディちゃん」
「熊じゃねぇよ」
「まあ、別に秘密でも何でもないし、教えるにやぶさかやないけどね。そんな乙女に無理強いしたらあかんで、アブロックはん。それじゃあ、女の子にはモテへんで」
「余計なお世話だ。ってか、これでも俺はおおいにモテる。昔は数多の女が寄り付いたもんさ」
「ホンマに〜? と言うか、昔はてことは、今はモテへんって意味とちゃうん、それ」
そう言うとんぼの声音はおおいに疑わしそうである。そのまま胡乱そうに指摘する。
「あれよ、そのヒゲが駄目なんとちゃうかな?」
「あん、似合わねぇか? これでも自信があるんだが」
かなりショックを受けた様子である。悄然と呟く。これでもどころか、きわめて自信があったのだろう。
「むしろ、似合いすぎ。貫禄と威圧感があり過ぎるんよ、今時、美髯公は流行らんて、男子も綺麗がモテる時代よ、今は」
「うーむ、美形なぁ。それはあれだぞ、この俺にこそ相応しい言葉だぞ、それは。このヒゲこそは世を忍ぶ仮の姿、麗しすぎる俺の素顔を覆い隠す仮面なのさ。俺ばっかりモテてたら、世のモテない男どもに悪いだろう」
どこまで本気か、いけしゃあしゃあと豪語する。
「あほくさ。それにさっきと言うてること違うし」
「ふふん、それはお互い様だ。アンタもさっきから、話を逸らそうと涙ぐましい努力しちゃって」
「………………………………」
図星らしい。言葉を失って、決まり悪げに顔をそらせる。そうして壊れた玩具のように数秒ほど固まっていたが、唐突に動き出したかと思うと、あからさまに話を変える。
「あれやね、この高さから、下を眺めると怖いもんやね。鳥船が動いている時はそうでもないんやけれど、不思議と」
「……ああ、そうだな」
哀れむような声で応じる。
そんな呑気な馬鹿話が、その後しばらく続いた。鳥船が再び動き出すまでの時間つぶしである。馬鹿馬鹿しければ馬鹿馬鹿しいほど良かった。
「……だからさ、その爺が性格悪いんよ、ほんとに、どうしようもないくらいに」
「おお、解るな。俺の傍にも性根が腸捻転起した毛糸玉ばりにひん曲がった奴が居るんだよ。それで、そういう奴がいると、俺たちみたいな善良な人間が虐げられるんだよな」
「そうそう、そうなんよ!」
我が意を得たりと盛んに頷くとんぼ。
ガイが船内に入っていってから十数分。カークたちによる時間つぶしの世間話は、いつまにやら厚かましいことこの上ない身近な人間の陰口大会と化していた。それでいて悪気がないので性質が悪い。
そんな二人が変わらず馬鹿話を続けていると、船室の方から、取り乱した少年の叫び声が聞こえてきた。
慌てているようで舌が上手く回っていない。声が大きい割にはどもっているため、肝心の内容を聞き取りづらいことこの上ない。喧しい言葉と一緒に、バタバタと騒々しい足音も聞こえてくる。
そのただならぬ様子に、おちゃらけた態度を抑えて、甲板と船室を結ぶ出入り口――カークの剣に半分切裂かれて、そのままでは見苦しく、かつ使いづらいために、蝶番から扉全体が取り外されて、ぽっかりと開いた動物の口か洞のような空間が出来ている――を二人が見つめる内に、血相を変えたガイが飛び込んできた。
そして、一瞬言葉に詰ってから、改めて叫ぶに。
「親方ー、大変でっす! 他の船が、東廻り航路の方の、馬勒行きの船が消息を断ったそうです!」