『御前会議』
1
薄く煙が立ち込めている。
甘い乳の色にその場が霞み、仄かに蘭麝が香るのは、この場所に香木が焚きこまれているからだろう。
靄がかる乳白色の煙が藹々として充ちる様はあたかも霧が絶えぬかのよう。伽羅の発する快い匂いと薄靄とに包まれた幽宮の一室には静謐な空気が満ちていた。
どこか厳かな祭壇を思わせる粛とした空間だった。
北へと向って奥まった処に設えられた高御座。
上段へと続く階を昇った処には御簾が掛けられていて、そこから先はしかとは見えない。その奥へと向って、三人の人物がそれぞれ微妙に異なった仕草で手をつき頭を垂れる。彼らがめいめいの邦を象徴する作法に基づいて拝礼する御簾の向こう側には、一つの椅子が鎮座する様が仄見えた。
玉座である。それも施された細工も典雅壮麗にして精緻を極めるこの世に二つと無き。
だがそこに座るものは誰もいない。そこに座るべき皇帝、『天土大瑛紗国四邑統蓉聯邦斉天皇帝』は連邦成立以来二百年間常に空位のままである。
何故ならば、それは元来の習俗に法を異とする瑛紗連邦の各邦が、民衆が、瑛紗人としての一体を保つ為の宗教的な統合の象徴たる不在なる神帝《天帝》の坐す神座であったのだから。
それは正しく神の坐す祭壇である。
なれば、その御前に侍ることを許された者は限られている。
三大親王。
彼らは連邦を構成する一都五州の内、馬勒、扶桑、ムライの各邦を統べる王にして元老院の筆頭たる大元老である。
拝礼を終えた彼らは三方に向かい合って姿勢を緩める。だが、決して三人とも北に背を向けることは無かった。
「それで、ルーン王国。あそこはどうなってるんだい? 聞くところ、随分とやばそうだけれどね」
発された言葉そのものは随分と伝法な代物ではあったが、天然自然の名器とでも形容されるべき玲瓏たる美声である。それも道理か、彼女は蔡伶の一族である。
「残念ながら。かの国は家臣団の大半が侵略側のシンパ、自家薬籠中物だからね、もってあと数ヶ月、早ければ今日明日にもアウドの属国、こちらに対する橋頭堡。すなわち連邦侵攻の前線基地に変わっていて何ら不思議はないよ」
問われた男が断言する。五十がらみで端整な面立ちをした天仙族の男。三人の内で西を背に座る彼こそは、渦中のルーン王国と直接国土を接する回州の国主家たる馬家の当主として馬勒王の位にある馬仲賢である。
「――それはまた難儀な話やねぃ。レビアルはんやったかな、アソコの王さんは。お若いのに、なんともえらい時分に践祚なさったもんや」
そう、扶桑訛りも明らかに同情すると言いたげに嘆息するのは同じく五十を幾つか過ぎた男だった。二人に挟まれるようにして玉座に北面して座すのは扶桑国主橘有良。
「――あん? 若いってーよりも幼いだろむしろ。それで、十一歳ってな若輩が即位したせいで阿呆な臣下どもが付け上がったのが原因じゃないのかい?」
相変わらず王侯貴族らしからぬその口調に加えて、胡乱そうに呟く声音さえも美しいその声の与える印象ほどではないが、それでも充分以上に端麗な容色は年齢不詳の美貌だった。
外見からは今一つその年齢がよく判からないのが蔡伶の特徴である。二十前の乙女だと言われても違和感なく通るし、逆に八十過ぎの老婆だと言われても納得がいく美女。それが阮州――すなわちムライ邦の女王阮独鈷戒である。
「違うね」
彼女の言葉を冷笑を浮かべた仲賢が否定する。
「諸悪の根源は前王だよ。高々偶然の賜物に過ぎない平和に胡坐をかいて、その程度の家臣しか揃えられなかった。己の死後も万事滞りなきように、国政を壟断する輩が現れぬようにしておくのも王の責務だ。違うかい?」
彼らの中に、侵攻している側が悪であるという認識は存在していないようである。この場においては「隙を見せれば、攻められて当然」という考えがその大前提として存在していた。
「くわばら、くわばら。けれども、まぁウチらもあんまり偉そうな事は言われへんのとちゃうか、平和ボケって分には」
裾に納めたままの両手を、わざとらしく、ごしごし擦りつける。言う割には瓜実顔に浮かんでいるのは愉快そうな笑みであったが。
「ま、そりゃそうだね。あたしら阮州の《海旅白阮旗師団》にしてからその主要な任務は海賊の取り締まりに化け物どもの討伐ときた。まともな国家間の実戦なんぞはここ数十年無かったからねぇ」
対照的に、こちらはいささか苦い顔である。
「商いにとっても、平和なのは結構な事だけれど、ことこう云う状況に至ると悔やまれるね……平和すぎたことが。演習を欠かしたことは無いし、錬度も高いんだけれども、実戦経験のない将兵が大半を占めるってのは……どうにもね」
「ふむ。それは我が回州も同じ事。元より戦が無いのだから、有りもせぬ経験を積めるはずも無いさ。まあ、我が邦はここ数年。時折、馬勒の大嶺を踏破して回州に侵入してくる所属不明の不審な軍勢と幾度か干戈を交えたことはあるが」
言葉とは裏腹に静かな自負を窺わせる相貌に、ご苦労な事だと冷笑を浮かべる。
連邦と他国の天然の国境線として回州を、ひいては連邦を取巻く馬勒山脈の険しいことは大陸有数のものとして知られている。最高峰ともなれば天を行く鳥すらも迂回する、そんな高山である。
実際を知る土地の人間であればこそ、その集団の無茶さ加減に、無謀な試みに呆れずにはいられなかった。
「ああ、そう言えば。そんな報告が、たまにあったは」
「所属不明の軍隊だぁ〜? なに、あたしゃ、そんなこと初耳だよ!」
馬仲賢が静かな自負を籠めて言い、それを受けて「あった、あった」と軽く頷く橘。そんな事があったとは知らず、一人蚊帳の外に置かれていた形のグェンが、尻上がりに驚きの声をあげ、続けて軽く怒気を露わにする。
「初耳って……そりゃ単に、普通に教える必要がなかったんとちゃうの?」
疑いなく、きょとんとして、言う。だが、それが却って怒気を強くした。
「なんでだい、あたしも元老だよ。それとも何かい、旧皇族にして三大親王家筆頭の馬仲賢さまと、扶桑国主にして連邦宰相たる橘有良さまの由緒正しきお家の方たちは、同じく親王家とは言え一番格下の阮家。海賊あがりの一門のグェン・ドゥック・カイとは付き合えませんってか!」
「そんなん、言うてへんやん」
困ったように、呆れたように渋面をつくる。
「まあ、落ち着きたまえ。理由はそれでは無い。しかし、それは君が既に言及しているものではある。この有良、このような者でも一応は宰相。百官の長だ。私には馬勒の国主として、また連邦の諜報を預かる身として報告しておく義務がある。それだけだよ」
これ呼ばわりされて苦笑しながら、「ま、そういうことやね」と。
「本当にそれだけかい? まあ、いいさ、そういうことにしとこうかね」
幾分まだ疑わしげであったが、取り敢えずは矛を収める。
「そう、そう、勘弁したって、ウチら元老が此処で角突き合せててもしゃあないんやから」
「さて、そうとなると。連邦でもっとも実戦経験に豊むのは《博旅黄桑旗師団》となるのかもしれないね」
なにやら含の有る調子で橘を横目にしながら馬仲賢が仄めかすのは、《博旅黄桑旗師団》の内部で公然の秘密として行われている、一部部隊の傭兵働きのことである。
「そう……なるんかなぁ。あんまり実感がないんやけど」首を傾げながら、「けどまあ、あれやね。ウチの人間はまあ……オツムの方はええんやけど、こっちはからきしやからね、大体にして」と着物の袂から取り出した扇子の腹でポンポンと左腕の力瘤を叩く。「そやから、一部がなんぼ強うても、まあ全体が弱いからあかんわ」
「頭が良いかどうかは、疑問だが、元からあまりそちらの貴族衆に軍事的貢献は期待していないよ」
「はっ、扶桑のボケどもに戦働きを期待するくらいなら、猫の爪の方がよっぽど脅威だし、頭だって良いだろうさ」
双方、宰相の方へは一瞥もくれずに、妄言だとして切り捨てる。
「きっついわー、グェンはん。そんなほんまのこと言うたらあかんて。イメージて大事よ、イメージて。そら、人間て幻想持ってな生きていけへんやん。ほんまにオツムええのは、外国から優秀な人材が来てくれるからやけども、全体的にええんやて思わしたっといてぇな」
苦い笑いを浮かべながらふと思い出したと言ったふうに話題を変える。
「ああ、そう言えば、馬はんのところの姪御はん。雪英とか言ったか」
「いきなり話が変わるね。彼女がどうかしたかい」
うん、うん、と顎をさすりながら。
「えらい、別嬪さんに育ったもんや、それに頭もええし、度胸もあるしで言うことなしや。どないや、嫁にくれんか?」
「――いきなり、君は何を言うんだね? いい年した中年男が年甲斐もない。と、いうか君は既婚者だろうが、如何に国主といえども、側室などに彼女をやる気はないぞ」
呆れたようにたしなめる馬の様子に、勘違いだと慌てて訂正する。
「ちゃうがな、孫にや、孫の嫁にやがな」
「ああ、なるほど」
納得したと大きく頷き、次いで更に大げさに馬鹿にしたような態度で切り捨てる。
「しかし、扶桑貴族と書いて『吹けば飛ぶような表六玉』と読むようなチンピラと我が馬家の総領娘を? ははは、それこそ冗談としても出来の悪いこと。寝言は眠って言うものだ……ああ、そうか、そう言えば君たち扶桑の貴族は常に眠っているようなものか、ならば道理だね」
「――綺っ麗な顔して、相変わらず言うことえげつないわぁ、ほんま。と言うかまあ、その通りやけどね。どうにも、今のところウチの孫どもは揃いも揃ってボンクラで……ここらでいっちょう、ああいう女傑の血が欲しいんよ」
馬の言葉に、何とも形容しがたい表情を浮かべる。同感ではあるのだが、認めがたいと言うところか。
「断る」
目を細め、微笑を浮かべながら冷淡に告げる。
「そもそも。わが馬家には生憎と年頃の娘は彼女しかいないのでね、たとえ君の孫達が有能かつ好青年であったとしても、だ――まあ、そんなことはありえないんだが――嫁にやるわけにはいかない」
そして二人の様子を愉快そうに笑って眺めるグェンを横目で見る。
「だから、阮家の方を頼ってみてはどうかね?」
「――いきなりこっちに振って来たね」
「君の処は基本的に女系だからね、片付け先を探すのに幾分手間取っているそうじゃないか」
「ま、確かにね」
「けどなぁ、うちのカミさんグェンはんの妹やで……。それに長男の嫁もどっちかと言うと阮家に所縁の人間や……うん、あまり血を濃くすんのもな、それに、結びつきが偏ったらあかんやろ、元老家の。というか、強調しなやそんなとこ」
「何か飲み込んだところが気になるね。アンタの孫がボンクラなのが、阮家の血の所為だとでも?」
「いやいや、そんなことはないけどね」
口論だか扶桑の名物芸能《漫才》だかわからぬことを言い合う。
「それよりも、だ。自分で話を振っておいてなんだが、両名。嫁にしろ婿にしろ、ここは外に求めてみてはどうかね?」
「「外?」」
漫才を止めて、両人首をかしげる。
「グザテルスに、ルーンだ」
「グザテルスは、まあ、遺児がいるとか何とか噂には聞いてるけどな……所在、掴めてるんか?」
「多少は。いや、恐らく間違いはなかろうね」
仲賢は連邦の諜報部局 特務機関『千里眼』と『順風耳』の統括者である。こと、この種の情報にかけて彼の右に出るものはいない。その彼が言うのだ、恐らく事実だろう。意図的に虚言を弄していない限りは
「それは良いけど、お隣さんの方には年頃の娘なんて、いたかい? それとも、あの坊やの嫁に連邦から送り込めってかい? 気が進まないねぇ、みすみす滅びると判っている国に送り込むってのは」
「いや、彼の君は坊やではなくお嬢さんだよ」
「へぇ……そうかい、そうかい。そういや、あっこは未だに頑固な男系相続を貫いてはったな」
それで合点がいったとニヤリと笑う。
「いきなり、聞いたことも無い王子さんがひょっこりと出て来はったから訝しくは思っとったんよ……で?」
続きを促す。
「彼の君には亡命して頂く、そして速やかに婚姻を……まあ、現状では婚約でも良いんだが、とりあえず何らかの関係を元老家の何処かと結んでいただければ、支援の兵を送る大義が立つ」
連邦の外交方針は万古不易で善隣外交、そして原則中立である。国家として軍を派遣することは許されない。だが、姻戚に基づき王家や貴族が個人的という建前の下で、私兵を遣わすことは許される。
「なるほどね」
「今のうちに。アウド王国の軍勢がルーンの外にいるうちに対処をせねば、連邦が戦火に晒される。それは避けねばならない……ルーンの民には悪いがね」
それは、ルーン・アウド国境での戦闘の継続を、戦火の拡大することを意味する。
「まあ、ウチらとしても連邦の事を考えんといかんしな……」
流石の有良も、今度こそ本当に苦い顔をしていた。
「あー……それに、アウドに関してまたぞろ碌でもない報告があるんだけれどね」
ふいに、グェンが口を開く。
「――うちの旦那の意見さね」
「旗師団長殿の?」
「ああ。あんた方も知っての通り、うちの《海旅》の旗師どもは、戦働きってよりも交易の足として働いている」
「――そうやね、うん」
「それでこの前、沙漠の方に旦那の船が行って来たんだが……あっちでも、ちょっと面倒なことが起こりそうな、そんなきな臭い匂いがしたってさ」
「――滅びそうなんか?」
「判らない。が、覚悟はしておくべきかもしれないね。その前にウチが攻め滅ぼされる恐れもあるが」
「二面……否、三面、四面、五面作戦か……正気か、ヤツら?」
「さってなぁ。銭と話し合いで片が付くなら安いもんやけど、あの拡張主義のボケどもは現実っちゅうもんが見えてへんようやからな、ルーンを滅ぼした余勢でもって連邦までやってくるんやろうな、やっぱり」
「それ以前に、交易路が寸断されれば国民を養ってはいけまい」
そう馬は指摘すると、言葉を続ける。
「難民を切り捨てる覚悟があればある程度は持つだろうが」
「まあ、そういう訳にもいかんやろ。暴動が起こるで」
「で、試算はもう立ってるんだろ? 寸断された場合、どれくらい保つんだい?」
交易路を司るのは阮家である。それに対する危惧は一入だった。
「米や稲、その他の糧食をざっと纏めて、各邦に備蓄されている物に、市井から徴収できる見込みの量を加えて配給制に移行したとする……が、それでも保って半年だな。おまけに、これには将来陸路海路で流入するだろう難民は含んでいない。彼らを含めれば……一月」
「――ほんまに、難儀な事で」
「だね」
眉根を寄せ嘆息する。
「それよりも、君たち阮州と桑州が共同で進めている海上耕地化の進捗状況はどうなのかね、それ次第では話が変わってくるわけだが」
かねて食料自給率に問題を抱える連邦では、南洋に新たな耕地を。無人島を基点として、人工的な浮島を連ねて大きな人口島を造ろうという計画が進行していた。
「あかん、あかん。まだ基礎理論の構築段階や、それに理論が完成しとったかて実地始動は何年も先の話や」
「問題は土地ってよりも浄水だね」
「しかし、それは裏返すと、数年あればいけるんだね?」
「まあ、報告やとそうやね……で、なに、またぞろ、何か陰険なこと考えてはるん?」
茶化すように言う。
「陰険とは心外だが、そういうことだ。それは交渉……正確には、詭弁だが。敢えてそれをリークする」
真顔で言う。意図するところは聞く二人にも解かった。
「つまり、『今、連邦は農耕地を増やす研究を進めてます。もうちょい待ってたら、それもひっくるめて手に入りますよ〜』ってな感じで完成するまでしばらくの間、侵攻を思いとどまらせよてか?」
「ああ」
「そいつは、可能性はあるかもしれないけれど、そう、上手くいくかい。あの陸上万歳の阿呆どもが、海の上に耕地を作ろう、人工の島を作ろうってな事業の意義を理解すると思うかい?」
「それ以前にや、もし侵攻を留めても飢えるのに変わりはないで? 完成前に飢え死にせんか?」
「無論、解かっている。真意は別に有る」
ぞして馬はそれについて、己の意見を語る。
「――ふん、えぐいな。まあ、ええわ。次の議題に移ろうや。報告、行ってるよね、お二人さんの方へも?」
「ああ」
「異界からの客人かい」
「そうや、それで、扶桑大学の方が言うには……」
その後もなお元老達の会議は、天帝の御前にていつ果てるとも知れず続いたのだった。