『長谷部郁三郎』
1
パチパチ、カタカタと鳴る乾いた音が、その落ち着いた風情の部屋にゆっくりと染みこんでいく。
伝統的な扶桑の建築様式に特徴的な畳敷きの部屋である。
床にはしっとりとつややかな光沢を放つ黒檀の座卓が据えられている。その上に置かれた個人用の卓上電算機に向かって軽快にキーボードを叩く一つの影があった。上品で精緻な透かしの彫られた欄間から差し込む昼下がりの柔らかな光が作り出すそれは、一見して爬虫類に似た形、大型の蜥蜴を擬人化したような姿だった。
どっかりと胡坐をかくのは蜥蜴人。その前かがみに直立した蜥蜴に似た姿から、その名で呼ばれる種族である。
より正確には、蜥蜴――爬虫類ではなく、肺魚に似た真胎生の硬骨魚類の一種が陸上に適応進化したものであり、魚類の系統樹上にこそ存在する種族であるが、古来より蜥蜴人と言い習わされている。彼ら自身によってすらも。
ともあれ、その先祖が魚であれ、蜥蜴であれ、どちらであっても疑いようがないのは、その身を鱗に覆われた知的生命として、彼ら蜥蜴人が人類の一角を占める種族であるということであろう。
そして、今ここで、ぽちぽちキーを叩くのは、一見して随分と高齢の蜥蜴人であった。
彼が蜥蜴人の一員であることの証としてその身に鎧った鱗の色も、生来柔らかな灰茶であったものが今ではすっかり光沢を失い、ところどころに剥げ落ちてもいる。そして、その半ば禿げ上がった鱗の代わりにその身体を覆うものは、纏った特別あつらえの甚平であり、鼻にはちょこんと老眼鏡が乗っかっている。それが燻銀の煙管を咥え、時に紫煙を燻らせながら一心にタイプする姿には、どこかユーモラスで不思議な味わいがあった。
ふい、とその蜥蜴人の老人はキーボードを打鍵する手を一瞬停めて、向って左に置かれた卓上電話機の受話器を持ち上げると、そのまま流れる動作で受話器を耳元にやることもなく「トンッ」と机の上に下ろしてしまった。
着信を知らせるベルの音が響いたようには聞こえなかったのだが、それは確かに鳴り響いていた。
多種族には聞こえないが蜥蜴人には最適の周波数を持った超音波の――いや、蜥蜴人にとっては最適なものを超音波と呼ぶのはヒトの驕りだろうか――電子音声が老人の耳には喧しいくらい盛大に聞こえていた。
だが別に鳴り響く音を邪魔だとして切った訳ではない。そんな無作法な真似はしない。この電話は基本設定でハンズフリーになっていた。その証拠にスピーカーからは活発に声が聞こえて来ていた。
「長谷部文学部長。そろそろ午後の会議のお時間です。紫雲館一階、第一会議室までお急ぎ下さい」
少し甲高いがはきとした発声で感じの良い声である。だが、それもどこか無理につくったような甲高さではあった。老人もよくよく聞き知った扶桑大学の事務員の声である。
種族的特性で低音が聞き取りづらい自分のために、わざわざ常より高い声で話しかけてくれる心遣いに快いものを覚えながら、どこかとぼけた感じに返答する。
「おや、もうそんな時間かい?」
そう言う間にも打鍵する指の動きにはいささかの淀みもない。その上で画面隅に表示されている時計に眼をやると、確かにその通りの時間であった。
「解かった。もう少しで今やっている仕事が一段落つくからね、そうしたら向わせてもらうことにするよ」
蜥蜴人にありがちなヘリウムと酸素の混合気体であるヘリオックスを吸った時のような甲高い声に、加齢から来るしゃがれ具合も相まって、独特の愛嬌を持った声で「直ぐに向う」と快諾する。
「はい、それと……」
そう、事務員は呟き、少し躊躇いがちの咳払いを一つくれる。
用件はそれで終りかと思われたのだが、電話越しに感じられるその気配からすると、まだなにか他にあるようだった。それを受けて蜥蜴の老爺が促すに、意を決したように告げてくる。
「天文学科の崔教授と地理学科のモリエール教授から、連名で意見書が提出されておりますが」
「――むっ」
少し顔をしかめたのは、伝えられた内容のせいか、それとも驚いて思わず打ち損じてしまったためであったか。
崔教授とモリエール教授。その専攻こそ微妙に違えど、共に扶桑大学有数の――それはつまり、「世界でも有数の」と言うこととほぼ同義なわけであるが――占学の大家である。占学とは卜占の術を高度に発展させたものであり、言ってしまえば科学的に予知を為そうとして研究を続ける学問分野である。
その二人が同時に、それも連名で上司である自分に意見書を認めて来たなどと徒事ではなかろうと思われた。
殊に、天文と地理はどちらも星の――それが天の星と地の星の違いこそあれ――事象を通じて、国家規模・世界規模の行く末を読み解くことを得意とする占学の体系である。
きっと大事であろうし、いよいよもって不穏でもある。であるが、だからと言って「嫌な予感がするから聞かぬ」と言う訳にもいかない。それでそんな気分を打ち消すように努めて陽気な声音で告げた。
「さても、どうにも君がカッサンドラかなにかに思えてきたよ」
冗談交じりに、西方の国々の伝説に伝わる不吉なる破滅の予言を告げる宿命を負わされた悲劇の王女の名を持ち出す。それに対しては、ご愁傷様ですとでも言いたげに、くすくすと笑みの滲む声で「申し訳ございません」と。
「いやはや。それこそ君に言っても詮無いことで、戯れを言ったね、私の方へ転送してもらえるかい?」
それに彼女も労いの心情の籠もった声で「はい」と廻してくれる。一先ずそれまでの仕事を脇にやって、自分のところへ転送されて来たその意見書に眼を通す。
「――これは、また、何とも」
案に相違せず、それはあまり芳しくない先行きを告げるものであった。
への字口に銜えた煙管を弄くりながら苦い顔で溜息一つ、「困ったもんだ」と呟くと、その毛と言うものが存在しない眉を歪めて、しばし何事かを思案する様子で目蓋を閉ざした。
そして、やがて目を開くと、取り敢えず先ほどから続けていた作業に戻り、それをさっさと仕上げてしまう。
それで会議室へと向うために立ち上がる。さっと立ち上がろうとして果たせず、慌てて目の前の机に両手をつくことで、どうにか転倒をまぬがれる。ちょっとした立ちくらみがあったのと、自分で思ったよりも脚に力が入らなかったせいだ。
それで、「いやはや。まったくもって、困ったもんだ」と、自嘲混じりに冷や汗を拭い拭い独り言つに、
「――いよいよもって、私も老いぼれてきたかね」
研究や事務仕事に没頭した後は、ついつい己がとうに九十を過ぎる――これを、多くの種族の平均として、しばしば基準とされるヒト。すなわちホモ・サピエンス種の哺乳類系人類の年齢に換算するならば、七十を幾つか超えた――老骨だということを忘れてしまう。
ヒトに比べればほんの少しだけ長命であり、肉体的な衰えも緩やかなものであるが、どちらにせよ、それでも結構な年寄りであることには違いない。
彼のように頭脳労働を主とする者としてみれば、老若はあまりその働きに関係ない。どころか往々にして年経るほどに思考能力は重厚さを増していくものである。無論、頭脳の働きが鈍らなければ、だが。
そして、今のところ彼にはその種の心配はいらないようであったし、まだまだ心身ともに頑健であり、老け込むような気もさらさら無かった。
だが、それでもやはりここのところ、若い頃と比べて、いやついほんの数年前に比べてさえも気ばかり焦ってどうにも身体が言う事を聞かなくなってきているような気がする。
「人間、年はとりたくないもんだねぇ」
しみじみ、そう呟くと、両の太腿を叩き、「えいやっ」とばかり気合を籠めて、今度こそ確かに立ち上がる。
彼――《細く長い渓谷の主チュヴァの第三子イギゥィィー》。扶桑名を長谷部郁三郎は、肩と首を廻すようにして軽く凝りをほぐすと、己に割り当てられている副総長執務室を足早に出て行った。
どうして、自嘲する言葉の割には矍鑠とした動きである。こうして見ると、先ほどのは加齢による衰えよりもデスクワークでの疲労こそが主であるのかもしれなかった。
2
扶桑大学は大陸の東端に位置する『天土大瑛紗国四邑統蓉聯邦』のこれまた東、瑛紗地方の東南東海上に浮かぶ三日月の形為す扶桑列島の州都水城の郊外に存在する。
十を超す学部に分かれる扶桑大学は瑛紗連邦の最高学府であって、それを収める為の学舎もまた複数存在した。
そして、此処は大学の副総長を兼務する長谷部郁三郎が学部長を務める文学部の学舎である。
先ほど部下から報告のあった不吉な情報の誘った憂鬱を、軽く吹き散らしてくれるような麗らかな陽気の日だった。
その清々しい空気の中、朗らかな青空から振る光のシャワーを浴びながら美味そうに煙管を咥えた郁三郎が、己の執務室の入った棟から会議室の存在する棟へと向かって気分良く歩いていた。
歩いていて、その途上でふいに、「さて、何であろうか」といった調子で首を傾げる。そんな、気分の良い午後の閑静を木端微塵に叩き壊してくれるような絹を裂く叫び声が聞こえたのだ。
お祭り好きや酔狂な趣味人の集まったこの扶桑大学にあっては先刻の静けさの方がむしろ異常事態ではあるが、流石に叫び声などときな臭いものは通常聞こえてはこない。
いや、実のところはそれが怒号や黄色い叫びならば、まま聞こえて来りもするのだが、それが恐怖の叫びに、人ならぬ異形の咆哮、などと云う不穏極まりない音ときては、如何にこの大学の放送部が酔狂だとしてもBGMに選ぶまい。
いや、やはり郁三郎としてはこの毒気のキツイ扶桑大学の奴輩ならば選びかねない気もしたが、この場合はそうではなかった。声の聞こえて来た方向へと向かって、老人としては充分に速やかと言える速度で現場に駆けつけた郁三郎の眼に、羽の生えた異形と、暴れるそれをどうにか拘束の魔術で押さえつける数名の学生の姿が飛び込んで来た。
「――む、これはまずいな」
その押さえつける力と押し出ようとする力とは、一見すると拮抗しているようである。だが、郁三郎には判った。このままではじきに学生たちの側が力尽きると。
そして、間もなくそれは現実のものとなった。魔術の呪縛より異形が解放たれる。
歪み拗くれた角を両の蟀谷から生やし、それの扁平に肥大した角翼でもって空を飛ぶ。それはどこか見るものに細身の牛のようなイメージを抱かせる存在だった。こいつは牛の持つ愛嬌などは欠片も備えなかったが。
これなるは異界の生命体。此岸とは異なる理によって支配された生態系。突如、違う世界環境に呼び寄せられて殺気立ち、加えて力で押さえ付けられた怨みに猛り狂っている。激情に任せ、手近な男子学生にその頭部を叩き付ける。
叩きつけ、男子学生の胸骨が砕ける一瞬前。
飛怪はその横っ面を何物かに叩きのめされて、攻撃の意志も虚しく標的を打ち砕くこと適わず弾き飛ばされた。
郁三郎の放った《気弾》である。
気弾とは魔術の一種。それも、魔術とも呼べないような代物である。体内にて魔力に昇華しきれず沈殿している未分化の《気》を束ねて放出する技術である。本来は術者の健康を損ねぬように、溜まった気の老廃物を積極的に排出する技法であるが、それを敢えて溜め込み弾丸状に練り上げて叩き付けたものだ。
牛のような外貌の異界の魔獣は「ぶるる、ぶるる」と更なる怒りの唸りと共に立ち上がる。軽く殴られた程度の衝撃に過ぎなかったのだろう、ダメージらしいダメージを受けているようには見えなかった。
だが、それで良い。郁三郎としても元々これのみで倒そうだなどとは思っていない。どころか倒す気もない。ただ怒らさせて生徒から自分へと標的を代えさせるためであったのだから。
企図した通り怒りに任せて自分へと向って猛然と飛び込んで来る飛怪を悠然と眺めながら、ぷかっと、煙管を離した口から一際盛大な紫煙を吐き出すと、続けて常日頃のこの老人らしからぬ鋭い声で真言を放ち、口訣を唱え、呪を禁じる。
「――帰命頂礼。《光明神》アチュー・ギニ・シュラフォを観神し奉る。その威令を以って御身の配下、諸部の鬼神、万象の精霊、天魔の衆に号令を発し奉る。縛妖除煩の《善導童子》、神授の索もて、妖を縛れよ――」
『――縛妖索!』
右手にした己の魔術武器である煙管でもって飛怪を指し示し呪を発動する。
瞬転、郁三郎の身体に朧な二重写しとなって短躯単眼の蜥蜴人の幻影が顕れる。
郁三郎が《観神》した煩悩・悪鬼を縛り上げ、悟りへと善導する《光明神》アチュー配下の護法鬼神である。それが手に持った索、すなわちロープを放り投げると、それは速やかに物質化して飛び行き、飛怪をがんじがらめに縛り上げる。
《観神》とは、心に神を想う事。
それを通じて魔力を練り上げ、神の姿を現実世界に象る。その顕現した神の象形を通して梵より来る神威を振るい、魔術を行使するのが、郁三郎たち蜥蜴人の神学者の営々として研磨してきた技術である。
殺傷能力こそ無いが重石や金剛螺環ばりに強靭な魔力の綱を以って対象を捕縛するこの『縛妖索』は、郁三郎の最も好む魔術の一つとして常に彼の魔術的意識野に起動直前の状態で展開されている。
なぜならば、その殺傷能力が無いと言う点こそが、彼の性向にも合致し何かと便利であるためだ。
縛り上げられた飛怪を見やって洞察する。「使役対象を縛る、召喚の鎖が不完全なのだな」と。
この種の生物は主に異界より魔術的に喚起された生物である。その面では彼らこそ被害者であると言えるかもしれない。そんな彼らを前後の状況を知らず、ただ怪物であるとして問答無用で折伏するような趣味は郁三郎には無かった。
飛怪をがんじがらめに縛り上げてこちらの世界へと定着させている魔術的な見得ざる鎖を素早く辿り、召喚主――これは学生の一人であったが、彼からその握っている部分を、つまり飛怪に対する支配権を手早く奪取してしまう。
無論、郁三郎としても無駄に情けをかけた結果として殺されてやる気も、驕って生徒などの周囲に被害を及ぼさせる気もないので已むを得ぬ場合は殺しもするが、可能な限りは無力化し、それが異界から召喚された生物であればその支配権をもぎ取って送還してやるのが彼の流儀だった。
だが、これは本来こうして口で言うほどに簡単なことではない。
そして、この場合は結果が証明しているように覆しがたい実力差が厳
として存在した。
「帰りたまえ」
ただその一言で、この世界の理と云う、《存在》を縛る鎖は解かれて、速やかに本来の因果律に取り込まれ、元あった世界に戻っていく。それほどまでに彼の言葉に籠められた言霊は強固であった。
鮮やか、と云う言葉さえも未だ拙い、そんな卓絶した腕前である。
あたふたと大慌てであった学生たちも、その自分たちとは比べようもない熟達の神業に、ただもう、ぼうっとして、口を半開きにしたり眼を丸くしたりして、言葉もなく見つめることしか出来ない。その眼には明らかな感歎と驚愕があった。
この年老いた碩学が瑛紗連邦の最高学府である扶桑大学の、文学部で学部長を勤めるほどに優れた研究者であるのは解かっていたが、実際の戦いに際しての技量がこれほどとは思っていなかった。否、もっと言えば有体に言って貧相な老人と侮っていたのだ。
それが明らかに手加減した上で異界の怪物をあしらうずば抜けた戦闘能力と、それを可能にする胆力とを見せつけたのである。侮っていた分驚きも一入であったろう。
郁三郎はそんな呆けた様子の学生達に眼をやると、いつもの飄々として、いかにも人好きのするとぼけた好々爺と云った感じからは思いもよらぬ険しい顔で詰問する。
「ふむ、君たちは……召喚学科の学生だね」
確認する。なにせ、扶桑大学もこれで大所帯である。複数ある学舎の学生・教職員を全て併せて数万人。彼が学部長を勤めるこの文学部諸学科の学舎だけでも数千人は越えているのだ。とてもではないが全員を把握は出来ていない。
「それで、何回生……あ、いや、それよりも、だ。
あの種の異界生物の召喚は、担当教授の監督下以外で行うことは禁止されているはずだが一体どういうわけかね?」
お巫山戯や冗談を好むことは扶桑大学の学生・教職員とを問わずに共通する習性のようなものだが、生死に関わるような事態、これはいただけない。もし故意に行ったものであれば、悪戯としても質の悪い、あまりに悪質なものである。
「幸いにも、死傷者は出なかったようだけれど、状況如何によっては厳罰に処さねばなるまいね」
いささかきつい調子でそう断言する。
それで、ハッと顔を青くしたのが学生たちである。「そうではないのだ」と「自分たちはあんなものは喚んでいません!」と熱心に状況を説明してくれる。
曰く。
「――ただ、ちょっと暑かったんで、勉強がてら《水界》から清水を喚び出そうとしたんです」
避暑の打ち水の水遊びに、たわむれに水を招いて喉を潤そうとしたと言うのだ。それで、あながち責任逃れの言い訳でもないらしい。本当は、それがただの水であれ、軽々しく何かを異界から召喚するというのはあまり褒
められた行為ではないのだが、そこまで追求するほど郁三郎も野暮ではない。聞かなかったことにしておいた。
それに何よりも次の言葉が気になったというのもある。
「最初は上手く行ってたんす……あ、いや、行ってたんです。それが、急に水界との回路に変な歪みが発生したかと思うと、そこからアイツが湧いて出たんです。慌ててみんなで押さえ込んだんですけど、自分たちの技量じゃほとんど効果がなくて、単に怒らせるに終ったんですよ、そこに教授が……」
やって来て、瞬く間に片付けてしまって、そして今に至る、と言うわけだ。そこまで言って、ぶるっと震える。たまたま郁三郎が駆けつけなければ大怪我を、下手をすれば死んでいたかもしれないのだ、と今更ながらに気付かされたのだった。
郁三郎としては、その魔術と言うものが持つ恐ろしい側面を思いがけず思い知らされて怯える学生達を見ながら「これに懲りて、学究の道を諦めたりしなければ良いのだが」と思う。
そしてまた、「歪み、かね?」その単語がどこか引っ掛かった。
「はいっ!」
「――歪み、歪み、召喚陣に、空間の歪みねぇ……ふむ、そういうことかね」
此処を先途と学生が熱心に頷けば、方や郁三郎は納得が言ったとばかり、奇妙な節回しで歌う様に呟き、大いに頷く。
「え、解かるんですか!」
「――まあ、ね」
単純に「凄い、凄い」と無邪気に感心する学生に対して、そうどこか歯切れ悪く少し曖昧に頷く郁三郎の脳裡には、詩文の一節のような一つの文句が浮かんでいた。
―――今しも、天には兵乱の兆たる軍神の紫旗がはためき、地には荒ぶれる九頭なす竜がのた打ち回る―――
これこそ両教授が連名で告げてきた言葉の骨子だった。
軍神の紫旗とは《蚩尤旗》と称される異常天体現象の事で、それは地に起こる兵乱の前兆とされている。そして、地の九頭竜とは龍脈であり、龍穴である。それが異常に乱れているという事は、色々な原因が考えられるのであるが、今回、両教授の見立てでは最有力は空間の異常。具体的に言うと異界からの客人が訪れたかもしれないというものだった。
「――さて、これは既にその影響が及んでいる。時空間に揺らぎが生じているということかね」
はて、といった調子でもう一度煙管を咥えると、雁首の先、火皿に新しい刻み煙草をいそいそと詰めて《火呪》でもって点火する。それもまた、単純きわまる術であるが、魔術であるのには変わりない。そんな、今時ライターを使った方が遥かに早く楽なところを敢えて魔術を用いるのが彼一流のダンディズムであった。
であったが、そんなことは当今の学生には通じなかったらしい。見咎めた学生があれっと呟く。
「あれ、教授。駄目ですよ、構内は禁煙じゃないですか」
「――むぅ。……まあ、野暮なことを言わんで。ほれ、そういう事を言えば君たちのやった水の召喚だって、禁止……はされていないが、褒められた話じゃないね、と注意する野暮を犯さなければならなくなるじゃないかね」
そして、顎の下の、冗談交じりに《逆鱗》などと称される喉を守るための一際大きくい鱗を撫でさすりながら、
「――まあ、あれだ、野暮天はいかんよ、野暮天は」
つまり、「お互い見なかったことにしようじゃないか」とそう言うことだろう。言いながら、しぶしぶといった調子で袂から携帯用の灰皿を取り出すと、一瞬何ともいえない表情を浮かべて名残惜しそうに灰を落とす。
そうして悠然と「ああ、そうだった、遅刻、遅刻」と会議室へと向うのだった。
3
会議室へと向う途上。
火の入っていない煙管の雁首と吸い口を繋ぐ竹の部分、羅宇の三分あたりでぽんぽんと首を叩きながらこの後の会議に議題として挙げるべき案件について考える。
「先ずは何はなくとも宰相閣下始め、元老の方々に上奏せねばなるまいね」
扶桑大学そのものは、扶桑邦からも瑛紗連邦からも、半ば独立した一個の自治体ではあるが、決して政治と無関係というわけではない。どころか、国策を決する重要な構成要素の一つである。
そして、郁三郎には扶桑大学の副総長を兼務する学部長の一人として、元老院や内閣に対する意見書を通じて国政に参与する義務が存在した。
また、幸いに扶桑大学が扶桑国主家の橘家の援助を受けていることもあって、現在の連邦宰相の位にある扶桑親王、橘有良とは一再ならず面識があったし、加えて元老家の筆頭、馬家とも個人的なコネがある。
「そのためにも急ぎ上奏文を作成せねばならないし、ああ、それに調査班の選出と派遣に、対策班の編制をせねば」
崔教授にしろモリエール教授にしろ研究者としての色が強すぎて、その意見書には正直なところ門外漢には理解しづらいところがあった。それを解かりやすく噛み砕いて上奏分の形式に沿った定型文に起さねばなるまいと考える。
また、言ってしまえば異界からの異分子にしても、兵乱の兆にしても、どちらもある程度の推測は可能であるが、現状に於いては一体何が起こっているのか正確なところは掴めていないに等しい。
だからこそ、先ずはそれらが果たして連邦に害を及ぼすものなのか、そうでないのかを調べる必要がある。
必要があるのだが……そこで郁三郎は少し溜息を吐く。
役人には肝心の知識が欠けていて、大学関係者の多くには社交性と政治的配慮が欠けている。場合によっては、いやほぼ間違いなく外国にも派遣せねばならないのに其処で学内のノリで行動されては外交問題を起しかねない。
まさか自分が赴くわけにもいかないし、「どいつを送った者か」とそこが頭の痛いところである。
今回の事に限らず、ある程度世馴れた連中は己と同じく年寄りであったり、その実態が亡命者のせいで連邦の外に出られない人間が多い。健康で政治的背景のない若者は世間知らずだ。
「なんとも象牙の塔の弊害だね、これは」
かねてよりの懸念にあらためて顔をしかめながら、ぽつりと、もう一度呟く。
「――今しも、天には兵乱の兆たる軍神の紫旗がはためき、地には荒ぶれる九頭なす竜がのた打ち回る、か。先のグザテルスの崩壊よりちょうど八年。《冥》、《月》、《炎》、《水》、《風》、《雷》、《土》。そしてまた《冥》。《冥宿》より発した天帝の輿は七曜の宿を順に辿り、今再び《冥曜の宿》へと還った。ついに時は此処に至り、彼奴等が再び動き出したのか…」
そして、後に続く言葉の語気を少しずつ強めて行く。意図せざるものではあるが、それが却って郁三郎の身の内に渦巻く情念の激しさを表していた。
憤りだ。
大陸の北方。かつて八大国の中にあってさえも、その雄として繁栄を誇ったグザテルス帝国。それが一夜にして滅び、今や廃墟国の忌み名を以って呼ばわれ、人民の口の端に上る事さえも憚られるようになったのは、何ゆえであったか。
一般には異常なる数の怪物の襲撃によったものだとされている。
そうだ、確かに怪物の襲撃も存在した。だが、それは恐るべき力に追い立てられ、使役されたものたちに過ぎないという事を彼は知っている。
聖都として民衆の崇敬を集める聖教国の地に、聖者然として坐しながら、その実は人知を超えた怪力を以って人の世の裏で暗躍する超越者たち。驕り高ぶり、気に入らぬ国を、不都合な人を《天罰》よと称し、滅ぼして省みぬ。
そして郁三郎は、終には静かな、断固とした意志と怒りを籠めた声で、虚空を睨みつけ宣言した。
「冥界に蠢く醜悪な天兵ども、座して人類がお前達の支配を、滅びを享受すると思うでないぞ!」