『蜘蛛と絵描き』


「あいたたた、いいかげんに手が痺れてきたよ」
 木々が繁る森の中、暗い黒の短髪に朽葉色の帽子を被せた森人が、逆さまの状態で蜘蛛の糸に絡めとられて宙吊りになりながらぼやきました。痛い、だるい、のぼせそうだ。左右の手で代わる代わる、帽子が落ちないように抑えているのですが、それもこれほど長くなると、疲れて痺れて痛くって、どうにも仕方がありません。
「ねえーねえー、蜘蛛のお姐さんー、悪魔さんー、美人さんー」
 オリヴィエは下の方を上目遣いに見上げながら、自分を捕まえている相手に呼びかけました。どうにか、相手を騙くらかすか、取り入って、逃がしちゃもらえないだろうか。地力での脱出は、もうとっくの昔に諦めています。
 えへらへらとしまりのないいつもの笑みも、今日は心なしか青ざめていました。
「なんや、エルフ?」
 優しげな笑みを浮かべながら、蜘蛛が応えます。上半身は、人間ともエルフとも判然としない顔だちの、古風な――オリヴィエの記憶だと、百年ほど前にワーグナーの高級娼婦の間で流行していたスタイルのドレスを着た妙齢の美人でしたが、臍から下の下半身は草原の野牛ほどもある巨大な蜘蛛でした。
 それも、尋常の蜘蛛ではありません。一対の色白で華奢な人間の腕に加えて、七対十四本の強靭な脚を持つ異貌の蜘蛛でした。脚を器用に折り曲げて、糸で編み上げたクッションに、優雅にもたれかかっています。
 間違えようもない異形でしたが、それはまた大変に美しい異形でもありました。
「えっとねー、そろそろ降ろしてくれると助かるなーなんて、あはは、思うんだけどなあ……駄目?」
 媚びるような声で、自分の下半身を雁字搦めに縛り付ける蜘蛛の糸を解いてくれるようにお願いします。
「おほほ。阿呆なことを言うたらあかん。罠に掛かった獲物をや、わざわざ放す猟師はいてへんやろ。蝶を逃がしたる蜘蛛もおらん」
 口元を上品に扇で隠しながら、ころころと蜘蛛は笑いました。
「えーっと、やっぱり、獲物なんだ。そうなんだ。うーん、どうしたものかな」
 やっぱり、これから、お姐さんのお昼になっちゃうのかしら、と困ったように唸ります。
「そやけど」
「え、なに、なあにー!」
 聞き逃すまいと必至に耳をそばだてます。
「黙って聞きや」
 言って、蜘蛛が十四の脚の一本で糸を弾くと、端で繋がっているオリヴィエがぶんぶんと揺れました。それが怖かったのか、途端にエルフは静かになります。
「あ、はい」
「そやけども、うち、人の肉はそんなに好きとちゃうね」
 食べないとは言いませんでした。
「ほほほ。なにせ筋と脂ばっかり多いし。特に、あんたら、エルフはあかん。不味いこと不味いこと、よっぽどお腹が空いてへんかったら、好き好んで食べとうはないんよ。そして、今は特にお腹は空いてないの、よかったねー」
 蜘蛛である悪魔は、笑いながら、一つの提案をしました。
「それよりも、久しぶりの人や、愉しませて。それで、面白かったら帰したる」
「えーと、どういうことかな?」
「逃がしたってもええ言うてるん」
「本当?」
「ほんま、ほんま」
 神妙な顔をして蜘蛛は肯きます。
「驚きに満ちた森の暮らしは何物にも代えがたいところやけれど、それでも、たまには人里の話が聞きとうなるん」
「面白くなかったら?」
「その時、考える」
「いい加減ー」
「融通無碍と言うて。あ、それと、話て言うたけれど、別に詩吟でも、楽曲でも、軽業でもかまへん。要は、楽しかったらええんやね。それで、エルフ。あんたは、何ができる?」
「えっと、そうだね。旅先の話なんかもできるけれど……うーんと、ああ、そうだ、こんなのはどうだろう」
 ポンっと両掌を打ち合わせた拍子に帽子が落ちました。
「なんや、落ちたで。さっきまであんだけ懸命に支えてたんに」
「やー疲れたしー。それに、よく考えたら、別に無理して被ってなくたって良いんだよね。別に、ハゲ隠してるわけでもないし」
「そうか」
「そうそう」
「そうか」
「うんうん……って、いつまでも頷き合ってても仕方が無いんだよね。じゃあ、そういうことで、お目にかけましょう、ジャジャン!」
 言いながら、腰の鞘から小剣を抜きました。妙な体勢のせいで、抜く時に一度落としそうになって、慌てたりもしましたが、どうにか無事に抜き放って、格好つけて構えます。宙吊りではまるで様になっていませんでしたが。自分自身、それは判っているのか、苦笑いを浮かべつつではありました。
 そして、構えた剣を何も無い空中で一振りすると、どうしたことか、オリヴィエを捕らえていた糸がスパッと切れました。
 当然、支えていた物がなくなったので、頭からまっ逆さまです。けれども、猫を思わせる身軽さで、落ちきる前に空中で一回転、すたっと地面の上に着地しました。
 剣を鞘に戻しながら、落ちていた帽子を拾って被りなおします。
「あれ、身軽なこと。風の魔術で糸を切った手際も大したもんやけれど、ようあの高さから飛び降りて、怪我の一つもなく着地した。ほほ、軽業を披露してくれるんやね?」
「いやいや、今のは前振りみたいなものですよ、お客さん」
 巣糸の観客席に腰掛ける蜘蛛を見上げて笑いながら、舞台に立つ芸人のような動きで一礼をします。
 それから、捕まった際に落っことしていた背嚢に近づくと、パレットに絵の具、紙束と一本の絵筆を取り出して、おもむろに絵を描きはじめました。
 淀みなく線を引き、色を置き、絵を完成させて行きます。
 画面の下半分を埋め尽くす花と花と花と花。
「花の絵やな。花畑……というわけでもないようやね。花の川を行く船か」
「花の海を行く船だね」
 描かれた花々は、花弁を揺らして流れるよう。その上に描かれた絵の船は、帆を広げて、風を受け、花の上を走ります。幻想的というよりは滑稽な面白みのある絵でした。
「精霊草」
 蜘蛛が言いました。
 筆を進めていたオリヴィエでしたが、あるところで、画紙を森の草の上に置くと、どこからともなく取り出した切花を画の上に敷き、何を思ったのか、そのまま続けて、地面の上に花を描き始め、じきに画中の花と森の花との境界線をなくしてしまいました。
 両の目と腰――通常の蜘蛛ならば、頭があるべき場所にある複眼を働かせて周囲を見ると、目路の限りに、次々に花が咲いていきます。花は揺れ動き、流れていきます。
「なんとまあ、見事な幻術だこと!」
 蜘蛛が叫びました。
 ついには絵の中から船が抜け出してきたのです。オリヴィエはひょいっと船の上に飛び乗りました。そして、そのまま船は進み続けて、蜘蛛の眼下で地面に描かれた花の海を一周すると、オリヴィエを乗せたまま、再び、絵の中へと戻っていきました。
 その後には、蜘蛛と一枚の絵が残りました。一人のエルフを乗せて、花の海を行く船の絵です。
 蜘蛛は大きく、拍手をしました。

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