造られた美人

縁側に置かれた素人の盆栽

と、言っても整形美人に非ず。

 人の造作の秀麗さを称える言葉は多々ありますが、その内の「人形の様な」という形容が意味するのは「完璧な美しさ」と「完璧さゆえの不自然さ」でしょうか。
 そういえば「お人形さん」と言う言葉には、言葉は悪いですが見目は良いがあまり頭の宜しくない(ぶっちゃけると悪い)少女や少年という含みがありましたね。
 つまりは自分の好きな様に出来るというのが一つの理想なのでしょうね、「自分はそんな変態とは違う」という方も多々あるとは思いますし、人間の全てが全てそうだとも言いませんが少なくとも私の中にはこの気配はあると自覚しています。
 ただまあこればっかりでは飽きも来るでしょうし、理性の部分が不要と訴えているので……あれです(何)

 生身の女性に幻滅し、己の理想と彫り上げた大理石の美女に恋をしたキプロスの王ピュグマリオンの伝説は広く知られるところです。
 これは一般に純愛として知られていますが、穿った見かたをすれば、人形愛好の性癖が古代ギリシアの時代には既にあったということを示唆します。

 私が好きなバレエの演目にコッペリアというのがありますが、これも人形に恋した男の騒動です(大分語弊あり、フランツは自動人形コッペリアを生身の少女と思い込んでいる)
 演出家によっては老人形師コッペリウスがフランツの恋人スワニルダに恋をして、それで彼女に似せて作った自動人形がコッペリアなのだ、という解釈を行っているものがあります、そして私もこれが正しい様な気がします。

 ところで、大清水さちという漫画家が『マリオノール・ゴーレム』という作品を書いてますが、これはコッペリアが下敷きになってますね……内容は全く違いますが。
 同じく、漫画家の藤田和日朗の『からくりサーカス』で一躍有名になった自動人形(オートマータ)ですが、創作上の存在ではなく、現実に17,18世紀にかけての錬金術師達によって広く作られました、勿論自律行動などしませんが(当たり前だ)。
 そう言えば自動人形というものは、「錬金術の都」プラハの錬金術師たちによって特に良く作られたと伝えられているのですが、もう一つの人造人間ユダヤの守護者「ゴーレム」もまたプラハの伝説に起源があると言われています。

 コッペリアの舞台はポーランドのガルシア地方と言いますし、「ロボット」もまたチェコ語で労働を意味するrobotaからチェコの作家カレル・チャペックによって造語されたものです。
 ギリシアもまた東欧ですからこの地にはなにか人造人間への憧れが強いのでしょうか?


 そうそう、絵(二次元)の方も古いんですよ。古いといってもギリシア神話に比べれば圧倒的に新しい明・清の時代ですが。
 蒲松齢の著した志怪小説『聊斎志異』の書痴<書中の美人>は書に挟まれていた栞に描かれていた美人に恋した男の話ですし、他にも出典が思い出せないのですが、漢籍に「画中佳人」という美人画の中の美人に恋をした男の話があった筈です(ただし、なにか別のものとごっちゃになってる可能性もなきにしもあらず)

 どっちにしろあまり「絵の中の美男子」はいませんね、(彫像が実は王子様ってのがありましたが、これは現代日本の少女小説ですからね、おまけにあくまでも呪いによってそうなっているだけ)女性にその手の欲望が無い、ってのはそれこそどこの幻想だって話ですから男性中心ってことでしょうかね……
 寂しい話ですが過去のことを現在の価値観でどうこう言っても仕方が無いわけで

 そういえば「幸福の王子」も意思ある人形(石像)でしたね、大分趣旨が違いますが。

 まあ、アニメーションや漫画の中の登場人物に萌える(私は既に半分カタギではないんですが、これは今ひとつ把握しきれない概念なんですが)という精神の働きは、言われるような現代の心の闇なんかではなく昔から人間が心に持っていたものがここ数十年のアニメ・漫画の発達(と人口の増加)で目立つようになっただけなのではないでしょうか。

 極論かもしれませんが写真やTV・映画の中の人物が好き(ファン)だっていいますがあれだって二次元ですよ、そういう意味じゃ絵と変わらないわけで。
 アイドルのブロマイドや美人画は明らかに芸術性云々の次元ではなく中身がどれだけ気に入るかですし(無論、優れた芸術性・創造性を備えたものも存在しえるが、それはあくまでも例外であろう)、昔の春画なんて全く写実的ではないです、だから最初は全く勃起しません(露骨な)、今でもしません、が慣れてきたのか艶めかしいなとは感じます。

 写実主義といわれる絵でもデフォルメはされています、デフォルメの程度の問題です。
 これは生身の人間を見た際に、脳が普通の機能として人間とはこういうものだとデフォルメをかけているからそのまま書くと「なんだこりゃ?」な事態になるわけです。
 逆に言うと手・足・胴・顔・目・口・鼻・耳・髪・・・etc.が適当な場所に配置されてると、デフォルメと錯覚の均衡が合っていれば人間に見えるわけです。

 誰だったか忘れましたがとある芸術家が「錯覚があるから芸術もあるんだ」というような趣旨の言葉を言っていました(続けて「猫には猫の芸術があるのかもしれない」とか)。
 アニメーションなんてそのものずばり錯覚のお陰ですしね。

 ……大分書いてるうちに最初の趣旨と離れてきました。
 この辺で筆をおくとします。
 言ってしまえばこれはオタクによるオタクの弁護です。

2006.01.04 |執筆
縁側の素人の盆栽

諸権利者.淡海いさな|落成.2006.01.04|定礎.2005.12.29