昔伝え
影森越え

 こんばんは。パッフェルベル錬金学院教授のアンソニーです。
 さて、皆さんはトコルデウスという人物をご存知でしょうか。
 類書のうちでもっとも著名な物の一つであり、学院でも採用している魔術戦の教本に、彼にちなんだ『トコルデウスの矢』というものがありますから、名前くらいは聞いたことがあるよ、という人も多いかと思います。
 それでも知らないぞ、という方のために簡単な説明をしますと、勇気凛々、戦技卓絶と知られた古代の英雄です。
 豪放磊落にして奇想に満ちた大法螺話《禿げ》のアプス・イディークの冒険譚や、悲運の双子《牛飼い》アラスと《槍使い》デールの哀しいお話、それに麗しくも恐ろしき暗殺者《見切り姫》トアンジェ(まあ、女性ではなく男性だという説もありますが)などと並んで、吟唱詩人たちが昔から、繰り返し繰り返し好んでモティーフとしてきた人物なので、そちらの歌物語の主人公としても有名です。
 これまで各地の風俗や習慣、事物の起源などについて語ってきましたが、本日は少し趣向を変えて、私が昔、エルフの古老から聞いたこの英雄にまつわる物語をお話しようかと思います。その古老――呪術的な観点から名前を秘しておられるので、その意思を尊重して名指しすることは避けますが、アルマース(金剛石)の氏族の方です。
 つまり、これはアルマース氏族の昔伝えだということです。
 では――
――お聞き、若木たちよ、一つ昔語りをはじめるとしよう」
 子と孫と曾孫とその子孫たちを、光を失って久しい目で見据えながら、苔むした枯木とも見紛う老女は口を開いたものです。
「五百に近いこの婆の、そのまた婆さまの婆さまが、そのお優しい母さまのぼってりと大きな腹に入りなさるよりなお古い時代、地上には古代帝国のこの字さへも見当たらず、今ではもう堕落したり燃え尽きたりして永遠に失われてしまったモノを含めて億万の星霊が満天を輝かし、後の世で魔王と呼びならわされる大悪魔たちが未だ精霊の座にあった頃の話だ」
 こんな風に物語は始まります。


 死の影を衣とする白の女王ブロンテが藍鉄の槍を携える力強き掌にて握り統治していた影の森を、カレルの子トコルデウスの駆る漆黒の荒馬スウエルがその母たる海の巌打つ荒波を思わせる勢いで飛ぶように駆けて行った。この日のトコルデウスは伝令であった。永く抗争の時代を過ごしてきたアウロスとキターラのこの偉大な二つの王国の未来を繋ぐ架け橋である。
 光り輝く青銅の剣と堅い革盾に身を鎧った荒武者たちが、緑の草原を赤い湿原に変貌させてしまう前に、アウロスの若王の想いをキターラの姫に伝えなければならない。それもただ伝えるだけでは不十分であった。姫の父親であるキターラの大王の許しを得なければならない。
 半ば妖精である強き英雄とその愛馬は早駆けに駆けた。
 風に揺れる金の髪が光を引きつけ、スウエルの黒毛はまるで闇のようだった。それは雷光の精霊もかくやの速さであった。それでもなお二つの国は遠く離れていた。トコルデウスは決意した。もはや、二つの国のちょうど真ん中、恐るべき白女王の支配する黒き死の森を抜けるしかあるまい。民衆はトコルデウスのすぐれた槍の手、巧みな太刀ぶり、弓を引き絞る力強さを愛した。だが、なによりも愛したのはその勇気をだった。この時もトコルデウスは馬首をめぐらせると、欠片ほどの躊躇いも見せずに恐れの森へと黒馬スウエルを走らせた。
 馬蹄が蹴り飛ばす朽葉の下から虫々が逃げ散り、葉叢の奥で名も知らぬ鳥が不気味な声で鳴いた。老人がその痩せこけた腕を振って、若者を差し招くように、楡の枝がゆらゆらと揺れ動いていた。
「待て、トコルデウス、草原の民よ」
 森に踏み入っていくらも経たぬうちにトコルデウスを制止する者があった。篠突く雨の打ち鳴らす、大岩の太鼓を思わせる力強い声であった。
「ここより先は森人の領域。白のエルフ女王ブロンテと黒の豚王メルヴィルが統べる薄暮の国。昼の国の住人であるお前が、何ゆえに立ち入るのか」
 鱗のような剛毛と、豚に似た頭を持つ戦士であった。当時も今も人間には作り出すことの叶わない藍鉄の鎖鎧と、ヒースの丘を脅かす大嵐にも似た音立てて振るわれる巨大な戦斧。このような堂々たる丈夫が二人もいるとは思われなかった。
「ダウルス。影森の大熊、偉大なる豚族(オルク)の勇者よ」
 トコルデウスは畏怖をこめて男に呼びかけた。この強き森の一族が、邪な闇に魅かれて道を過つ以前、未だ豚鬼(オーク)ではなく豚族(オルク)と呼ばれていた時代の義正しき勇者であった。
「どうか何も言わず、私を通してもらいたい。あなたがた森の民、森の国を害そうという意図を私は持たない。ただ早く、この森を通り抜けたいだけなのだ。この道行きには一組の恋人たちの将来と、二つの王国の運命が懸かっているのだ」
「トコルデウス、誠実な男よ」
 ダウルスが言った。
「お前の言葉に嘘偽りは微塵もあるまい。黒白両王の薄暮国を害そうという意思のないことは明白だ。真実、お前はただこの森を抜けねばならないのだろう」
「では、通してもらえるのだな」
 トコルデウスは言った。それにダウルスはかぶりを振った。
「だが、トコルデウス、光の原の英雄よ、それはお前たち草原の民の都合に過ぎぬ。俺はこの森国の武士(もののふ)として、断りもなく立ち入るものを追い払い、森を突っ切ろうなどと考える不埒な輩を叩き潰さねばならない。先ほどお前はただ通り抜けたいだけだと言ったが、それこそまさに言語道断、王庭を荒らす無法と知れ」
 森守の誇りに賭けて、それを許すわけにはいかぬと、厳しい声で糾弾した。
「どうしても駄目なのか」
 紫摩の金糸の髪を持つ若者は、憂わしげに夜闇を思わせる漆瞳を伏せた。
「くどいぞ」
 湖の深みを思わせる豚族の紺青の瞳に苛立たしげな色が浮かんだ。もはや問答は無用と促すように必要以上に荒々しい手つきで戦斧の柄を、コツコツと二度叩いた。
「きっと頭の良い者ならば、そっとお前を森の出口まで導くのだろう。そうすれば危難もなく、多くの者が救われるのだろう。そうだ、俺はこれが愚行だと知っている。だが、この上もなく愉快な愚行だ。そして、なにより俺はこれしか知らぬ武辺者だ」
 ダウルスは吼えた。いまや瞳には苛立ちを覆い隠す喜色が満ちていた。
「さあ、剣を構えろ。お前も英雄と呼ばれたほどの戦士ならば、解らないはずがあるまい。武技の限りに死力を尽くして競い合う生死の端境の恍惚の境涯、強敵との戦いの昂揚を」
 トコルデウスは秀麗な面差しに僅かに苦みを添えた。頑迷なダウルスの態度に困惑したのではない。胎の底で燃える強敵との死闘を求める心、豚族が吐露した度しがたい熱狂と同じものが、自分の中にもあるのは確かだった。そのことを自覚するからこそ苦しむのだ。王の頼みを誉れと思いつつ、しかしそれが戦働きではないことに、内心不満を覚えてはいなかったか。
 トコルデウスは馬上で鞘を払い剣を構えた。父である妖精カレルから授けられた剣で、銘を〈ダーシェンカ〉といった。かつて巨人の首を一刀で切り飛ばした恐るべき魔剣で、今その破壊の切先が向かう先はダウルスである。
「ようやくその気になったか」
 刃の先で、ダウルスはぶるりと身体を震わせると、呵呵と笑った。戦斧を振り被り、迎撃の姿勢を取る。
「「はっ!」」
 駿馬スウエルが石火の勢いで豚族に迫り、迎え撃つ巨躯の勇者が嵐斧を振るった。両雄が交差し、激突する。
……なんだと!」
 ダウルスは愕然として叫んだ。彼の戦斧は盛大に虚空を切り裂いた。打ち負けて、仕損じたのではない。そもそも打ち合うことすら出来なかったのだ。激突する直前、トコルデウスが剣を引き、スウエルの脚を別の場所に向けたのだ。
 ダウルスの呆然とする様は、かつてないものであった。今、この時に彼に刃を向け、矢を射掛ける者がいれば容易く討ち取ることができただろう。歴戦の勇者がそれほどの衝撃を受けていた。
「トコルデウス、このペテン師の破廉恥漢めがっ! 戦士が戦士の挑戦を避けるだと」
 しばらくの自失から立ち戻ると、彼は顔を憤怒に染めて大声で叫んだ。そして、振り返ると全速で走り去るトコルデウスと彼の馬を追って走り始めた。
「許せ、我が愛馬よ。私はお前を卑怯者の乗騎にしてしまった。だが、私はここで倒れるわけにはいかず、たとえ倒れずとも、あれほどの勇者との戦いは、私とお前から森を抜け、キターラへと向かう力を奪い去ってしまうに違いないのだ」
 苦い笑みを浮かべながら、トコルデウスは愛馬に話しかけた。それは自らに言い聞かせているようでもあった。先ほどまで後方を追い走ってきていたダウルスの姿も、随分と前から見えなくなっていた。
「どうやら振り切ったようだな……ダウルス、彼にも申し訳ない事をした。挑戦をすかされるなどと、どれほどの屈辱だろうか」
 その時、些細な違和感を感じた。霊感が導くままに剣を抜き放ち、死角から飛来した斧の一撃を受け流した。
「良い勘だ、そして良い馬だ。ここがもし草原であったならば、俺はけして追いつけなかっただろう。だが、ここは森の中だ。たとえ霊馬といえども全力で駆けられるはずもなく、なにより、俺たち森人ほど森の事を熟知しているものはいない」
 そう嘯いたのはダウルスであった。森人のみが知る抜け道を通り、先回りしたのだった。
「俺はお前を追う間に考えた、草陰に隠れ潜む間にも考えた。お前に剣を取って戦う意思がなく、お互いの戦士の誇りを曲げてまで逃げるのならば、それで良い。俺は逃げるお前を追いかけよう。俺の斧が走り去るお前を捉えれば俺の勝ち、逃れきったらお前の勝ちだ」
 そう叫ぶとダウルスは、竜巻のような勢いで斧を振るい、身をひるがえすと再び森の深みへと消え去った。
「なんということだ」
 トコルデウスは呻いた。いつどこから現れるとも判らない森人の一撃。それが与える重圧は、ことによると一騎打ちよりも重く、危険なように思われた。


 速き馬スウエルが森を駆けた。
 強き豚ダウルスが後を追った。
 海霊の胎より産まれて地を馳せること一日千里の馬を駆り、トコルデウスは影森を抜けた。嵐刃の傍らに迫ること十と一、剣と斧とを合わせることは三度を数えた。その度にスウエルはよく主の期待に応えた。吐く息も荒々しく、森に木霊する馬蹄の律動も乱れるほどに疲れ果て、しかし、けっして倒れることなく追手を引き離した。
 その時、トコルデウスは卒然として悟った。森の出口は近い。この戦いの終わりが、もうすぐそこまで近づいている。自分でもどうしてそれが判ったのかは解らなかったが、彼は確信した。ダウルスは必ずやってくるだろう、自分はそれを凌がなければならない。
 トコルデウスは愛馬の鬣を、荒れる馬上であたう限りに優しく撫で、スウエルはそれに応えていっそうに早く走りだした。
 風を切り、梢を砕き、一挺の斧が飛来した。大樹を断ち割る雷霆(らいてい)もかくや、ダウルスの投じた斧こそ鏑矢である。それは、まさしく最後の戦いの合図であった。ダウルスは大音声で叫んだ。
「戻れ、我が斧よ!」
 命じられた斧が、トコルデウスを襲うようにして飛び戻り、やがて使い手の掌に戻った。
「《地の精霊王》が一なる眷属、我らが導き手《積み重なりて蓄えるモノ》黒の豚王メルヴィルに掛けて。我が手に宿るは大熊の力、我が足に宿るは速鹿の力、我が耳目に宿るは耳梟の力ぞっ!」
 ダウルスが走り、襲い掛かった。その速いこと、強いこと、鋭いことは、人が為せるものとはとても思われなかった。
 トコルデウスは歌を謡った。草木に呼びかける呪力を秘めた魔法の歌である。
 草が従い、木が応えた。繁茂する草の葉が足を刈り、伸びた枝が視界を覆い、草が生え、花開き、木が動いて道を閉ざそうとした。ダウルスもまた、走りながら謡った。彼がうたうのもまた草木に呼びかける魔法の歌だ。二人の呪力は拮抗した。
 魔法を競わせ、速さを競い、追うものと追われるものとは駆け続けた。
 そして、ついにダウルスの斧がトコルデウスの首を捉えようとした時。豚族の勇者は斧を止めた。
 スウエルの前脚が、影森を越えたのだ。
 それを認めるや、ダウルスは斧を止め、音高く吼えること一度。黙然として背を向け、影森の奥深くへと消え去った。
 その後、トコルデウスとスウエルの主従は草原を走り、国を渡り、キターラの大王の許へと赴いて、彼の姫とアウロスの若王の思いを遂げさせたと伝えられている。

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