『星菫』
文:淡海いさな 絵:和泉優香

 ミュージシアという大陸がありました。
 一口にミュージシアといっても、細かくはミンヨウやエンカ、ロックなど、いくつかの地方や国家に分かれているのですが、これはその内のクラシクと呼ばれる所のお話です。
 このクラシク地方は古くはクラシク王国と呼ばれていて、王国というからには王様が直接全土を治めていたのですが、色々とあって現代では王様の支配から自立した都市がたくさん存在していました。クラシク地方の東半分がそれにあたります。
 大小の街々はそれぞれがそれぞれに自らの道を歩む独立したものではありましたが、お互いに協力する事を約束しあい、今では《都市同盟》と呼ばれる従姉妹同士の関係にも似たゆるやかな共同体を形成していました。
 その中の一つにパッフェルベルという街があります。広大なカノンの草原(くさばら)から、だんだんと緑が深く、背高になっていってフォニーの森が形作られるそのかたわらに、母親に寄りそう子供の無邪気さと恋人とふざけあう少女の快活さ、木蔭で思索にふける賢者の穏やかな諦念を宿してのんびりと立つ街でした。
 この日のお空の様子は良好で、鮮やかな青が八に明るい白が二というところ。草木と水と土の匂い。それにお日様が混じった風の吹く暖かい春の一日です。
 街の中からは白い煙。煮込み野菜や肉入りシチュー、焼きたてパンの美味しそうな匂いが風に混じります。お昼ごはんの支度をしているのでしょう。
 この頃ますます大きくなった工房通り商店街に小さな影が落ちました。影はゆっくりと進んでいきます。空を飛ぶ鳥が落とす影にも似ていましたが、少し違うところもありました。空を見上げる人間がいればすぐにわかったでしょうが、影の持ち主は女の子でした。空を飛ぶための翼を持った女の子です。
 彼女は翼族に特有の白鷺(シラサギ)めいた真っ白な翼を羽ばたかせながら、「うんしょ、うんしょ」と大きな籠を両の手に吊り下げながら飛んでいました。遠目には悠然としたものでしたが、ここまで重たい荷物を抱えて飛んできたからでしょう、むぅーっと少し疲れた様子できょろきょろと、しきりに周囲を見回しました。
 しばらくしてお目当ての物を見つけたようで、うんっと満足そうな笑顔を作りました。
 具合の良さそうな《止まりの塔》を見つけたのです。
 それは年輪を重ねて宝石化した背の高いハルサァドの妖精樹(ドリュアス)を加工した《止まりの塔》でした。
《止まりの塔》というのは、家々の屋根よりも少し背の高いくらいの標柱で、街中を飛び交う翼族が疲労した時に羽を休める為にある、言うなれば街の鳥の止まり木です。見ず知らずのお屋敷の煙突や屋根に腰掛けるのは無作法ですからね。それに次に飛び立つ時に、高くてしっかりとした足場というのはとても助かるものなのです。
 少女はばさっと大きく空中で羽を打って方向転換すると、いまだ生命力を失わない、藤色の小さな花を咲かせる妖精樹の梢に降り立ちました。
 少しだけ休憩です。
 太陽の光を受けて輝く薄い灰色の枝はとても美しいものでした。翼の一族にはきらきらしたものが好きな人が多いのですが、彼女もやはりそうでした。枝に腰をおろしていると、身体を包み込んでくるような灰色の光。自分の髪と同じ色をした咲き誇る花を眺めていると、疲れもすっかり吹き飛ぶようでした。

イヴと星スミレ


「このお花からじゃあ、染料は取れないのかなあ?」
 そんなことを呟きながら、籠一杯のスミレの山から一輪の星スミレをそっと抜き取り、陽の光に星の花をかざしました。
「スミレの色も綺麗だけれど、これもこんなに綺麗なのに」
 星スミレの夜空のような色も良いけれど、これはきっと明方のお空のような暖かい色に違いないのにと残念に思いました。
 唇をとがらせ、前後に足を振りながら、なんとなくぷらぷらと手にしたスミレを揺すっていると、少し強い風が吹きました。
 少女はちょっと慌てて姿勢を直しました。すると、その拍子に、ぽろりと花を落としてしまいます。
 彼女はあっと思って、はらはらと花が落ちていったパッフェルベルの街を見下ろします。
 そして、ちょうどそのときです。
 
 リィーン、ゴォーン、リィーン――
 
 街の中心の高台に建つパッフェルベル錬金術学院の鐘楼から響いてくる、優しく、力強い音色が、春のぽかぽか陽気に重なって、上機嫌な街並みを包みました。



☆★☆★☆

 パッフェルベルには《学術都市》という異名があります。
 その名の通り、賢者と呼ばれる魔術師や学者、そしてそうであろうとする学生たちの街です。特にただ一言《学院》と呼ばれるパッフェルベル錬金術学院は有名で、街の人間は多かれ少なかれ、どこかで学院と錬金術に関係をもっていました。
 錬金術というのは、理論的な学問であるのと同時に、実践的な技術という側面を強く備えた魔術です。学院を卒業した錬金術師たちは、街角に工房を構えて、実生活に密着した依頼をこなすことを通して技術を磨き、知識を深めることが常でした。
 この街の中心街が工房通りという愛称で呼ばれているのも、錬金術師たちの工房が軒を連ねているからです。
 そんな錬金術師の工房の一つに、《古井戸(オゥルドウェル》と呼ばれる工房がありました。銀薔薇の蔓を編みこんだ籠様の看板が掲げられている真ん前に、とても古い時代の小さな井戸があることが名前の由来となっている、中くらいの大きさの工房です。
 吊り下げられた籠の中では、意図的に不安定な状態にされた地のマナが絶えず霧散と結晶化を繰り返していて、そのエネルギーの余波が柔らかな光となって明滅していました。光を閉じ込める蔓細工は蔓細工で、三輪の雪のような銀の花を咲かせています。錬金術に特有の《定着》の魔術が施されていて、いまだに瑞々しい薔薇の生命力が保持されているのです。
 その不思議な薔薇咲く蔓籠が、一見したところごく普通の民家といった風情のその建物が、まぎれもなく錬金術師の工房である事実をひっそりと、しかしきっぱりと主張していました。
「おじさまーっ。今日も星スミレの花を沢山もってきたよーっ!」
 元気よくそう言いながら、女の子が文字通りに飛び込んできました。先ほどの翼族の女の子です。えいっと中庭の小さな菜園に降り立ち、スミレがぱんぱんに詰め込まれた採取籠を地面に下ろします。
「ああ、ご苦労さま。しかし、これはまた、随分とたくさん採ってきたようだね」
 庭にこしらえた家庭菜園でせっせと鍬を振るっていた野良着姿の青年が、野良仕事の手を休めて少女を迎えます。ねぎらいの言葉をかけながら歩み寄り、籠の中をのぞくと満足そうに笑いかけました。日よけに被っている麦わら帽子のつばの下からエルフ族の耳たぶのない長細耳がひょっこりと現れて揺れます。おじさまと呼ばれていたり、口元にたくわえたヒゲの存在が、実際以上に年かさに見せていますが、その笑顔は意外と若々しいものでした。
 籠の中からスミレを一輪取り出して、陽にかざしたり指で揉んだりして、品質を確認しながら言いました。
「イヴ。疲れただろう。それに、良い刻限だな。作業は午後に行うとして、さきに昼食をとってしまおう」

☆★☆★☆

 お昼ごはんは春野菜とハムのサラダに、イヴが途中で買ってきた屋台のベーグルでした。それに飲み物としてリンゴジュースがついていました。少し塩味の利いた生地にシャキシャキとした生野菜が噛み応えがあります。先ほどまで畑に生えていたキャベツやフキノトウたちの、ちょっと苦みのある甘さは春の味です。
 春を噛みしめるように味わいながら、二人は食事と一緒に雑談を堪能しました。
「それでね、おじさま。この前街中でリディ君とペルちゃんを見かけたんだけど、おっかしいんだよ」
 イヴが大袈裟な身振りを交えて楽しそうに話します。話を聞くおじさま――オルランドの方も、愉快そうに、元気よく語られる少女の話に耳を傾けます。
「リディ君てば街中を一周も二週もしちゃいそうな勢いで歩き回りながら、『金髪の気配だー!』て大きな声で叫びながら、ぶんぶんと頭を振って周囲を見回してるんだけど、すぐそばにペルちゃん――ペルちゃんも金髪だよね、それにまったく気付いていないの。それで、ペルちゃんがちょっと寂しそうにシュンっとなっちゃって、声を掛けようかなって思ったら、そこにレオちゃんが通りかかったの。そしたら、リディ君『そうか、さっきの金髪の気配はレオだったのかあっ!』って、ビシイって音が聞こえてきそうな勢いで指を突きつけて、さっきよりもっと大きな声で叫んだの」
 指を突きつける仕草をして、少年の声色を真似します。
「それに、レオちゃんはびっくりしたような怒ったような顔して『なにを言っているんですか、君は。それに、すぐそこにペルセフォネさんがいるでしょうっ!』って言ったのね、そうしたら、リディ君てば、そこで初めてペルちゃんに気付いたみたいで、大慌てで謝るやら、挨拶するやらで、もう大変――
 話題は共通の友人たちです。ペルちゃんとはペルセフォネというエルフ族の女の子で、まだ五歳という幼さで錬金術を勉強している神童で、レオちゃんとはレオルディスという人間の若者。オルランドのことを『師匠』と慕うリディ少年の悪友でした。
――そう言えば、この前ディアロの奴がこんなことを苦笑いしながら言っていたな」
 ふと、オルランドがそれで思い出したと応じました。
「嬢がべそをかいて歩いていたから、どうしたと撫でるためにしゃがみ込んだら、どこからともなく飛びだしてきたリディに、自分が頭を撫でられてまいったとな。さてはその時か」
「んー、それは別の日じゃないかなあ、ペルちゃん、最後には笑ってたし」

☆★☆★☆

 真夏の湿原のような湿っぽい熱気が作業場を満たしていました。
 そして、湿り気を帯びた濃密な草いきれを思わせるぷんとした匂い。かまどにかけられた寸胴鍋の中で、ぐつぐつとスミレの花が煮出されているところです。それは草原中のスミレをかき集めたような匂いでした。
 つけるように言われた口と鼻を覆う布の下で、ぱしっと鼻頭を叩かれたように、イヴはちょっと顔をしかめました。
「どうだね、凄まじい匂いだろう。色づくスミレの本質が、花の生命力がここに凝縮されて、表に出てきているのさ」
 笑いながらオルランドが言いました。言われたイヴはこくりと小さくうなずきます。花の匂いもこれだけ集まると、頭がくらくらしてきます。
「でも、あんまり綺麗な色じゃないよね。おじさま、これで大丈夫なの?」
 イヴが不思議そうに尋ねます。
「わはは、そうだな、正直でよろしい」
 実際鍋の中で煮られている液体は、たしかに紫色をしていましたが、恐ろしいくらいに色が濃く、おまけにかなり濁っていました。率直に言って汚らしい、泥水を思わせるものでした。
「このお世辞にも美しいとは言えない液体が、布や糸を染めた時、驚くような美しさを作り出す。これは実に不思議なことだ」
 オルランドにとって、それはいつ考えても驚異的なことでした。
「花の色香というものは普通一般に美しいものだと考えられているし、我輩も花は美しいと思う――と、少し火が弱いか」
 紅色のクズ魔力珠の欠片をかまどへと放り込みます。オルランドは抽出された液体の色を見て、匂いを聞きながら、かまどの火を細かく調節しました。花びらが底にたまって焦げつかないように、木ベラで鍋をかき混ぜます。あまり速く乱暴にかき混ぜると花びらが崩れて、色が悪くなってしまうのでゆっくりと慎重にかき混ぜます。
「だが、例の妖精(フェアリィ)なんぞと呼ばれる偏屈者どもに言わせると、日頃我輩たちが嗅ぎ、眺めている物などは、花のうわっつらに過ぎないんだそうだ。曰く、花が本当に美しいのは蕾をつけるその直前、未だ咲かぬ花の下に確固として、青く若い茎の奥底に秘められた植物の魂とでもいうべきものが、燦然と太陽にもみまがう明るさで輝いている時なのだ云々と」
「へぇーそうなんだー」
「美しさの本質とは目に見えぬ隠れたものだということだろう。そして、それが薄っすらと透けているものが花であるとな。もっとも、果たしてそれが見られたとして、我輩たちエルフや翼族にとっても素直に美しいと感じられるかは別の話なのだが」
 オルランドは鍋を指し示します。この染料の前段階としての抽出液のような物だということです。
「花になって、布に留まってはじめて美しいと感じられるように、人が自然の生命力を直視するのは難しい。特にこれは草原で風雨にさらされて育ってきたもの、力強さは一入だ――ふむ、そろそろか」
 頃合だと判断し火を緩めると、オルランドは戸棚の中から硝子の小瓶を取り出しました。大岩と巻きつく蔓草を図案化したラベルの張られた茶色い瓶です。
「それは?」
「地のマナを籠めた魔力珠を細かく砕いて粉状にしたものさ。魔力を付与するほどの力はないが、発酵を促進する触媒としては重宝する」
 染料の作製には、本来、数十日間の熟成と発酵を必要とするものです。それを特殊な製法で、短時日に仕上げてしまえるのが錬金術の強みです。瓶の蓋を開け、鍋の中に茶色い粉末を振り入れました。ゆっくりと大きくかき回していると、反応が始まりました。ぐつぐつとまるで沸騰が再開したようです。
「さて、少し目にしみるから、離れておきなさい」
 鍋の中から激しい煙が立ち昇りました。煙の中には星スミレの花が混じっています。きっと鍋の中から煙と一緒に立ち昇っていく星スミレの花は、やがて名前の通りに夜空のお星となるのでしょう。

遊戯室へ戻る
 Copyrights (C) 古井堂主人 淡海いさな(Isana of Ohomi ; The owner of Koseidou.) All Rights Reserved.